第2話 再会と拒絶

 雨上がりの翌朝は空気が澄んでいた。

 息を深く吸い込むと湿った土と緑の匂いが鼻腔に広がる。朱乃は少し熱っぽい身体を気丈に奮い立たせて、座敷の障子戸を開けた。


「お呼びでしょうか、叔父さま」


 座敷には、すでに叔父と叔母、それから従兄の三人が揃っていた。だから朱乃は膝をつき、身を伏して頭を下げたまま。声がかかるのを辛抱強く待つ。

 朱乃が呼び出された座敷は、床の間のある部屋だった。普段は身分の高い来客を迎えるときにしか開かれない特別な座敷。

 そんなところへ呼びつけられて、座したまま伏せる朱乃の身体がぶるりと震える。


(今日はなにを奪われるんだろう。わたしには、もうなにもないのに)


 両親が事故で他界したとき、幼い朱乃の後見人兼、保護者として立ったのが、叔父夫婦だ。

 両親は玄狼国の帝から侯爵位を授かっていた。だから、自分たちが幼くして女子相続人となった朱乃を保護し、立派にひとり立ちさせるのだ、と主張して。

 幼かった朱乃は、自分になにが遺されたのか、どんな権利があったのかなんてわからずに、すべて叔父夫婦に任せてしまった。

 それが、運の尽き。

 彼らは朱乃の家族の思い出が残る屋敷に住みつき、遺品整理と称して両親の形見となる貴金属や絵画、着物や骨董品を売り払った。

 不動産や有価証券はいつの間にか叔父名義に書き換えられていて、朱乃のものだと言える財産はすっかり奪われた。

 なにかおかしい、と気づいた朱乃が手元に残せたのは、今はもうない簪だけ。

 宝鞘邸の主人であったはずの朱乃は、家を追い出されないだけ恵まれている、だなんて考えを持たされて、女中のごとき身の振る舞いを強要されていた。


「中へ入りなさい、朱乃」


 朱乃が閉ざされた座敷に声をかけてから数分後。ようやく叔父が入室の許可を下した。

 痺れる足に耐えながら朱乃が下座につくと、叔父がさっそく話を切り出した。


「朱乃。先月、十九になったろう。もういい歳だ、宝鞘家のために結婚をしなさい」

「結婚……」


 誰と、なんて朱乃は聞けない。聞けば、叔父の意向に反したとされて折檻が待っている。

 朱乃の身体は傷や痣が絶えたことがない。嫌らしいことに叔父は、着物で隠れる部分目掛けて鞭を打つのだ。

 朱乃に許されているのは、無表情で奥歯を噛み締めて叔父が語るままに耳を傾け、下す決定を呑み込むことだけ。


「宝鞘家は帝から侯爵位を授かっているだろう。その爵位を、私たちが継ぐのだ」


 叔父が煙草で脂黄ばんだ歯を見せながら、ニタリと笑う。その欲深い笑みを見て、朱乃は胸中で「ああ……」と嘆いた。

 彼らは朱乃から形ある遺産ものだけでなく、朱乃から爵位最後の希望さえも取り上げようとしている。朱乃は最後のよすがを失ったかのように目の前が真っ暗になった。

 そんな朱乃に追い討ちをかけるかのように、従兄である敬史たかふみが上座から偉そうに告げた。


「光栄に思えよ、朱乃。行き遅れにならぬよう、このオレがお前を娶ってやるのだから」

「お従兄にいさま、と……わたしが」

「なんだ、不満でもあるのか。お前だってそのほうがいいだろう。住み慣れた家を離れずにすむし、新しい環境に慣れる必要もない」


 嫌だ、と言えれば、どんなにいいだろう。朱乃は首を横に振ることも、縦に頷くこともできずに途方に暮れるしかない。


「朱乃、たった今からお前は、オレの婚約者だ。今まで以上に、勝手な振る舞いをするなよ? まあ、勝手をしたとしても、父上の代わりにオレが可愛がってやるだけだがな」


 敬史はそう言って、朱乃の全身を舐めるように見つめながら下卑た笑いを漏らす。

 敬史と結婚するだなんて、朱乃には考えられなかった。

 気分によって叔父からの折檻に混ざり、冷水を浴びせてきたり、酷く罵ってくるような男性になど、嫁ぎたくはない。嫁ぎたくなんて、ないのに。


「朱乃。私たちはお前を、家族だと思っているのだ。受けてくれるね」

「……はい」


 有無を言わさぬ叔父の言葉と目の鋭さに、朱乃は力なく頷くことしかできなかった。

 朱乃の首が無意識に下がる。俯いた視線のその先に、昨夜黒猫に引っ掻かれた傷が目に入って、ハッとした。


(あの子のおかげで、わたしは璃人さまから優しさをいただいた)


