第5話 紅金魚の簪

 宝鞘邸の地下室には、折檻部屋がある。

 元々は食料保管室として利用されていたその部屋を、朱乃を折檻するために叔父が改造したのだ。鞭に打たれる朱乃の悲鳴が、外に漏れ出さないように、と。

 夜半を回った頃、ようやくその冷たい地下室から解放された朱乃は、痛む背中や腕をそのままに、這うように自室へ戻った。


『朱乃、お前は俺の婚約者だという自覚があるのか? 次にオレが帰宅するより遅く帰ってきたら、これ以上の罰を与えるからな』


 耳の奥では、敬史の言葉と長鞭が朱乃を打つ音がまだ響いている。

 昼間、璃人に癒してもらった傷や痣が、再び朱乃の身体に刻まれた。

 敬史は長鞭を振るうことに慣れていないようで、鞭が振るわれるたび、着物の下の朱乃の柔らかな肌に、ミミズ腫れや裂傷といった深い傷を残した。


「璃人さま、申し訳ありません……」


 せっかく癒していただいたのに、一日持たずに傷だらけ。

 朱乃は誰にも見つからないようにしまっておいた璃人のハンカチを取り出すと、力の入らない手で握りしめた。冷たいハンカチに温もりを感じて、朱乃の頬がゆるりと緩む。

 璃人の存在が、彼へ向かう小さな火が、今は朱乃の支えになっていた。


◇◆◇◆◇


「朱乃さん、あなた暇そうにしてるじゃない。お使いに行ってきてくださらない?」


 叔母にとっては嫌がらせのつもりなのだろう。

 けれど今はこのお使いが、朱乃がなによりも心待ちにしてしまう時間となった。

 朱乃は、浮かれて緩む顔を晒して折檻の理由を作らないよう、俯いて背中を丸めながら邸宅を出る。

 叔父も敬史も、朱乃がお使いに駆り出されている昼過ぎの時間帯は、中央省局に勤めていていない。

 だから朱乃と璃人の秘密の逢瀬は、あいだが開くことなく繰り返されて、璃人も今では浮立ほど流暢に話せるようになっていた。


「朱乃さん、手を」


 璃人は逢うたびにそう言って、朱乃の華奢な手を握る。そうして癒しの力を注ぎ、朱乃の傷を治してくれるのだ。


「璃人さま、いつもすみません……わたしが鈍臭いばっかりに」

「朱乃さんのせいじゃない。どうか気に病まないで欲しい。それに、俺は朱乃さんを癒したくてこの異能を使っているのだから」


 そう告げて、柔らかく頬を緩める璃人の胸ポケットには、母の形見の簪が飾られている。

 朱乃と逢うときは、いつもそう。

 璃人のさりげない優しさに、朱乃の胸にじんわり火が燈る。


「朱乃さん、痛みから解放される日は必ず来る。母君の話も、時が来れば話す。それまでの辛抱だなんて言いたくはないが、俺にできることは全部したいんだ」

「璃人さま、ありがとうございます。あの、お礼は……」

「いま、こうして朱乃さんと手を繋いで歩いていることが、もうお礼だよ。そうは言っても、朱乃さんの気がすまないことはわかっているから……」


 璃人は朱乃とともに、柳原の仲店通りを見て歩きながら、キョロキョロと首を左右に巡らせた。

 そうして見つけたある店を指差した。


「あの店へ行こう。一緒に行ってくれるかな、朱乃さん」

「はい、喜んで」


 璃人が朱乃を誘ったのは、仲店通りの片隅で簪を並べている露店であった。




「わぁ……綺麗な簪がたくさん」


 簪が並べられた台の前でしゃがみ込んだ朱乃は、色取り採りの簪を端から順にうっとりと眺めて、甘いため息を吐いた。

 猩々緋しょうじょうひ野点傘のだてかさの下。小さな木製の台にいくつもの簪が並べられている。


「璃人さま、見てください、この簪……」


 朱乃は頬を紅潮させて、隣で膝に手を当てて屈んでいる璃人を見た。その青い目は興味津々に簪を見つめている。

 璃人は、胸ポケットにさした朱乃の母の簪が、落ちて商品と混ざらないように片手で押さえながら、興味深そうに頷いた。


「そうか。この髪飾りは、簪、と呼ぶのか」

「はい、そうです。こうやって……まとめた髪にさして飾ったり、この簪一本で髪をまとめることもできるんですよ」


 朱乃は店先に並んでいた棒簪を一本手に取ると、店主に断ってから、紐でまとめただけの自分の髪に当てがった。


「凄いな……色々な形があるんだな。どれも美しい」


 自分のものではないけれど、並べられた簪を褒められて、朱乃はくすぐったそうに微笑んだ。

 露店に並んでいる簪は多岐に渡る。玉簪、バチ型簪、平打ち簪、くし形簪、つまみ細工の花簪と、あれもこれも素敵な飾りがついている。

 素材も豊かで、漆を塗った木や鍍金メッキを施した金属、鼈甲べっこうや象牙。飾りは翡翠や珊瑚、瑪瑙などの鉱石や、色取り採りの絹で作られていた。

 中でも朱乃が心惹かれた簪は、紅金魚が揺れる飾り簪だ。


「本当に綺麗……」


