第2話
大地とは、幼稚園の頃からの幼馴染だ。彼の家と由紀の家は通りを挟んで真向かい。近所に同世代の子供はおらず、必然的に2人は友人になった。ままごとに付き合わせたこともあれば、ヒーローごっこに付き合わされたこともある。だが、不満を抱いて疎遠になることもなかった。
小学生になり、男女を意識しだす年齢になってもそれは変わらなかった。
中学に上がる頃には、遊ぶ機会は減ったものの、下校中には毎日のように話す仲だった。
その間、大地を恋愛の感情で見たことは一度もない。そそっかしくいつも何かが抜けている大地は、由紀にとって庇護の感情は抱いても、好きか嫌いかで考えたことは一度もなかった。
近くに居すぎたせいだ―― 帰宅した由紀は制服を脱ぎ捨て、思った。
思い返してみれば、記憶の中にはいつも大地がいる。
部屋には、彼との思い出がいくつもある。
2人で夜通し受験勉強した時の参考書。大地の試合を応援しに行った時の服。どれも特別な感情を掻き立てられる記憶ではない。当たり前の日常。そう、大地がいるのは、当たり前なのだ。
ため息を吐いて、由紀は下着のままベッドに寝転がった。何も考えないように目をつぶってみたが、遠ざけようとすればするほど、先ほどの大地の言葉が頭に蘇ってくる。
好きな人が出来た―― その言葉が頭の中で木霊する。そのうち、由紀の心に怒りの感情が沸き上がってきた。
大地は誰を差し置いて、恋をしているつもりなのだろう。いつもトラブルを起こす大地を理解し、助けてあげているのは自分ではないか。
前々から鈍感で無神経だと思っていたが、ここまで酷いとは思わなかった。
怒りに任せてベッドを拳で叩くと、途端に恥ずかしさが沸き上がってきた。
大地の事を一番理解しているのは自分だ。彼の性格や行動、全て手に取るようにわかる。
それは恋愛感情なんて生温いものじゃない。もっと深く、長い時間をかけて作られた絆のようなものだ。
いつも気にかけてあげているのに。
それなのに大地は―― 由紀は下唇を強く噛んだ。
気分を落ち着けようと、スマホで曲を流したが、逆効果だった。
流れてきたハニーディップスの曲は、とりわけ大地との記憶を呼び起こさせるものだった。
中学の頃、お互いがお互いに勧めあったのがこのJロックのグループだった。曲調やバンドのコンセプトもお洒落で気に入っていたが、由紀も大地もその詩的でどこかドライな歌詞に心惹かれた。
寝返りを打てば、壁に掛かったハニーディップスのポスターが目に入る。
いつか一緒にライブ行けたらいいね、そう2人で約束したこともあった。
それも、忘れてしまったのだろうか――
と、由紀は帰り道で大地に言いかけたことを思い出した。
そして、彼女の中にある考えが浮かんだ。
数日後、いつも通り川沿いの土手を歩き、いつも通り教師の悪口を言い合った由紀は、一息ついてから口を開いた。
「そういえば、あの件」
「あの件?」
「C組の立花さんの件」
それまで乾ききっていた大地の瞳に、輝きが戻るのを由紀は見た。
「ど、どうなった?」
「まあ、ちょっと話したりしてみたけど……」
大地の喉仏が、唾液を飲み干して上下に動く。
「諦めた方がいいかも」
「な、なんでだよ! またあれか、高嶺の花とかなんとかって」
大地は由紀を睨んだ。
「違うそうじゃない。私も色々、他の友達とかに聞いてみたんだけど、どうやら立花さん、好きな人が既にいるみたい」
「は……」
大地の表情は一瞬にして暗くなり、口は半開きのまま意思なくパクパクと動いた。
「相手は誰なんだ……よ」
由紀は首を振った。
「そこまでは聞けてないけど、」
「じゃあ、俺って可能性は…………ないよな……」
大地は口を堅く閉じ、項垂れた。
見るからに落ち込んだ大地の姿に由紀は戸惑いながらも、すぐに彼の肩を叩いた。
「元気出せって、大地」
大地は力のないため息で返答した。
「大地には私が付いてるじゃん」
大地は由紀を一瞥した後、悲し気に笑った。由紀は下唇を噛み、それを無視した。
「そうだ、今度、ハニーディップスのライブがあるんだけど、もし抽選あたったら2人で行こうよ。ほら、前にも言ってたじゃん。ハニーディップスのライブ行きたいって」
浮かない顔の大地の背中を由紀はもう一度叩く。
「大丈夫だって、ライブ行って盛り上がったら、やなことなんか忘れちゃうからさ」
「由紀…………」
大地は突然立ち止まると、由紀にフッと顔を向けた。
「ありがと」
力なく精一杯の笑みを見せた大地は、再びトボトボと歩き始めた。その背中はいつもの快活な少年ではなく、酷く落ちぶれた老人のような絶望と徒労に塗れていた。
数日すれば、きっと元の調子に戻るはず。由紀はそう軽く考えていたが、3日が経ち、そして一週間が経っても大地は依然として沈んだままだった。
話しかけてみても、心ここに在らずで、生返事。
こんな大地の姿は初めてだった。。ショックの大きさが分かるにつれ、もどかしさと腹立たしさを覚え、そして罪悪感が沸いた。
亜理紗に好きな人がいる、というのは嘘だった。というよりも、 亜理紗と話したという事自体すべてが由紀のついた嘘だった。
亜理紗とは接点もなければ、話したことすらない。学校の中では、認知すらされていないかもしれない。
嘘を付いて、恋を諦めさせた。
大地の沈んだ肩や暗い表情が、罪悪感を掻き立て、由紀の胸を圧迫した。しかし、その度に由紀は、これは全て大地のためだと自分を納得させた。
大地は自分といた方がいい。大地を受け入れ、助けてあげられるのは自分しかいないのだ。傲慢で一方的とも思える考えだったが、由紀の中では筋が通った。
第一、立花 亜理紗のような清廉な少女が大地の事を受け入れるわけがない。遅かれ早かれ、大地は傷ついていたはずだ。
自分のしたことは間違っていない。大地の事を思っているからこその行動だったのだ。
大地は自分といるべきだ。そう、亜理紗なんかよりも……
その亜理紗と偶然出会ったのはそれから数日後の事だった。
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