第8話 最後の思い出

 家に帰らないことを選んだ朱乃を隠すように、雨がポツポツ降り出した。

 それまで距離を保って控えていた浮立が、紫一色の番傘を一本、スッと差し出す。ふたりは傘を共にして、少しでも一緒にいられるように、とゆっくりと歩き出した。

 これまでの逢瀬で、朱乃と璃人の距離がこんなにも近づいたことはない。

 それが余計に、璃人との離別を予感させて、朱乃の胸がシクリと痛む。


「朱乃さん、手を握っていいだろうか……」


 雨粒が落ちてまぁるい点が打たれたように色が変わってゆく石畳を歩いていると、朱乃に寄り添って歩く璃人が遠慮がちにそう告げた。

 朱乃は思わず目を瞬かせ、自分の手や身体、足に痛みがないか確かめる。

 痛みはない。まったくの無傷だ。朱乃は、璃人が陽が出ている間しか異能を使えないことをすっかり忘れて、首を傾げて璃人に返した。


「でもわたし、どこも怪我はしていません」

「……すまない、朱乃さん。俺が手を繋ぎたいだけなんだ、ごめん。どうか愚かな男の願いを叶えてくれないだろうか」


 朱乃は、璃人が恥ずかしそうにモソモソと告げる姿に、もう一度目を瞬かせた。

 よく見れば、璃人の耳の先が熱を持って赤く染まっているようにも見える。

 信じられない、こんな璃人ははじめて見た。朱乃は驚きのあまり言葉を失った。胸の内で燃える焔が、歓喜でチラチラ揺れ出した。

 本当に璃人は、朱乃から言葉を奪ってたまらない気持ちにさせるのが、上手い。

 だから朱乃は口を噤んだまま、そっと璃人の手に触れた。

 ほんの指先を掠める程度。その触れ合いを璃人は逃さず朱乃の手を捕まえて、ふわりと優しく握りしめる。

 すると、自分よりもひと回り大きな手に捕まって、朱乃の心臓がドキリと跳ねた。

 思わず息を止めてしまった朱乃の指に、次は璃人の指が絡む。きゅっ、とわずかに握られて、朱乃の全身が熱く燃える。

 まるで焔そのものになったみたい。朱乃はふわふわした足取りで、璃人とともに雨の皇都を目的もなく歩いてゆく。




 璃人とはじめて逢った日も、雨の夜だった。

 あの日と同じように、金魚燈篭や鬼灯燈篭が往来を飾るように色付いている。赤や橙色の灯の光と、金魚や鬼灯の形をした燈篭が幻想的な景色を生み出していた。

 石畳を行き、皇都を流れる川を越え、朱乃は見覚えのある通りを過ぎてゆく。

 その道行みちゆきが、璃人が朱乃をはじまりの終点に連れて行こうとしているように思えて、朱乃の胸をじわりと切なくさせた。

 朱乃も璃人も、いつの間にか口を閉ざしていた。黙ったまま手を繋ぎ、気づけば朱乃は弥栄橋やさかばしの外れ、朱塗りの明星橋のたもとに辿り着いていた。


「朱乃さん。女性から簪を贈ったときも、なにか意味はあるのかと俺が聞いたこと、覚えてくれている?」


 璃人はふいに話を切り出すと、朱乃と繋いでいた手を解いた。離れてゆく暖かさを求めて、朱乃の指が無意識に璃人を追いかける。

 いけない。これで終わりだというなら、せめて綺麗に終わりたいのに。

 璃人を求めてしまう手を反対の手で押さえながら、朱乃はこくりと頷いた。


「はい。ですが、あの……璃人さま。わたしが母の簪を渡したのは偶然で……」

「意味を込めて贈ってくれたものだったらいいな、と思ってしまったことを許して欲しい。すまない、君の母君の形見であることを知った今でも、君が俺の運命を握っていると知った後でも、そう思っている」


