第4話 逢瀬の約束
「朱乃さんが教えてくれるのか?」
朱乃の申し出に、璃人の青い目が大きく見開かれた。頬もわずかに紅潮している。
璃人は、決して表情のないひとじゃなかった。もしかしたら、上手く使えない言葉が壁になっていただけなのかもしれない。
はじめて目にした璃人の表情に、朱乃の心臓がトクリと音を立てた。端正な顔に表情が乗ると、こうも威力が上がるのか。璃人の変化に心を乱されて、朱乃の頬が熱く火照る。
璃人に玄狼国の言葉を教えるのは、不思議な力で傷を癒してもらったお礼に過ぎない。朱乃はそう自分に言い聞かせて、璃人の問いに頷いた。
「はい、お教えします。今日みたいに都へお使いに出た際に、偶然お会いして少しお教えするくらいなら」
「それでもいい。教えてくれ、朱乃さん。
切実さが滲む青い目が、午後の傾いた日差しを受けてキラキラと輝いている。
璃人は心底、朱乃の助けを求めていた。朱乃は璃人と出逢ってから今日まで、璃人には助けてもらってばかり。恩は必ず返さなければ。
朱乃はそう思うことで、敬史に知られてしまった際の危険を頭の中から締め出した。
「こちらこそお願いいたします。あっ、これはあくまでもお礼ですから」
「朱乃さん、今の『あくまでも』というのは?」
璃人の早速の疑問に、教師の真似事みたいな楽しさを感じながら、朱乃は頬を緩めて口を開く。
「それに限られますよ、という強調に使う言葉です。ですから先程の言葉を言い換えると……わたしが璃人さまに玄狼国語をお教えするのは、お礼の範囲を超えたものではありません、ということになります」
「わかった、ありがとう。朱乃さん、お礼の範囲を超えるには、どうしたらいい」
「えっ、そ、それは……」
朱乃はどきりと跳ねる胸を抑えながら、璃人の表情をジッと見つめた。璃人は、いったい、どんな意味で言ったんだろう。
言葉を教えること以外を求められているように思えて、朱乃の手のひらが汗を掻く。
どうしよう。素直に受け取れるはずもないのに、嬉しいと思ってしまっている。
心臓がきゅうきゅうと締めつけられて辛い。息も止まるほど苦しいのに、顔も手も熱くて熱くて燃えるようだった。
璃人は朱乃から言葉を奪うのが上手だ。そして、困らせることも。
「はいはい、そこまで。我が
「朱乃さん、『現金なひと』というのは? なぜ俺が
「自分の都合やメリットを考えて態度を変えるひと、という意味を持つ言葉……なのです、けど……」
「フリッツ、お前……!」
「いけません、我が主人。なんのために我々が祖国の籍を捨て、玄狼人になったかお忘れですか? 私のことは、玄狼国式に
璃人に詰め寄られた浮立はどこ吹く風だ。にこにこと微笑みながら、璃人に紳士のお辞儀までしているではないか。
朱乃はじゃれ合う二人を微笑ましく眺めながら、恐る恐る疑問を口にした。
「あの……璃人さまと浮立さまは、大陸の方ではないのですか?」
璃人と浮立は、どこからどう見ても大陸人だ。玄狼人にはない色素の薄い髪と目、手足が長く背が高い。璃人に至っては、玄狼国の言葉が覚束ないという。
これで大陸人ではなく玄狼人だと主張するのは、無理がある。
「朱乃さん、俺の
「ですから、今は玄狼人ですよ。家名も捨てました。まあ……移民、とでも言えばわかりやすいでしょうか。ここでしか成し遂げられないことのために、我々はいるのです」
朱乃は腑に落ちたように「そうですか」と頷いた。
幼い頃に朱乃が体験した帝の力によく似た治癒の異能。璃人が治癒の異能を持っていることと璃人の使命は、なにか関係があるのかもしれない。
きっと、わたしには縁遠いこと。興味を持ってはいけない。朱乃が節目がちに微笑むと、璃人に癒してもらった背中がズキリと痛んだ。
この痛みは警告に違いない。望まぬ婚約とはいえ、婚約者がいる身なのだぞ、と訴える警告だ。
境界を引くなら今しかない。朱乃は、痛みを隠して無理矢理笑った。
「御役目があるのですね。それなら尚更、わたしはわきまえて言葉をお教えしなければなりませんね」
「すまない、『わきまえる』とは?」
「でしゃばらずに適切な距離を保つ、ということです」
「なぜだ、朱乃さんはあの美しい髪飾りを持っていた。『わきまえる』必要はない」
首を横へ振る璃人の青い双眸に真剣さがきらめく。璃人の言葉と眼差しに朱乃の胸がざわついた。
どういうことだろう。璃人にお礼として渡した紅玉の玉簪に、なにが隠されているのか。朱乃の身元を証明するだけのものではないのか。
