第9話 乙女は雨夜に運命を利する
「彼女の後見人を気取り、彼女の財産を横領するだけでなく虐げるなど、もっての外だ。それだけでなく、侯爵として振る舞う暴挙まで……許せないな」
そう告げて、璃人は呆れたように息を吐き出した。
ああ、怒っている。怒ってくれている。朱乃は璃人の強張る背中を見て、泣きそうになった。朱乃は璃人がさしてくれた紅金魚の簪に、そっと触れる。
両親が亡くなって叔父夫妻に引き取られてからずっと、痛みに耐えてきた。怒りと涙は枯れ果てて、受け入れるしかなかった理不尽を、璃人が否定してくれた。
朱乃は下唇を少し噛んで、顔を赤くして動揺する敬史を睨みつける。
「なにを言っているんだ、宝鞘家は
璃人は、混乱した敬史をまるで無視して朱乃に話しかけた。
「朱乃さん、前に宝鞘家が持つ侯爵位は結婚で従兄が持つことになる、と言っていたね。でもそれは誤りだ」
「えっ? で、ですが、わたしはただの女子相続人で……父から受け継いだ爵位は夫になる方が持つのではありませんか?」
「そこが誤りなんです、朱乃さん。朱乃さんが受け継いだのは、母君の爵位です。爵位は朱乃さんの母君の血統である三峰家についている。朱乃さんの父君が母君と結ばれたときに、母君の意志で爵位を宝鞘家に預けていただけの話」
そういえば、瑶慈もそんなことを言っていた。朱乃は暗い路地での記憶を思い出す。
「き、聞いていないぞ! オレは……オレが宝鞘侯爵だ、朱乃を娶りさえすればオレは侯爵……侯爵になれるんじゃないのか?」
「なれませんよ。朱乃さんは三峰侯爵家の
璃人がそう告げて、朱乃の手をそっと握る。
もう、怯えなくていいんだ。じわりと染み込んでくる璃人の温かさに勇気づけられて、朱乃は叫ぶように離別を告げた。
「わ、わたし……わたし! お従兄さまとの婚約を白紙にいたします。わたしの家から出て行ってください!」
「おい、朱乃っ! お前……!」
朱乃は璃人越しに、怒りで拳を振り上げる敬史を見た。思わず息を呑み、目を瞑って璃人の背中に隠れる。
すると、である。朱乃は突然、窓や壁が砕ける音に鼓膜を貫かれた。なにか大きなものが衝突したような揺れが屋敷を襲う。
天井に飾られたシャンデリアがぐらぐら揺れて、
砕けた硝子片が朱乃の頬を掠めて傷を作った。
なにが起こったのか、まるでわからない。怯えることすら失念して呆然とする朱乃を、璃人が横抱きにして部屋の奥へと連れ去った。
「
朱乃は璃人の肩越しに、宝鞘邸を襲撃したものの姿を見た。
黒く艶のない毛並み、ニタリと細まる黄緑色の目。夜に紛れてやって来たのだろうか。墨色の炎をまとう体躯はしなやかで、俊敏な四つ脚の肉食獣を思わせた。
禍いの獣というだけあって、前脚が触れた場所から腐食が進み、ぐずぐずに崩れていく。墨色の炎に触れたところはボロボロと焼けたように崩れ落ち、屋敷が傾いていく。
かつて敬史だったものが、
それらを見てしまった朱乃は、青褪めた顔で咄嗟に目を逸らす。
「朱乃さんの血に惹かれているのか……朱乃さん、ここにいて」
朱乃を
足元に転がっていた飾りの刀を拾い上げると、璃人は躊躇うことなく
「り、璃人さま……っ、に、逃げてください!」
「朱乃さん、君は俺が必ず守る。この約束は違えやしない。それにこの
璃人は刀を構えると、ひと回りも大きな黒い禍いへ向かって行った。
ひと息に踏み込んで、獣の体躯や黒炎に触れないよう身を躱す。まるで踊っているような体捌き。そうして、
刀が腐食して崩れるより先に、璃人の突きが通っていた。
その黒灰も、最後は猫のような姿を形取って、執念深くニタリと嗤うと、雨に打たれて溶けてしまった。
「朱乃さん、大丈夫? 傷を見せて……ああ、すまない。俺の異能は陽が沈むと使えないんだ」
「璃人さま、ありがとうございます。大丈夫ですよ、かすり傷ですから」
なんでもない、と言うように、朱乃は頬の傷を指で拭った。
朱乃の雑な仕草に璃人の顔が途端に曇る。なにか言いたそうに眉が寄せられる璃人を物珍しそうに見ていたところに、新たな声がした。