 紫色の番傘の下、あちこちで赤い灯を燈す燈篭の光を受けた璃人の横顔が、いつの間にか朱乃を見ていた。

 悩ましげに寄せられた凛々しい眉、切実に語る璃人の唇。

 朱乃は璃人の縋るような視線に射止められ、身体が痺れたように動かない。

 心臓の音が耳の奥で聞こえる。喉はもうカラカラで、気の利いた言葉なんてなに一つ浮かんで来ない。

 真っ白に漂白された頭で朱乃はどうにか返す言葉を絞り出した。


「璃人さま……あの、わたし」

「朱乃さん、これを受け取って欲しい」


 璃人が朱乃の言葉を遮った。まるで朱乃の否定的な言葉を聞きたくない、とでも言うかのように。

 そうして璃人は、朱乃の母の形見である玉簪がチラリと顔を覗かせている胸ポケットの奥から、一本の簪を取り出した。

 しゃらりと揺れる金魚の飾り。くれない色の見覚えのある簪だった。


「これは……紅金魚の飾り簪。わたしが見ていた、あの簪……あっ!」

「やっぱり、綺麗だ。よく似合っている」


 璃人は持っていた紅金魚の簪を目を丸くする朱乃の髪にさして、とろけるような柔らかな笑みを浮かべた。

 途端に朱乃の胸が、熱くなる。焔が揺れて燃え広がって、それまで璃人に抱いていた疑念や不信を燃やし尽くしてしまった。

 朱乃は、紅金魚の簪を欲しいと言ったわけじゃない。

 それなのに、綺麗だと見惚れていた朱乃を覚えてくれていて、わざわざそれを贈ってくれたことが、ただ嬉しい。どうしようもなく嬉しかった。

 ああ、どんなお礼をすればいいんだろう。朱乃が口を開けかけた瞬間、璃人は朱乃から言葉を奪うように、こう告げた。


「俺が、朱乃さんに渡したかった。俺の想いを込めたこの簪を、君に」


 朱乃はハッと息を呑んだ。贈られた簪がなにを意味するのかを。

 これは求婚か、それとも罠か。

 けれど、もしこれが、朱乃を利用するための演技だとしても、それでも構わない。璃人が自分をどう思っていても、もう、どうでもいい。

 利用するなら、すればいい。馬鹿な女だと笑われたって、構わない。

 朱乃の胸に植え付けられた璃人への疑念や不信は、燃え尽きて灰になってしまったのだから。


(わたしが璃人さまを恋い慕う気持ちは、わたしだけのもの。わたし、だけの)


 皇都の夜を彩る燈篭の灯が、雨の中で揺れている。

 璃人に贈られた紅金魚の飾り簪が、朱乃の黒い髪によく映えていた。

 朱乃は璃人に微笑みを返した。その笑みはどこか透明感のある微笑みで、どうにも儚い笑みだった。




 はじめて璃人と逢った日とは違い、細くなった雨はまだ降り続いている。

 ポツポツと番傘に当たって砕ける雨粒の音を聞きながら、朱乃は璃人に付き添われて宝鞘邸に戻った。


「璃人さま、送っていただいてありがとうございます。では、これで……」


 朱乃は玄関先でそう告げて、璃人に背を向けた。そうして敬史が待つ宝鞘邸の玄関ドアのノブに手を伸ばす。

 本当は、このドアを開けたくはない。待っているのは敬史の罵倒と折檻だけだから。

 でも、大丈夫。いただいた簪を心の支えにすれば、耐えられる。

 朱乃は痛みへの恐怖で伸ばした手が、指先が、細かく震えていることに気づいていない。

 すると、である。躊躇う朱乃の手に、後ろからにゅっと伸びた璃人の手が重なった。


「朱乃さん、約束したよね。君のことは必ず俺が守ってみせる。だから、信じて欲しい」

「あっ、いけません、璃人さま!」


 朱乃が止めるのも聞かず、璃人がドアを開けてしまった。開けたドアの先、土間より一段高い上りかまちで待ち構えていたのは、鬼の形相で仁王立ちした敬史だった。


「朱乃、言ったよなぁ。オレが帰るより遅くなるなって。ははあ、まさかお前、鞭に打たれるのが好きなのか?」


 敬史は下卑た後ろ暗い悦びを顔に浮かべていた。朱乃は敬史のその顔を見たくなくて、思わず俯き目を瞑る。

 そんな朱乃の背を、璃人がしっかりと抱き止めた。


「失礼、宝鞘殿。貴兄と貴兄の父君に話があって寄らせてもらった。部屋を用意してもらえるかな」

「あっ、アンタは……っ。おい、朱乃! なんなんだこれは、説明しろ!」

「説明は俺からしますよ、いいから部屋に案内してくれないか」


 どうやら敬史は、貴人である璃人には逆らえないようだった。朱乃を憎々しげにひと睨みすると、しぶしぶ璃人を客間に案内するのであった。




「宝鞘敬史殿。貴兄は朱乃さんと婚約している……間違いありませんか」


 璃人がひとり、黒柿色をした革張りのソファに腰掛けている。

 敬史が案内したのは床の間のある座敷ではなく、玄関脇に作られた洋間であった。朱乃には敬史の、早く璃人に帰って欲しい、という気持ちが透けて見えた。

 ソファに座り長い脚を組む璃人の姿を、朱乃は璃人の後ろから見つめている。

 敬史が、貴人らしく堂々とした璃人に気圧されているのが、朱乃の目にもよくわかる。


「ま、間違いなわけありませんよ。朱乃はオレのものだ。オレのものをオレの好きに扱ってなにが悪いんです?」

「朱乃さんは貴兄のものではないからですよ。朱乃さんは誰のものでもない、朱乃さん自身のものだ」

「璃人さま……」


 朱乃はたまらず、璃人の肩にそっと触れた。

 すると、すかさず璃人の手が伸びて、朱乃の華奢で細い指をそっと握りしめてくる。それだけで朱乃は救われたような気がした。

 それを見た敬史が、激高した。それまでしおらしくしていた態度はどこへやら。唾を飛ばす勢いで朱乃をなじった。


「クソッ! おい、朱乃。お前、大陸の貴人を垂らし込めばオレから逃げられるとでも思ったのか!? 家はどうする、ここはお前の親の邸宅だろ!?」

「やめていただきたい、朱乃さんに失礼だ。確かに俺は彼女にアプローチをかけていますが、それとこれとは別の話です。貴兄が過ちを犯す前にお教えしたいことがありまして」

「……は?」


 呆ける敬史に、璃人が冷たい言葉の刃を突き刺した。


「朱乃さんと貴兄の婚約は、成立しませんよ」





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