 璃人がくれたハンカチは、濡れ鼠のまま帰宅してから綺麗に洗って三畳しかない自室に干してある。

 傷を負った朱乃を手当てしてくれた璃人を思い出しながら、朱乃は下唇を噛んで気丈にも顔を上げた。

 けれど、朱乃の決意を挫くかのように、叔父が雇った女使用人が障子戸の外から声をかけたのだ。


「旦那さま、お客人が参られました」

「客だと? 今日は誰も通すな、と言ったはずだが」

「そうは申しましても……大陸から来訪された貴人様でございます」

「傍若無人な大陸人を帝もどうして招いたのか。……仕方がない。ここへ通しなさい」


 叔父の言いつけから数分後。

 どたどたと足音を立てながら廊下を歩き、座敷の障子戸を勢いよく開けたのは、艶のある黒の礼装を纏った明るい茶色の髪と、新緑色の目を持つ背の高い大陸人だった。

 呆気に取られたのは、朱乃だけじゃない。敬史も叔母も、パチパチと目を瞬かせて来訪者を見ている。

 叔父だけが眉間に皺を寄せて来客を睨みつけていた。


「こんにちは、宝鞘さん。急な訪問を歓迎いただき、ありがとうございます。我が主人あるじに代わり、わたくし浮立ふりつが御礼申し上げます」

「宝鞘になんの用があってのことかね、浮立殿」


 不機嫌を隠しもせずに叔父が言う。

 けれど、浮立と名乗った大陸人は、叔父の礼を欠いた態度を気にすることなく、謡うように言葉を続けた。


「我が主人に探しびとがおりまして。なんでも、昨夜助けたお嬢さまがその後、健やかにしておられるか気になる、とのことで」

「その探しびとが、我が邸宅にいるとでも? 勘違いではありませんかね」

「それはない。この髪飾りに刻まれた紋は、彼女の母君の一族をあらわすものだ」


 浮立の背後から、覚えのある声がした。

 まさか、そんなことが。あり得ない期待を感じて朱乃の心臓が強く跳ねる。

 けれど、もし、あのひとなら嬉しい。そんな朱乃のささやかな願いは、浮立の後ろからあらわれた璃人の姿によって成就した。


「朱乃さん、こんにちは」

「璃人さま……」

「君を探していた」


 璃人の言葉に朱乃の胸がどきりと高鳴る。璃人は浮立よりも上等な生地を使った黒礼装を隙なく着こなしていた。

 昨夜と変わらず、璃人はにこりとも笑わない。黒礼装の凛々しさも相待って、そんな璃人の姿が朱乃には頼もしく見えて、思わず笑みがこぼれてしまった。

 それがいけなかったのか。

 片頬を引き攣らせた敬史が急に立ち上がり、無謀にも璃人の胸倉を掴もうと手を伸ばす。


「待ちたまえよ、お客人。ソレはもう、オレのものだ」

「ソレ? ソレというのは、朱乃お嬢さまのことですかね?」


 敬史の手を払い落としたのは、浮立だった。浮立は璃人の壁となるように敬史の前へ出る。浮立の顔も敬史同様、片頬が引き攣っていた。


「お嬢さま? ハッ! お嬢さまって柄かよ、こいつが。見ろよ、この手入れもされていない髪と見窄らしい着物を。ろくに化粧もできない女中働きのコレが、お嬢さま?」


 敬史の言葉に朱乃は恥ずかしくなって俯いた。

 今日に限らず朱乃の身なりは、女中と呼ばれても仕方がない質素なものだ。髪もまとめてはいるけれど、昨日までとは違いなにひとつ飾ることができないでいる。

 敬史は下を向く朱乃を追い詰めるためだけに、朱乃の側まで行った。そうして肩を抱き、朱乃の耳元で怒声を響かせた。


「おい、朱乃。お前まさか馬車から放り出されたあとに、このお客人を誑し込んだのか」

「ち、違います! そのようなことは、決して……!」

「違うなら、どうしてお前を訪ねて客がくる?」


 そんなこと、朱乃が知るわけがない。璃人がなにを考えて「探していた」と言ったのか。知りたいと思っているのは朱乃も同じ。

 敬史の問いになにも返せない朱乃は、平身低頭して敬史に許しを乞うことしかできない。


「も、申し訳ありません、お従兄さま。申し訳、ありません」

「なあ、朱乃。悪いと思っているなら、お前が説明してやれ。お前はオレと、なにを結んだ? オレとお前は、どんな関係だ?」

「……っ、わたしは、お従兄さまと、婚約を……」

「そうだ。お前はオレと婚約したんだ。わかったなら、とっととお前の客を追い返せ!」


 敬史は朱乃の腕を掴んで無理矢理立たせると、璃人の前に投げ出した。

 きっと今夜は、折檻が待っているだろう。

 朱乃はその被害を少しでも減らそうと、璃人の足元で膝をついて背中を丸め、深々と頭を下げた。

 そして、言いたくもない別れの言葉を璃人に告げる。


「璃人さま、申し訳ありません。わたしは婚約中の身の上ですので、もうお会いすることはできません」

「朱乃さん……なぜ」

「ごめんなさい、ごめんなさい。……璃人さま、お気遣いはとても嬉しいのですが……本当に、ごめんなさい」


 朱乃は、璃人が浮立を連れて宝鞘邸を去るまで、座敷の畳に額を擦りつけ、ずっとずっと縮こまり続けていた。




 希望も喜びも、あっという間に奪われてしまった朱乃は知らない。

 自分が拒絶した璃人と、すぐに巡り逢い——深く深く関わることになることを。





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