紅金魚の簪乙女〜次の狼帝を選ぶのは、わたしなんですか!?〜

七緒ナナオ

第1話 乙女は雨夜に運命と出会う

 雨季の終わりの篠突く雨で、玄狼げんろう国の皇都が白く煙っている。

 軒先で並んで揺れる金魚燈篭が、嵐に打たれてひらひらと舞う。その姿はまるで水中を泳いでいるかのよう。

 ざんざんと激しく降る中、叔父家族の馬車から放り出された朱乃あけのはひとり、黒猫の子供を懐中ふところに抱いて走っていた。一張羅の着物が水を吸い、肩にずしりと重みがかかる。


「お腹空いたよね。少しのあいだ、隠れていてね」


 朱乃が目指すのは、皇都の花街・弥栄橋やさかばしの大通りから一本奥に入った屋台通り。

 石畳の通りには、色とりどりの蛇の目傘の花が咲いていた。赤や桃色、紫に青。色彩り豊かな色彩に、朱乃の目がチカチカ惑う。

 蛇の目柄の傘が行き交う中で、朱乃だけがひとりずぶ濡れだ。

 朱乃の胸に抱かれた黒い子猫が、か細い声で不安げに「にー」と鳴く。長く細い猫の尾が力なく、はたりと揺れた。


「お願い、顔を出してはダメよ。もう少しの辛抱だからね、屋台通りはこの先だから」


 化粧気のない朱乃の顔は、漆黒の子猫とはまるで逆。色味を失った白い頬や首筋を水滴が伝い落ちる。

 まとめられた艶のない黒髪は、暴風によってほつれて乱れ、青玉と紅玉の玉簪がかろうじて刺さっているだけ。

 けれど、つゆに濡れる黒い瞳はまっすぐ前を向いている。




 弥栄橋の屋台通りは、貨幣を持たずとも物々交換で対価を払うことができる唯一の場所だ。

 自由になる財布を持たない朱乃は、もう何度か、簪と引き換えに食べ物や薬を得たことがある。

 朱乃は腕の中でもがく子猫を抱き直し、暗く狭い路地へ飛び込んだ。

 暗く狭い道を抜けた先にあらわれるのが、鬼灯燈篭が吊り下げられた屋台通りだ。

 暴雨で激しく揺れる燈篭の灯りが石畳に広がる水溜りに反射して、通り一面が輝いている。

 それを美しいと見惚れる余地は、今の朱乃にはない。

 そんなことよりも、豪雨で今夜は商売にならない、と店仕舞いをしはじめている屋台がちらほら見えて、朱乃は焦った。

 朱乃は構わず、炊いた米に蒸し鶏を乗せて出す屋台を選ぶと、濡れ髪に刺していた二本の簪のうち、青玉の玉簪をスッと抜いて店主に渡す。


「すみません、これでお願いできますか。蒸し鶏だけでもいいんです」

「米もタレもいらないのかい、お嬢さん。まあ、その流行遅れの簪じゃあ、蒸し鶏数切れが精一杯だがよ」


 店主は、傘も刺さず財布も持たない朱乃をいぶかしむこともなく、玉簪と引き換えに蒸し鶏を包んで渡してくれた。

 朱乃はほっと安堵して、袖で包んだ隙間へ指を入れ、子猫の小さな額をそっと撫でた。けれど子猫は空腹で気が立っているのか、朱乃のささくれ立った細い指先に噛みつく始末。

 朱乃は気にせず、今度は花街を南北に流れる河川にかかる明星橋のたもとを目指す。


「もう少し、もう少し。このままでいて」


 花街の往来で黒猫を出すのは御法度だ。特に尾の長い黒猫は。

 元来、玄狼国で黒猫は幸運の運び手だった。

 それが、大陸との交流で入ってきた迷信によって、尾長の黒猫は不吉な未来を連れてくる存在として信じられるようになってしまった。

 嫌われ者に変えられた黒猫を朱乃が助けようと思うのは、冷たい雨に打たれて縮こまる黒猫の姿が、自分の境遇と重なったから。

 朱乃は豪雨の下を駆け抜けた。




 朱塗りの明星橋にたどり着いた朱乃は、行き交う人々の視線から逃れるように橋の下へ身を隠す。

 橋上を行き交う蛇の目傘や番傘が、暗い橋下を覗き込む気配は感じられない。ようやく朱乃は安心して、腕の戒めから解いた子猫へ裂いた蒸し鶏を与えた。

 黒猫は余程腹が空いていたのか。与えられた蒸し鶏を横取りされないよう食べてしまおうと、むさぼるように食べている。


「いいよ、全部お食べ」


 にこりと微笑む朱乃のお腹が、くぅ、と空腹を訴える。

 一心不乱に蒸し鶏を食べてゆく黒猫を渇いた黒目で眺めながら、朱乃は息を吐いた。


「今夜はね、弥栄橋の料亭で夕食をいただくはずだったの。お腹を空かせておくように、って言いつけもきちんと守ったの。着物だって、持ってる中で一番上等な着物を選んだのよ。でもね、叔父様やお従兄にいさまの機嫌を損ねてしまって……弥栄橋の手前で馬車から放り出されてしまったの」


