第7話 迷う心と焔

 悲鳴を上げる間もなく宙を舞う朱乃が着地したのは、柔らかい灰銀色の毛並みを持つ狼の背だった。

 狼の背に落ちた衝撃はさほどなく、ふかりとした感触と暖かさに包まれる。

 朱乃は自分を咥えて放り投げた狼に恐怖を抱くよりも、頼もしさと安堵を覚えて狼の首にしがみついた。


「天、狼さま……」


 朱乃を助けたのは、神秘的な青い目をした大きな狼——天狼だった。

 天狼の柔らかい背中で、朱乃はかつて両親とともに見た帝を思い出す。新年の一般参賀で天狼の姿を披露した今上陛下を。

 けれど朱乃は、すぐにその考えを否定した。

 冬の森を思わせる灰銀色の毛並みと、澄んだ空のような青い目。

 しがみついた天狼の首から香るのは、心の底から安心してしまうような、いい匂い。


「もしかして、璃人さま……? あっ……」


 朱乃を背に乗せた天狼が、顔を引き攣らせて天狼を見ている瑶慈をギロリと睨む。


「天狼の姿で……!? なにを考えているんだ、尊き姿を晒すような真似を! 天狼その姿は次代の帝候補の証だぞ」


 天狼は、狼狽える瑶慈にひと吠えすると、腰を落として四肢に力を入れ、瓦屋根を越える跳躍をした。

 そうして天狼は朱乃とともに、不吉な赤紫色に染まった都を音もなく駆けてゆく。




 逢魔が時。萩色に夜のあおを混ぜたような色が、空を禍々しく染めている。

 陽はまだ完全には落ち切っていない。彼方で鴉が鳴く声を聞きながら、朱乃は人気のない緑地公園で天狼の背から降ろされた。

 地面の硬さを足の裏に感じてホッとしていた朱乃を出迎えたのは、天狼を前にして少しも動揺していない浮立ふりつだった。


「ご無事でしたか、朱乃お嬢さま。我が主人あるじも怪我はありませんね?」

「浮立さま……あの、やっぱりこの天狼さまは、璃人さまなんですね」

「これから主人は着替えて参りますので、少しお待ちいただけますか。朱乃お嬢さまの疑問は最もです。ですから、我が主人から直接お聞きくださいね」

「は、はい……」


 なんでもないことのように振る舞う浮立の姿に朱乃は面食らう。

 浮立は璃人の抜け殻みたいな服の塊を抱えて、天狼とともに公園の奥にある森の中へと姿を消してしまった。

 ひとりになった朱乃は、彼らの姿が小さくなってから、ようやく長い長い息を吐き出した。すると、それまで張り詰めていた緊張が解け、朱乃の足がふらついた。

 朱乃は数歩たたらを踏んで、側にあった木製ベンチにしがみつくようにして座り込む。


(わたし、これからどうすればいいんだろう)


 瑶慈ようじが言うには、朱乃は次代の帝の選定者らしい。

 そんなことを急に言われても、信じることなど到底無理だ。第一、朱乃に選定者である自覚はなかったし、帝や璃人が持つような異能だってない。

 もし朱乃が女神の血を受け継いだ姫のすえならば、なにか異能があってもおかしくないのに、そんな気配もない。

 

(やたらと猫に好かれてご飯をねだられることくらいしか、思い当たる節がないのに)


 やはり、人違いなのではないだろうか。

 それでも朱乃が瑶慈の言葉を誤りだと断じることができないのは、朱乃を助けにあらわれた天狼——璃人のせいだ。

 璃人の言動が、朱乃に「もしかして……」と思わせている。

 朱乃は、これから人の姿で戻ってくるだろう璃人となにを話せばいいのかわからなくて、ただため息を吐くしかなかった。




 途方に暮れる朱乃がしばらく待っていると、公園の奥から璃人がひとりで戻ってきた。

 璃人の姿を遠目で確認した朱乃は、すぐに座っていたベンチから立ち上がる。

 助けてくれたことの嬉しさよりも、一日の中で二度も璃人に会えることのほうが、朱乃の心を踊らせた。

 けれど朱乃は、璃人が近づくに連れて視線を逸らし、俯き加減で口を開けたり閉じたりを繰り返す。

 なにを話せばいいのかわからない。

 それなのに、いざ璃人を前にした朱乃の口はスラスラと滑らかに動いて、当たり障りのない言葉を紡ぎ出した。


「璃人さま、助けていただきありがとうございました」

「朱乃さん、すまない。俺がもっと早く」

「璃人さま。今までのご無礼、誠に申し訳ございませんでした」


 朱乃はつい、うっかり。璃人の言葉を遮るように言ってしまった。

 しまった、と悔やみながら伏せた視線で璃人を見る。

 薄暗闇に包まれた璃人の姿は、急いで服を着たようでところどころ乱れていた。シャツのボタンはかけ違えているし、革靴だって踵が潰れている。

 そんな璃人に、思わず朱乃の心が疼いてしまう。

 自分をひとりにしないために、急いでくれたのかもしれない、と。

 璃人が天狼になれること——次代の帝候補であることは、知られたくなかった秘密なんじゃないか。それなのに、誘拐された朱乃のために、天狼の姿で助けてくれたのかもしれない、と。