「お取り込み中、失礼。お迎えにあがりました、朱乃様」
いったい、いつから居たのか。それとも、たった今到着したのか。
崩れた窓から宝鞘邸に入ってきたのは、どこかで聞いたことのある声の若い男だった。
「神祇官……来るのが遅い」
「宮殿内の手続きに手間取っておりました。それは申し訳ありません。ただ——」
璃人に神祇官と呼ばれた男は、黒半紙の面をつけていた。
まとう狩衣も黒色で青みを含んだ
神祇官は長い息を吐くと、棘のある声で璃人に小言を投げた。
「璃人殿下、他の帝候補の方々のことも考えてください。抜け駆けは禁止です。いくら朱乃様に最後の日常をお贈りしたかったと言っても、これはない。
人差し指を立てて左右に振る神祇官が、どこか愉しそうだ。神祇官の宣言に、対する璃人の顔が苦々しく歪んでゆく。
それをジッと観察しながら、朱乃は恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……話が見えないのですが……もしかして、
「はい、ボクですよ」
神祇官——瑶慈は、朱乃の方を向くと砕けた口調で頷いて、黒半紙の面をチラリとめくって顔を見せた。
はじめて会ったときと、まるで違う瑶慈の態度に朱乃は混乱してしまう。当惑する朱乃を見た璃人が、口をへの字に曲げて首を振る。
「朱乃さん、こんな奴に『さま』をつける必要はない。朱乃さんを無理矢理連れて行こうとした奴だぞ」
「説明したところで、理解はされないでしょう。であれば、無理矢理にでも宮殿に招いてしまえば、と思ったのですが……朱乃様、ご無礼をお詫び申し上げます。重ねてお詫びとお願いを。事は一刻も争う事態となってしまいました」
瑶慈はそう告げて、朱乃の前で
「……わたしの家が
「はい。我が君——今上陛下の力が衰えています。今回は朱乃様の血が染み込んだ宝鞘邸が狙われましたが、次はどうなるか……。このままでは玄狼国は、
伏せられ隠された瑶慈の顔は見えない。見えないからこそ、その必死さや切実さが滲み出ていた。
「皇権移譲の儀を執り行うために、どうかお力をお貸しください。女神の血統、選定者さま。朱乃様には、新たに
瑶慈の真摯で切なる願いに、朱乃は狼狽えた。
誰かに頭を下げられたことなんて一度もないから、余計に戸惑った。今まで朱乃はずっと、膝を折って跪く立場だったから。
どうすればいいんだろう。自分の肩に玄狼国の未来がかかっている、だなんて。そんなの、困る。困るのだけれど、と思いながら、朱乃は助けを求めるように璃人を見た。
璃人は朱乃を静かに見つめていた。朱乃の選択を待っているのだ。
(もし、このままお誘いに乗ったら……璃人さまと一緒にいられるのでは……)
朱乃の心臓がドクリと鳴った。知らず知らずのうちにゴクリと喉も鳴る。
下心があるのは璃人じゃない、自分の方だ。朱乃は自分の浅ましさを感じて、息が詰まるような苦しさを覚える。
けれど、と思う。
朱乃は雨に打たれ、崩れた部屋を見渡した。足元の瓦礫や、穴のあいた壁を見る。飛び散る硝子の破片や、ささくれ立った木片が散らばった部屋を見た。
壊れた家で暮らすわけにもいかない。朱乃の財産は叔父夫婦に吸い取られ、形あるものとして残っていたこの邸宅も豪雨が後押しして倒壊しつつある。
これは、仕方のないことだから。
それに、困っておられるのなら、助けて差し上げなければ。
胸の内で揺れる焔が朱乃の想いを肯定するように、ぼわりと一瞬、燃え上がる。朱乃は時間をかけて瑶慈の申し出に頷いた。
「わかり、ました。よろしくお願いいたします」
朱乃の髪に飾られた紅金魚の簪が、しゃらりと揺れる。
深々と頭を下げる朱乃の耳に、璃人との出会いを作った黒猫の「にゃあ」と鳴く声が聞こえたような気がした。
気づけば雨は上がっていて、青白く輝く満月が、崩れた屋根の向こうから顔を覗かせていた。
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