 朱乃の弱音が、ざんざか降る雨音に溶けて消えてゆく。

 子猫は黒毛に含まれた水気を振り払うことも忘れ、無我夢中で蒸し鶏を食らっている。

 ああ、この黒猫は、忌み嫌われていても全力で生きている。

 それなら、わたしは? 胸の内に問うても答えは返ってこない。朱乃を愛してくれるひとは、もう、この世にいない。

 朱乃の両親は、随分前に事故で他界してしまった。朱乃に遺されたのは、父が母へと贈った簪だけ。

 その簪も今や残りは紅玉の玉簪ひとつ。


「このまま、全部、なくなっちゃうのかなぁ」


 朱乃は、せめて濡れた毛並みを整えてあげようと、黒猫にそっと手を伸ばした。けれど黒猫は、蒸し鶏を奪われると思ったのか、朱乃の荒れた手を鋭い爪で引っ掻いた。


「痛っ……、あ」


 朱乃が血が滲む手の甲に気を取られている隙に、黒猫は残りの肉を小さな口いっぱいに咥え、雨の彼方へ走り去っていった。

 残された朱乃は、ただ、茫然とするばかり。

 見返りが欲しくて助けたわけじゃなかった。両親の形見と引き換えに蒸し鶏を得たことにも、後悔はない。ないのだけれど、胸の内を空虚が穿うがつ。

 朱乃が長く長く息を吐き出した、その時だった。


「大丈夫か」


 頭上から降ってきた男性の声に、朱乃は時を移さず顔を上げた。紫一色で彩られた番傘をさした凛々しい男が、濡れた朱乃を見下ろしている。

 呆気にとられた朱乃に、白い絹のハンカチが差し出されていた。

 朱乃は高価なハンカチを差し出される意味がわからず、思わずキョトンと男を見つめ返す。

 なにも言わず、ハンカチを受け取ろうともしない朱乃に痺れを切らしたのか、男は凛々しい眉を顰めて血が滲む朱乃の手を取った。


「怪我をしている。これで手当を」


 朱乃は取られた手を引っ込めることも忘れて、その男に見惚れてしまった。

 大陸人であると一目でわかる冬の森を思わせる灰銀の髪と、澄んだ空のような青い目。腕も脚も長く背の高いその貴人は、錦糸の刺繍が施された黒いコートを羽織っている。

 そのコートの裾が泥で汚れるのも構わず、男は朱乃の前で片膝をついた。そうしてハンカチで傷口を覆って巻いてくれたのだ。

 なんて、綺麗なひと。

 端正な顔立ちのことじゃない。いかにも訳ありな様相をしている朱乃の手当てをしてくれた男の優しさが、あまりにも美しい。

 その鋭く突き刺さるような清らかさに、どうしようもなく胸が締めつけられる。

 痛い、痛い。喉の奥が痛い。気を抜けば呼吸が乱れて震えそう。朱乃は慎重に呼吸をしながら、手当てを終えた男にお礼を告げた。


「あっ……ありがとう、ございます」

「傷薬は持ち合わせていない。これは応急処置だ」


 男はそう言うと、ふいに立ち上がり、朱乃に背を向けた。慌てたのは朱乃だ。朱乃は咄嗟にひらりと翻ったコートの裾を掴んで、男を引き留める。


「待ってください、なにかお礼を……」

「構わない。この国の古い言い伝えでは、黒猫は幸運を運んでくると聞いた。今夜はいいものを見た」


 男は鋭利な美貌を崩すことなく、首を振る。お礼など不要だ、と断られた朱乃も、負けじと首を振る。

 だって、傷を覆ってくれたハンカチは絹製で、朱乃には手の届かない高級品だ。それを、男の優しさを理由に受け取ることなんて、できない。


「いけません、お礼をさせてください。……そうだ、これを」


 朱乃は髪を止めていた紅玉の玉簪を抜き取ると、最後の別れをするように一度ぎゅう、と握りしめてから男へ差し出した。

 口元に笑みをたたえて、未練を残さぬよう押しつけるように手渡した。


「美しい髪飾りだ。ありがとう、お嬢さん。名前を聞いても?」


 男は丁重な手つきで玉簪を受け取ると、コートを開いて内ポケットへ入れた。

 これでもう、父と母の思い出が込められた形見は、すべて、なくなってしまった。なにもかも、すべて。

 朱乃が無意識に簪の行く末を見守る中で、男は閉じたコートの上から、簪の所在を確かめるように、そっと撫でた。宝物でもしまったあとのように、丁寧に、尊ぶように。

 たった、それだけ。

 それだけの仕草を見たことで、朱乃はたまらなく救われたような気になった。枯れた涙腺から、涙の気配がしそうなほどに。喉の痛みが増すほどに。

 朱乃は奥歯を噛んでそっと立ち上がり、深く深く腰を折って頭を下げる。


「朱乃……宝鞘朱乃ほうしょう あけのと申します」

「そうか。朱乃さん、私は璃人りひと。いずれ、また」


 璃人と名乗ったその貴人は、結局、最後までにこりとも笑わなかった。

 笑うことなく背を向けて、花街の中心部へ向かって行く。けれど、微笑みを見せないことが、いったい、なんだというんだろう。

 朱乃は去ってゆく璃人の背中を見つめながら、手に巻かれた白いハンカチにそっと触れた。冷えた指先から、璃人がくれた優しさが染み渡る。

 なんて、あたたかい。久し振りに、ひとの優しさに触れた気がした。


「璃人さま……本当に、ありがとうございます」


 朱乃は、すでに姿の見えない璃人の背に向けて、もう一度、深々と頭を下げた。

 一秒、二秒。三秒目で朱乃が頭を上げたとき、あれほど激しく降っていた雨はすっかり上がり、青白く輝く三日月が雲の切れ間から顔を覗かせていた。





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