 朱乃が簪を指で摘んで掲げると、紅金魚に陽射しが透けて美しく輝いた。くるくると回して角度を変えれば、金魚の飾りの中で光が反射して、より一層美しく光って見える。

 赤い光は、朱乃の胸でちらちらと揺れる灯火ともしびのよう。朱乃はなにもかも忘れて、ただ紅金魚に見惚れていた。


「お客さん、連れのお嬢さんにひとつ贈ったらどうだね。玄狼人は、伴侶として添い遂げる誓いの証として簪を贈るんだ。あなたを必ず守ります、ってな意味を込めて」

「あの、違うんです。わたし達、そんな……」

「ありゃ、すまん。あんまりにもお似合いだったからさ。お嬢さん、心行くまで見てっておくれ。欲しい簪があれば、そこの貴人様におねだりするんだよ」


 店主は朱乃にそう言って、璃人に目配せをした。

 お似合いだなんて、そんな。途端に朱乃の顔が赤くなる。

 朱乃がチラリと璃人の様子を窺うと、優しい眼差しで見つめていた璃人とバチリと目が合ったから。朱乃の体温と心拍数は上昇するばかりだ。


「朱乃さん、女性から簪を贈ったときも、なにか意味はあるのかい?」

「わ、わたしが璃人さまに贈った簪は、あくまでも助けていただいたお礼ですよ!?」

「ふは、顔が真っ赤だ、朱乃さん。大丈夫、誤解はないよ」


 朱乃は璃人に揶揄からかわれたのだ。

 くつくつと肩を揺らして忍び笑う璃人の姿に、けれど朱乃は怒る気になどなれなかった。

 むしろ、誤解してくれていいのに、と思ってしまって自己嫌悪する。

 確かに璃人の存在は、優しさは、朱乃の支えになっている。けれど、朱乃には不本意とはいえ、敬史という婚約者がいる。

 だから、この胸の内で小さく燃える火は、あやまちだ。

 紅金魚の飾りが見せる赤い光とは似ても似つかない。まったく別の、卑しい想い。それなのに、燃え上がる火種が焔になるのを止められない。

 鼻の奥がツンとする。胸がツキリと痛む。なんて贅沢な痛みだろう。朱乃は甘い痛みを味わいながら、璃人に微笑んだ。すると璃人も柔らかく微笑みを返してくれる。


「綺麗だね、その簪。題材モチーフは金魚かな。このゆらゆら揺れている飾りが素敵だ」

「そうですよね、この紅金魚……とても可愛いらしいのに、とても綺麗……」


 自分とは違って、なんの気兼ねもなく愛されるために存在する金魚。よこしまな気持ちも不義もなく、ただ美しく輝く紅金魚。

 簪の飾りに過ぎない紅金魚が、どうしようもなく羨ましい。朱乃は自分の浅ましさに気がついて、浮かべた微笑みが凍ってゆくのを自覚した。

 けれど、である。

 璃人が朱乃が握っていた紅金魚の簪を手に取って、飾り気のない朱乃の髪に当てて囁いたから。


「朱乃さん、とても綺麗だ」

「璃人さま……」


 燃える焔がすべてを焼いて、朱乃の目にはもう、璃人しか映っていなかった。

 こうしていられるだけで、幸せ。

 朱乃はいつか来る終わりの日の予感すら焔で焼いて、束の間の幸福に耽溺したのである。




 朱乃と璃人の秘密の逢瀬は、初回こそ夕刻を過ぎたけれど、限られた短い時間で終わる。

 今日も幸せな気持ちで満たされた。朱乃は叔母のお使いの品を抱えながら、ふふふ、と小さく笑った。

 なんだか、とっても、くすぐったい。陽が落ちる前に璃人と別れて帰路についた朱乃の足元に、気づけば一匹の猫がまとわりついていた。

 足にじゃれついていたのは、小さな黒い猫だった。どこかで見覚えのある黒い猫。


「あら、あなた……もしかして、この前の?」

「にゃあ」


 黒猫の子供が、まるで朱乃の問いを肯定するかのように都合よく短く鳴いた。

 朱乃は黒猫に手を引っ掻かれたことを思い出し、ボサボサの毛並みを整えようと伸ばしかけていた手を引っ込めて立ち上がる。


「今はご飯、食べられてるの? 怖い目にあってない?」

「にゃぁん」

「こら、駄目よ。早く帰らないといけないの」


 黒猫は甘えるようにまとわりついて、往来の端を歩く朱乃の行手の邪魔をする。

 朱乃は、まるで往来の真ん中を歩かせようと誘導するかのような黒猫に、「こちらが近道なのよ」と従わず、ひと気の少ない路地に入ってしまった。

 陽が傾いていないとはいえ、暗い路地。早く通り抜けてしまおう、と朱乃が駆け出そうとしたその時だった。


「こんにちは、特別なお嬢サン。君、璃人殿下に近づきすぎだよ」


 見知らぬ男の声がしたかと思うと、朱乃は背後からまとわりついてきた腕に首を圧迫されていた。

 あっ、と思ったときにはもう遅く、薄れゆく意識の中で心配そうに黒猫が「にゃー」とか細く鳴く声だけが、朱乃の耳に響いていた。





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