第3話 癒しの異能
玄狼国は、中央大陸の東岸に位置する島国だ。
この世すべての国は、遥か昔、女神によって造られた。
女神が造った国を守護するものとして
中でも、豊穣の女神によって力を与えられた国主は、災禍や
御伽噺ではなく、神話でもない。今もなお天狼が治める国——それが、玄狼国である。
◇◆◇◆◇
昨夜、新たに背中に受けた傷も癒えぬまま、朱乃は皇都へ来ていた。
雨に打たれたのが一昨日で、折檻を受けたのが昨日。朱乃の身体は決して病弱ではなかったけれど、さすがに無理がたたって微熱が続いている。
朱乃が不調のとき、決まってお使いを命じるのが叔母だ。
叔母は、家に外商を呼べば済むような買い物を、わざわざ朱乃にお使いに行くよう命じるのだ。だから朱乃は熱っぽい身体で、皇都・
仲店通りは、数々の商店と、その軒先に金魚燈篭が並ぶ通りだ。
昼過ぎの風を受けてそよそよと、千代紙で彩られた金魚が宙空を泳いでいる。
不規則に揺れる金魚を眺めながら往来を行く朱乃の耳が捉えたのは、お喋り好きの玄狼人が囁く不穏な噂だった。
「聞いたか、今上陛下の代替わりが近いって」
玄狼国を治めているのは、帝である。
まだ両親が健在だったころ、朱乃は一度だけ新年の一般参賀に参列したことがある。
その参賀の終盤で、帝は白く美しい天狼へ姿を変えた。
驚いて転んだ朱乃は手に擦り傷を作ってしまったけれど、天狼と成った帝がひと吠えすると、その傷は跡形もなく消えてしまった。
奇跡を受け取ったのは朱乃だけじゃない。周囲のひとの傷や痛めた身体が一瞬にして癒やされたのだ。
朱乃は、帝の遠吠えがあまりにも神々しくて、しばらく惚けていたことを覚えている。
「代替わりねぇ、もうそんな時期か。どうりで最近、大陸の貴人が都に増えたわけだ」
「俺たち庶民にゃ、殿上人の事情なんざ知ったこっちゃないけどな」
カラカラと笑う玄狼人たちの噂を聞きながら、朱乃は複雑な心境を切り替えるように姿勢を正した。目当ての店に着いたのだ。一度、二度と深呼吸をしてから、朱乃は馴染みの鰹節店の暖簾をくぐる。
朱乃は朗らかな店主に本節を一本包むよう頼み、しばらく待った。店主から本節を受け取ると、にこりと笑ってお辞儀する。
そうして、叔母の財布で買った本節を落とさぬよう抱きしめると、足早に店を出た。
すると、である。
「朱乃さん」
「あっ、あ……璃人さま」
なんという女神の采配か。朱乃を呼び止めたのは浮立を連れた璃人であった。
璃人も
平服といえど、生地はよく見れば上質なモヘアで、背の高さと体格の良さで薄茶生地の
行き交う女性がみな、見惚れるほどに。もちろん朱乃も例外じゃない。
「朱乃さん、こんにちは。お使いですか?」
「あ、あの……はい」
璃人は今日も変わらず無表情だ。朱乃は璃人の飾らない姿に眩しさを覚えて目を細めた。
もう会うことはできない、と拒絶したのは朱乃なのに、璃人はこうして声をかけてくれた。そう思った朱乃の心に火が燈る。
燈篭の火のように頼りなく、けれど暗い夜道の
けれど朱乃の胸中に、突如として昨夜の
昨夜、朱乃は鞭を持つ敬史に酷く当たられた。自分の婚約者が預かり知らぬうちに大陸からやってきた貴人と知り合ったから、という理由で。
そんな理不尽な振る舞いをする敬史の婚約者になってしまったから。
朱乃は慌てて後退り、璃人に頭を下げる。
「あ、あの……ごめんなさい、失礼します!」
「待って、朱乃お嬢さま。逃げる必要はありません、これはただ、街で偶然すれ違っただけです。示し合わせて逢ったわけじゃない。そうでしょう?」
逃げ出そうとした朱乃の手首を捉えたのは、浮立の大きな手。新緑色の目が朱乃の心を見透かすように見つめてくる。
浮立の弁は、ただの詭弁だ。
偶然でもそうでなくても、璃人と会ったことが敬史に知れれば、朱乃はただじゃ済まない。折檻された背中の傷が警告を発するようにズキリと痛んだ。
本当は、璃人と話したい。
どうして「探していた」だなんて言ったのか。どうして宝鞘邸を訪ねてまで朱乃に会おうとしたのかを。
けれど、言葉はでてこない。喉の奥でつかえたようで、少しも出ない。
出ない答えをジッと待つ浮立が握る手が、決して獲物を逃さない、とでもいうかのように強く握ってくる。
朱乃はその力強さに思わず顔を顰めた——その時だった。
「浮立、下がれ」
「ええー? 私は主人のために……」
「黙れ、朱乃さんが困っている。手を離せ。……朱乃さん、手を」
「えっ? えっと……はい」
