第6話 疑心と宿命

 気絶させられて誘拐された朱乃の意識が、ふと覚醒する。

 ぼんやりした目を開くと、影に溶け込むような呂色の背広スーツを着て、作り笑いを浮かべた細い黒縁セルロイド丸眼鏡ロイドメガネをかけた若い男が朱乃の顔を覗き込んでいた。

 短くも肥沃な大地の色をした黒い髪はうねうねと電髪パーマネントがかかっていて、丸眼鏡の奥の細い目を妖しく引き立てている。

 朱乃の背中は硬い石畳の上、見上げた空は橙色に染まっていた。そよふく風は湿っていて、雨の気配が混じっている。

 ここはどこだろう。彼方から男女が連れ立って笑う声が聞こえることから、弥栄橋の近くかもしれない。

 朱乃は自分を見下ろす男の事情や、自分が誘拐されたことよりも、弥栄橋からでは陽が落ち切る前に家には帰れないことに絶望した。


「へぇ、悲鳴を上げないんだ。わざわざ人払いしたのに無駄だったな」


 唇を噛み締めながらゆっくりと起き上がる朱乃に、男がつまらなそうに言い捨てた。

 今更、誘拐されたくらいで悲鳴など、朱乃が上げるはずがなかった。

 見知らぬ男と人気ひとけのない路地裏でふたりきり、という状況だって、朱乃の恐怖を駆り立てるには役不足だ。

 朱乃が恐怖を感じて身を竦めるときは、敬史が振るう長鞭の音を聞いたとき。だからこんなのは、なんでもなかった。

 どうせ陽が落ちる前に帰れないなら、と朱乃は思いを定めて男を睨んだ。この男は朱乃の首を圧迫する前に、璃人の名前を出したのだ。

 どんな理由で璃人の名前を出したのか。璃人の名前を出されたら、朱乃はもう引き下がれない。そんな想いが、朱乃の胸の焔を燃え上がらせる。

 男は気丈な朱乃の前にしゃがみ込み、骨張った長い指で朱乃の顎を掴んだ。


「宝鞘朱乃サン……いや、三峰みつみね朱乃サン。璃人殿下にどこまで教えてもらったの。知ってること、全部吐き出してくれる?」

「どうして璃人さまの名前が出てくるのですか。わたしはなにも、知りません」

「なんだ、まるっきりの無知か。璃人殿下が失われた三峰家の紋が刻まれた玉簪を持ってきたものだから……てっきり説明しているのかと思っていたけれど」


 当てが外れた、とでも言うかのように、男は朱乃から手を離し、うねる頭の後ろをガリガリ掻き毟る。


「なぁんだ、璃人殿下は律儀にボクの言いつけを守って、なにも話していないのか。それなのに、もう君の信頼を得てる。やるなぁ、璃人殿下」

「あ、あなたは誰なんですか。璃人さまとお知り合いのなのですか」

「ごめんね、まだ言っていなかったっけ。ボクは瑶慈ようじ。璃人殿下との関係? どんな関係だろうね。少なくともボクは、殿下の存在を認めていないなぁ。我が君が歓迎しているのが、またムカつくけれど」


 瑶慈と名乗った男は、がくりと肩を落として長く長く息を吐き出した。璃人の存在が心底わずらわしいとでもいうかのように。

 そんなことよりも、朱乃の頭は疑問符でいっぱいだ。

 どうして璃人は瑶慈に「殿下」と呼ばれているんだろう。どうして目のかたきにされているんだろう。

 その疑問の答えはすぐに得られた。朱乃は、瑶慈が憎々しげに吐き捨てる言葉を聞いてしまったから。


「我が君を殺すかもしれない相手、誰だって認められないでしょ」

「えっ? それは、どのよ」

「君はさぁ、こんなところにいていい存在じゃないんだよ」


 咄嗟に聞き返した朱乃の言葉を遮るようにして、瑶慈が無理矢理話を変えた。


「君にはもっと、相応しい場所がある。とはいえ、いきなり攫ってはいけない、と我が君に言いつけられているから……困ったなぁ、連れて帰っちゃダメかな」

「あ、あの、ごめんなさい……わたし、帰らなければいけなくて……」


 これ以上、このひととは話せない。話の通じなさと強引さを見せる瑶慈に危険を感じた朱乃は、どうにか理由を作って逃げようと後退る。

 けれど、そんなに簡単には逃げられない。震える朱乃の腕を瑶慈がわしりと掴んだのだ。


「どこに帰るの。あんな家、帰っていいことないでしょ。ボクとおいで。君は特別なんだから保護されるべき」

「い、いや……っ!」

「逃げるなよ。君だって、今上陛下の代替わりが近いって噂、聞いたことくらいあるでしょ。今の陛下には禍獣ケモノから都を守る力はない。一二〇年振りに皇権移譲の儀を執り行う必要がある。そのために国内外から資格のある者を集めた。次代の帝を、君が選ぶんだ」

「ひ、人違いです!」


 瑶慈の拘束から逃れようと腕を振って抵抗するも、非力な朱乃が敵う相手じゃない。返って瑶慈を刺激してしまったようで、朱乃を掴む手の力が増してゆく。


「い、痛い……」

「人違いなわけがあるかよ。璃人殿下が君からもらった簪。あれは三峰の女のものだ」

「……み、三峰? 先程からなんなのですか。わたしは宝鞘朱乃で……」

「家名に意味はないよ、大事なのは血だから。三峰の血を引く女の子供、豊穣の女神の子孫。それが君だ。君しか次代の帝を選べない。……まさか三峰最後の女が、こんなに無知で無防備だなんて驚きだけど」