どうして、と聞きたいのに、なんて切り出せばいいのかわからない。戸惑う朱乃の喉の奥で、言葉が渋滞を引き起こしている。
「失礼、朱乃お嬢さま。我が主人が先走りまして申し訳ありません」
「あの、浮立さま。その『お嬢さま』という呼び方も、わたしにはふさわしくないのです。宝鞘家が持つ侯爵位は、わたしとの結婚でお従兄さまが持つことになりますから」
「……はて。もしや、朱乃お嬢さまは、母君からなにもお聞きになっておられない?」
「母が、母がなにか関係しているのですか!」
浮立の口から突然飛び出した母という単語に、朱乃は思わず食いついた。
朱乃は両親のことを、なにも知らない。叔父夫婦も、朱乃が聞いても教えてくれなどしなかった。
覚えているのは、父と母が朱乃を大事にしてくれたこと。優しくて、微笑みの絶えない家族だったことだけ。
父がどんな仕事をしていたのか。母はどんな家柄のひとだったのか。朱乃は知らずに生きてきた。
「母は……母も父も、わたしが幼い頃に事故に遭って、今はもう……。あの、どんなに些細なことでもいいのです。教えてくださいませんか!」
「あ、あの……朱乃お嬢さま!? 近いです、近い……私が主人に怒られてしまいます」
「浮立、どけ。……朱乃さん、すまない。俺の一存では今は話せない」
「璃人さま……そんな……なにかひとつでも……」
朱乃は胸に抱いていたお使いの包みをぎゅう、と強く抱きしめた。
両親のもので残っているのは、産まれた時にもらった名前とわずかな思い出だけ。
叔父家族からどんな仕打ちを受けても諦めて受け入れていた朱乃が、わずかな希望に夢を見た。
もしかしたら、父や母の話を聞けるかもしれない。
朱乃が縋る思いで璃人を見る。けれど、璃人は申し訳なさそうに首を振った。
「すなまい。……もう日も暮れる、途中まで送ろう」
落胆する朱乃がのろのろと視線を上げると、西の彼方が橙色に染まりつつあった。
等間隔に並んだガス燈や、通りに飾られた金魚燈篭にも灯りがぽつぽつ燈りだす。
ああ、早く帰らなければ。これ以上遅くなれば、敬史による折檻が待っている。朱乃の身体が途端に震えた。
「いいえ、送迎は結構です。大丈夫、大丈夫ですから……」
朱乃は力なく微笑んで、璃人から距離を取るように後退りする。
逃げるように立ち去ろうとする朱乃の手を、璃人が咄嗟に掴んで引き寄せた。その刹那、朱乃は璃人の腕の中に収まっていた。
「あっ……」
「朱乃さん、俺が必ず君を守る」
怯える朱乃を宥めるように、大きな手が背中をさすった。璃人の柔らかな声が朱乃の耳朶を打つ。
呼吸の音や心臓の音が聞かれてしまうほどの至近距離。朱乃の鼻腔をくすぐる匂いは、璃人のものか。どうしようもなく安心するいい匂いに、頭がクラクラする。
顔が、熱い。身体が、熱い。心臓が燃えるようだった。
朱乃には、璃人の真意はわからない。
けれど、璃人の真剣さだけは伝わってくるから、どうしようもなく胸が震えた。
「それだけは必ず守るから」
璃人はそう言うと、名残惜しそうに朱乃を手放した。未練を残して下がる璃人の眉尻を見た朱乃は、人知れず息を呑んだ。
胸の内に燈る小さな火がひと息に燃え上がり、朱乃の心に璃人の存在が鮮やかに焼きついたから。
これは、誰にも知られてはいけない。隠し通さなければならない
この火は、やがて身を焼く焔になるだろう。そうなる前に、いつか消さなければならない束の間の火。
けれど、その火を消す日が来るまでは、大事に大事にしまっておきたい。
朱乃は一度、目を閉じた。そうして次に目を開けた時には、迷いが吹っ切れたかのように清々しい顔を見せていた。
「璃人さま、さようなら。またお会いいたしましょう」
そう告げて手を振って、朱乃は璃人と別れて家路についた。
往来を行き交う人たちは、大人も子供も皆、連れ立って楽しそうに歩いていた。朱乃はひとり堂々と顔を上げて、彼らとすれ違う。
それでも朱乃は少しも寂しくなかった。
璃人の言葉はわからないことだらけだし、母の話だって聞けなかった。
それでもいいと朱乃は思えた。
胸に灯った火が朱乃の冷え切った心を温めて、それまで諦めきっていた朱乃の世界を確かに変えたのだ。
そうして、希望を胸に抱いて帰宅した朱乃を待っていたのは、敬史による折檻だった。
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