 朱乃はまだ璃人の優しさを信じていたかった。

 信じていたかったからこそ、朱乃は璃人とのあいだに境界を引いた。今日を璃人との最後の逢瀬にしたくなかったから、物分かりのいい娘を演じた。


「次代の帝となられるお方に傷を治していただいていたなんて……恐れ入ります」


 朱乃の他人行儀な言葉を受けて、璃人の顔がサァ、と色を失う。


「朱乃さん、それは」

「いいんです。傷を癒していただけたことは本当にありがたいことですし、母の話は……璃人さまにも事情があったのですよね?」

「あ、ああ……」


 朱乃を見つめていた璃人の目があちこちにさまよい泳ぐ。

 それを見た朱乃は、璃人が母の話をしてくれなかった理由が、瑶慈に止められていたからだけではないのだ、と悟ってしまった。

 再開したときに「探していた」と言ってくれたのは、璃人の言葉がまだ拙かったせいだろうか。それとも、次代の帝の選定者としての朱乃を探していたのか。

 瑶慈から助けてくれたのは、朱乃に危害を加えられることを恐れたのか。それとも、瑶慈から璃人が朱乃を利用していることを話されたくなかったのか。

 聞きたいことはたくさんある。けれど、聞き出したいのに言葉は出ない。

 璃人は朱乃の言葉を奪うのが上手だから。

 聞いてしまって望む答えが返って来なかったら。利用していただけで気持ちはなかった、とはっきり言われたら。それが朱乃には一番怖かった。

 だから朱乃は、深々と腰を折り曲げて、璃人の顔を見ようとせずに頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」


 美しくお辞儀をした朱乃は、なかなか顔を上げられない。

 今は璃人の顔を見るのが、怖い。

 気づけば萩色の陽は落ちて、公園内に飾られ吊るされた金魚燈篭に灯りが燈っていた。夜の水面を金魚の灯がゆらゆらと泳ぐ。

 ああ、家に帰らなければ。でも、朱乃は宝鞘の家に帰りたくなかった。

 本当はもう、折檻の痛みに耐えたくない。罵倒されたくもないし、鞭で打たれたくもない。朱乃はただ、安心して眠りたかった。

 でも、家には帰らなければ。朱乃には気難しい婚約者がいて、一刻も早く帰らなければそれだけ折檻の時間が延びるのだから。

 璃人の正体や真意がどこにあるとしても、それだけは変わらないことだから。


「璃人さま、わたし……今日はもうこれで」


 朱乃が別れを告げて、璃人の顔をまともに見ることなく背を向けようとした時。朱乃の耳が、璃人の情けない呟きを捉えてしまった。


「俺は駄目だな。朱乃さんに言葉を教わったのに、上手く言葉が出てこない」

「あっ……」


 気づいた時には、朱乃は璃人の腕の中に囚われていた。

 ふわりと香る璃人の匂いが、朱乃の鼻腔をくすぐった。お日様のように暖かく、安心できるいい匂い。璃人の匂いだ。

 汗でびっしょり濡れて冷えた背中が、璃人の体温を感じてじんわり熱くなる。


「朱乃さんを奪われたくはない。君の婚約者にも、それ以外の男にも。今日はもう、家に帰したくない」


 璃人の切実な囁きが、朱乃の胸の内で揺らぐ焔を刺激した。

 いったい、なにを考えているんだろう。自分が一番わからない。朱乃は自分の胸の内で、息を吹き返したかのように勢いを増してゆく焔に抗えなかった。

 どうしてこんなことになったのだろう。自分が自分でないみたい。

 朱乃の中に、家に帰らない、だなんて選択肢はなかったはずだ。それなのに、こんな風に璃人に引き止められてしまっては、帰らないという誤った選択をしてしまいそう。


「い、いけません、璃人さま……」


 朱乃の抵抗は、まるで抵抗になっていなかった。か細い腕で璃人を押すわけでもなく、ただ口先だけの抵抗だ。

 だから朱乃はあっと言う間もなく、璃人の腕の中でくるりと身体を反転させられて、真正面から青い目を受け止めてしまった。


「朱乃さん、思い出になるような時間が欲しい」


 真剣で情熱的に揺れる璃人の瞳。これが真実でないとして、なにが真実か。

 その青い目に射抜かれた朱乃は、駄目だとわかっていても、気づけば「はい……」と頷いていた。





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