 そう告げた瑶慈の細い目が、眼鏡レンズの向こう側でさらに細まった。

 ぞわぞわと寒気を呼ぶような視線に当てられて、朱乃の動きが止まる。金縛りにでもあったかのように、どこもかしこも動かない。

 朱乃を値踏みするかのような嫌な視線。敬史が向けてくる視線とはまた別種のいやらしさが、朱乃の全身を這う。

 ぶわり、と背中が汗を吹き出した。奥歯がカタカタ鳴っている。まるで蛇に睨まれた蛙だ。

 怯える朱乃に、瑶慈は唐突ににこりと微笑みかけた。


「ねえ、君。随分、璃人殿下を慕っているよね、君たちの出会いは偶然だったの?」

「……えっ?」

「璃人殿下ははるばる大陸から招かれた、次代の帝の資格を持つ者だ」


 瑶慈は、にこにこと笑ったままで続ける。


「君が否定しても事実は変わらない。君は選定者だ。帝になる資格を持つ者たちの中から、君が選んだ者が、次の時代を切り拓く帝となる」


 この先は、聞いてはいけない。朱乃の本能が、そう訴える。

 けれど朱乃は、眼鏡の奥で少しも笑っていない細い目に射止められて、瑶慈の言葉を最後まで聞いてしまった。


「つまり、君を籠絡すれば、帝の選定戦を有利に運ぶことができる、ってわけ」


 途端に面紗ベールでも被ったかのように、朱乃の視界が暗くなる。


「そ、んな……そんなこと、信じません」


 朱乃は否定するようにふるふると、力なく首を横へと振った。

 璃人は最初から朱乃に優しくしてくれた。

 お礼として渡した簪を返そうと、わざわざ紋を調べて訪ねてくれた。

 許されないことを知っていてまた会いたいと言ってくれたし、傷だらけの朱乃の身体を異能を使って癒してくれた。

 紅金魚の簪を当てて、綺麗だとも言ってくれたのに。

 ひとを誘拐するような瑶慈の言葉を信じることはできない。できないのだけれど、璃人の優しさがすべて、次代の帝選定を有利に運ぶためだったら。

 ああ、どうしようもなく胸が痛い。氷の刃が突き刺さったかのように冷たく、痛い。

 朱乃の胸の内の焔が、切なく揺れた。

 璃人を疑いたくない。朱乃を利用しようと優しくしたのではないのだ、と。彼の優しさを疑いたくない。

 けれど、内密にしてくれと言われた癒しの異能や、わざわざ本来の籍を捨てて玄狼人になった話、母についての真実を今は話せないと告げた姿が、朱乃の脳裏にぼんやりと浮かび上がって邪魔をする。


(わたしが選定者であることが真実なら、すべて辻褄が合ってしまう)


 はじめて会ったとき、朱乃は雨に打たれて酷い格好をしていたはずだ。そんな女に近づいて、優しくしてくれる男性がどこにいる?

 手渡した簪に刻まれた紋をわざわざ調べて訪ね、「探していた」だなんて告げる男性が、どこにいる?

 婚約者がいる人間にまた会いたいだなんて迫ったり、逢瀬のたびにわざわざ異能を使って傷を癒すだなんて、そんな男性がいるだろうか。

 露店に並べられた紅金魚の簪を髪に当てたくらいで、綺麗だ、なんて言ってくれる男性が、本当にいるだろうか。


(こんな……こんな見窄らしいわたしに、そんな手間をかける理由は……)


 朱乃が本当に次代の帝を決める選定者でなければ、ありえない。朱乃は璃人の野心を叶えるために利用されていたのかもしれない。

 そう思っても、朱乃の胸でちらつく焔はそう簡単には消えてくれなかった。どこまでも璃人を信じたかった。疑いたくなかった。まだ夢に浸っていたかった。

 朱乃の瞳はまぁるく見開かれたまま。言葉を失った口は閉ざされたまま。刻が止まってしまったかのように、朱乃は身じろぎひとつできなかった。


「信じるかどうかは、関係ないよ。君には生まれる前から課された役目がある、ってだけの話。それを為すのが、今だ」


 朱乃の胸を、投げやりで冷たい瑶慈の声が鋭く貫く。

 それでも反応のない朱乃に痺れを切らしたのか、掴んだままの朱乃の手を強引に引いて瑶慈が歩き出した。


「いいから来なよ、お嬢サン。劣悪な環境にいるよりマシだから」

「い、いや……、放して……!」


 無理矢理どこかへ連れて行こうとする瑶慈に、我に返った朱乃が抵抗の意を示す。

 けれどその抵抗は、まるで意味をなさなかった。

 朱乃は、びくともしない瑶慈の腕に引きずられ、いつの間にか路地の奥で止まっていた黒塗りの馬車の中へと引き摺り込まれそうになった——その時だった。


「ゥワォッ!」


 灰銀色の毛並みをした大きな狼がどこからともなくあらわれて、朱乃を柔らかく咥えると宙空へと放り投げたのである。





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