第3話
校舎から出た由紀は、いつもより1時間ほど遅い下校時間にため息を吐いた。
委員会の会議が予想以上に長引いたせいだった。部活動をしていた生徒も帰ってしまい、グラウンドにも生徒の姿はまばらだった。
大地がまだ待っていてくれているのではないか、そんな期待をしたがそこに彼の姿はなかった。
遅くなるので先に帰ってて、と連絡をしたのは自分だ。 由紀は苦笑しながらも、どこかやるせない気持ちに襲われた。
都合が合わず、一緒に帰らなかったことは今まで何度もある。ちゃんとした予定がある時だけではなく、適当ないわばその日の気持ちで帰らなかったことだってある。
しかし、今は違った。大地を意識して、彼の不在に言い知れぬ孤独を感じてしまう。彼が自分から離れて行ってしまうのではないかという、今まで考えたこともなかった不安が由紀の心の中に居座っている。
待っていてほしいという、数文字のメッセージ。
それが今はどんな長文を書くよりも難しい。
ライブだ。由紀は思った。今度あるハニーディップスのライブ。その時に告白しよう。その考えは根拠なく由紀に希望を抱かせた。
彼に拒否されるという考えはまるでなかった。関係性はこれまでとも何も変わらない。ただ、権利が欲しかった。寂しい時に何の迷いもなく、待っていてほしいという権利が。
決めてしまうと、心は軽くなった。由紀は冷たくなった外気を胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ笑った。
校門を出ようとした時、突然背後から声を掛けられた。
「金井さん? 金井 由紀さんだよね?」
振り返った由紀は言葉を失った。
「あなたは……」
そこに立っていたのは、立花 亜理紗だった。
弛緩したばかりの表情が硬く引き締まる。
「金井さんってお家、北町の方だったよね?」
「う、うん」
「よかったぁ。こんな遅い時間に1人で帰るの怖いなって思ってたから。私も一緒に帰ってもいいかな?」
亜理紗は辺りを見回して、言った。
「い、いいよ。私も丁度帰るところだったし」
「ごめんね、急に声かけたりして。私の事覚えてる? 1年の時同じクラスだった立花、立花 亜理紗だけど」
「覚えてる」
短く返答しただけで、由紀はそれ以上何も言えなかった。
「なんか嬉しい。あんま接点なかったし、忘れちゃってるかと思ってた」
由紀は首を振って笑みを見せながら、強く歯を食いしばった。
意味のない会話をしながら帰路に就いたが、由紀は亜理紗の言葉に返答するだけだった。
彼女は大地を奪おうとした女。確かに顔立ちもよく、艶のある長髪は同性でもハッとしてしまう。それでいて、学年トップクラスの秀才。吹奏楽部部長で人望もある。
だが、得てしてこういう人間にはどす黒い裏があるものだ。由紀は愛想よく相槌を打ち、そんなことを思った。
事実かどうかは重要ではない。そんな先入観で自分を守らなければ、由紀の自尊心はぼろぼろに打ち砕かれてしまいそうだった。
そつなく話題を振り、フレンドリーに接してくる亜里沙に、そっけない返事をすればするほど自分が惨めに思えてくる。
次第に亜里沙の話題も尽き、2人は黙ったまましばらく歩いて、繁華街へ入った。喧噪は2人の気まずい沈黙を誤魔化してくれた。
通りががかった楽器屋からハニーディップスの曲が流れていた。
由紀はほとんど無意識に顔を上げて、店内を覗き込む。
流れていたのは、マイナーな曲だ。選曲にセンスを感じて、由紀は一瞬亜里沙の事を忘れ、フッとほほ笑んだ。
「あ、ハニーディップス」
「え?」
亜理紗の言葉に驚くと、彼女も顔を上げていた。
「ハニーディップスの曲だよね? これ」
「立花さん、知ってるの?」
「え、これ飛行船川獺に入ってるやつでしょ? というか、金井さんもハニーディップス好きなの?」
「好きっていうか……」
由紀は戸惑う。
「この曲知ってるってことは、もしか金井さん結構ガチ勢?」
亜理紗が顔をほころばせ、ニヤッと同士に向ける笑みを投げかけてくる。
「ガチって程じゃないけど……」
「いや、私は金井さんはガチだと見た。ハニディ好きでもあんま知らない曲なのに、イントロのフレーズだけで気づいてたもん」
「立花さんだって」
亜理紗に抱いていた不安や緊張よりも、好きなバンドの、それもマイナー曲を知っている人に出会えた喜びの方が勝った。
「うわ、なにこれ。たまたま金井さんと帰り一緒になったと思ったら、まさかのハニディファン同士だったなんて。うちの学校ハニディのファンほとんどいないし、もしかして、これって運命?」
亜理紗の陽気な言葉に、固かったはずの表情がほころんでいる。上手いのだと由紀は思った。彼女はこうやって自然と距離を詰めていくのが。抱いていた警戒心や嫌悪がいつのまにか消え去ってしまっている。
「立花さんは好きな曲とかあるの?」
「うーん、キラーパス、その質問。夜行魚もいいし、イヤホンもいいでしょ? でも、一番好きなのはトイレットペーパーのテーマかな」
「分かる。2番の歌詞がヤバい」
「金井さんもそう思う!? なんていうか、淡いっていうか、恋する2人の関係に自分を投影しちゃうっていうかさ」
由紀は笑ってそれに返答した。
「笑わないでよ、恥ずかしいじゃん。金井さんもそういうのあるでしょ? 恋心をハニディに重ねちゃうみたいなの」
「恋心か……なくはないけど……」
由紀は俯いて、人差し指で鼻をかいた。頭を大地の事が過り、上手い返答を考えあぐねている間に、亜理紗が口を開いた。
「金井さんってさ。いつも泉くんと一緒にいるよね」
「えっ……」
由紀は驚いて顔上げ、亜理紗を見る。亜里沙の顔は先ほどの陽気さを失い、夕暮れの闇に真剣で固く強張った顔を隠していた。
「金井さんは、泉くんと付き合ってるの?」
由紀の表情も一瞬にして冷たく固くなる。周りを囲んでいた雑踏の雑音が不意に聞こえなくなった。
「わ、私と……大地は……」
亜理紗の目がジッとこちらを見据えている。
「私と大地は……ただの友達、だよ」
ふぅっと亜里沙がため息を吐く。固かった表情が嘘のように柔らかく、解けて笑みを漏らす。
「なーんだ。毎日一緒に帰ったり、仲良く話してるから、てっきり2人付き合ってるのかと思ってた」
「そ、そんなんじゃない。幼稚園からの幼馴染。別に付き合うとかは」
由紀は心臓の動悸を抑え、乱れた呼吸をどうにか戻した。
「そっかあ。でも、泉くんってめっちゃ明るいよね」
「ただの馬鹿だよ、大地は。いっつもくだらないことばっか言ってたまには勉強したらいいのに」
「ふふ、金井さん、なんかお母さんみたい」
「やめてよ、私は別に」
亜理紗は笑って、大きく息を吸って伸びをした。
「ねえ、金井さん。泉くんって今好きな人とかいるのかな?」
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