朱乃は戸惑いながらも頷いて、璃人に手を委ねた。浮立に掴まれた手首は、ほんの少し赤くなっている。
璃人は朱乃の赤くなった手首や、痛々しい引っ掻き傷が浮かぶ手の甲を観察しながら、ぼそりと言った。
「傷は、ほかにもあるな?」
「どうして……」
璃人に見抜かれて身じろいだ背中の傷が、ずきりと痛む。痛みと恥ずかしさとで、朱乃の顔は青褪めてゆく。
そんな朱乃に、璃人はやはりにこりとも笑わなかった。けれど、ゆるりと首を振り、心なしか柔らかい声でこう告げた。
「言う必要はない。朱乃さんは俺がすることを、ただ黙っていてくれ」
言うが早いか、璃人が朱乃の手を握る両手に力を込めた。先程、浮立に掴まれたときとはまるで違う柔らかさ。
璃人の手を通して流れ込む温もりが、朱乃の傷の絶えない身体を軽くする。
あれ、と思った次には、それまで手の甲に走っていた引っ掻き傷が消えていた。
それだけじゃない。朱乃の身体から傷という傷、痣という痣が消えてしまったのだ。
「璃人さま、これは……。傷が治ってます、どうして」
「朱乃お嬢さま、我が主人にも事情がありまして。太陽の光がなければ役に立たないところがミソです。どうか気にせず、ご内密に」
「俺が君にしてあげたかった。それでは駄目か」
もう、どこも痛くない。痛みのない身体の、なんと健やかなることか。
この感謝の気持ちをどう伝えればいいんだろう。朱乃は軽くなった身体で何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます。そうだ、お礼を……あっ、わたし、もう差し上げられるものが、なにもなくて……」
朱乃は、急に自分の頬が赤く染まってゆくのを感じながら、困ってしまって眉尻を下げた。
そんな朱乃の両手を、璃人がきゅっと握りしめた。
「また会いたい。また、朱乃さんと会いたい」
璃人の澄んだ青い目が、朱乃をまっすぐ捉えている。璃人に繋がれた手が、どうしようもなく熱い。
朱乃は今すぐにでも、頷いてしまいたかった。
けれど、婚約者がいる自分が後ろめたい約束をすることはできない。自分からお礼をしたいと言い出しておきながら、なんてこと。
朱乃は、ただ口を噤んで奥歯を噛むことしかできない無力さを恥じた。
「笑って、朱乃さん。君を困らせたくない。……会えないと言うなら、これを」
璃人はそう言うと、ジャケットの内ポケットから紅玉の玉簪を取り出した。
きらりと輝く紅い玉。あれは両親の形見の簪だ。朱乃は一目でそれがわかった。
そして、璃人が簪を朱乃に返そうとしていることも。
「そんな、いけません! これは璃人さまに差し上げたものです。璃人さまの元に、どうか……」
「いけない。これは母君の形見だろう。……見て、この玉を。この玉に刻まれた紋は、君に必要なものだ」
璃人が朱乃の前で簪を掲げた。光が透ける紅い小さな玉の中に、稲穂と光をモチーフにした紋がきらめいている。
「美しい紋は身分を示す。俺の国でもそうだ。紋章は身元を示す大事なものだと。だから調べて、君を訪ねた」
「……それでも、その玉簪は璃人さまに差し上げたものです。受け取れません」
「いいから受け取れ、強情女」
頑なな朱乃に苛ついたのか。璃人が放った言葉は思いの外、朱乃の胸に鋭く刺さった。まさか璃人の口から、そんな言葉が飛び出してくるなんて。
まったくの予想外の出来事に、朱乃は酷くショックを受けた。茫然としたまま璃人を見ていると、璃人が渋い顔をしてぽつりと告げた。
「すまない、朱乃さん。俺はまだ、言葉が……」
バツが悪そうに言葉尻を濁した璃人の吐露に、朱乃は息を呑んだ。
璃人に仕える浮立が謡うように流暢に話すものだから、少しも気づかなかった。璃人もあまり表情豊かに話すひとではないから、なおさら。
玄狼国の言語は統一されている。方言はあるものの、どこへ行っても言葉が通じるから、思いつきもしなかった。
璃人が端的な言葉しか発しないのは。どこか言葉の組み合わせに違和感があるのは。
璃人が玄狼国の言葉に不慣れな大陸人であるからなのだ、と。
(ああ、困っているのだわ。助けて差し上げなければ)
ストンと腑に落ちた朱乃は、うっかり自分の立場を忘れて、それならば、と璃人に申し出た。ほとんど衝動的だった。
「あの、璃人さま。よろしければ、都で偶然お会いしたときにでも、わたしが玄狼国の言葉を教えましょうか?」
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