file.10 不穏
***
「一言お礼を告げたいけれど、そんな暇はなさそうだね」
「ええ。見る限り、裏口まで出待ちのファンが待機しています」
ライブ後、佐原さんたちがいるであろう楽屋に挨拶へ行こうかと考えていたものの、一言伝えたいと思う人は俺たち以外にもたくさんいたようだ。
「今度会えたら伝えるとしよう」
「そうですね」
固執することでもないので、俺たちは潔く退くことにした。
「――あっはは!」
背後から笑い声が響く。
「いやぁ。仲間を救いにきただけなのにいいもの見せて貰ったっす!」
そう笑う人影は、俺たちにゆっくりと近づくにつれて街頭に照らされ、次第に姿がはっきりと現れる。
自然と波打つ茶色の髪に、女性のようなハニーフェイス。
俺は今日この顔を一度見ている。
「加藤太一さんじゃないですか、佐原さんたちに一言声をかけなくて良かったんですか?」
「いいんすよ、いつでも会えるっすから」
「そうですか。ところで、お仲間を救いにきたと仰っていましたが、どのような意味かお伺いしても?」
事件現場で会った時は感じなかったが、背筋をカチコチに凍らせるような不気味さを放つ加藤さんに、俺はなぜか嫌悪感を抱いている。
「マスター、警戒を」
「……何を知ったか教えてくれるかい?」
ギロリと加藤さんを睨みつけるワトソンは、小声で俺に警戒を促している。
乾いた夜風を肌に感じながら、俺はおとなしくワトソンの言う通り警戒を強めた。
「加藤太一という人物は、この世に存在しません」
「おっと……ホラーかな?」
どうやらワトソンは、国が管理しているデータに侵入し、加藤太一に情報を知ろうとしたようだが、どうやら存在していないことしか知れなかったようだ。
「すでに死んでいるとかかい?」
「いえ、出生した記録すら存在しません」
……考えられる可能性は、何かの目的のために偽造された存在ということか。
「ワトソン、骨格や仕草からの特定は可能かい?」
「……すでに試しましたが、不可能です」
彼は相当のやり手らしい。
「加藤太一、君は何者なんだい?」
こちらに近づく加藤太一は歩みを止め、声高らかに笑う。その姿は、不気味そのものだった。
「さっすがWTSN-1852。優れた性能っすね」
……!?
「それにさすが元サイバー開発室の異端児、語部紡久。優れた道具を使いこなせてるっすね!」
俺たちの情報が割れている? なぜ?
俺に関しては、各方面に名刺を配ったこともあるしまだ許容できる。
だが、ワトソンの型番を知っているんだ?
「本当に何者なんだい君は?」
「ここで正体を明かすつもりはないっす! ただ、語部紡久。君の宿敵、とだけ伝えておくっすよ」
フッと笑みを浮かべた途端、くるりと舞うように俺たちに背を向ける自称宿敵。
「そんな挑発をして、何事もなかったように帰れると思っているのかい?」
「帰れるっすよ? だって君たちは得体の知れない存在に対して無闇に動くほど知性に欠陥はないっすよね?」
……そこも把握されているのか。
彼が何を隠し持っているか、何を企んでいるか、分からないことだらけ。
そんな存在に無策で突っ込むのはあまりに危険すぎる。
「あ、そうそう! 佐原さんに伝えといてくださいっす!」
こちらに振り向くことすらしないものの、自称宿敵は言葉を発する。
「これからはピンネタ頑張るっす! って」
顔を見ずとも分かる。
こいつは今確実に下卑た笑みを浮かべている。
「どういう意味かな?」
「さっき言ったっしょ? 仲間を救いにきたって」
パチンと指を鳴らす自称宿敵。
「ワイをお呼びで? ボス」
「ちょっと呼んでみただけっす。帰るっすよ」
その指の音に反応して、人影が音もなくこの場に現れる。
ただその人影は、今楽屋にいるはずの笑太郎さんだった。
「笑太郎さん、どうしてここに?」
「……あんた誰や?」
「おっと……これは少し不味いんじゃない?」
状況の異質さに、俺は思わずワトソンに目配せする。
「シンギュラリティに到達したアンドロイドはオレの仲間なんすよ! いずれシンギュラリティに達した時、WTSN-1852も従えるっすよ! じゃあね!」
高笑いと共に闇へ溶けていった自称宿敵と笑太郎さん。
俺たちはあまりにも急な事態に、体が思うように動かず、その場で夜空に息を溶かすことしか出来なかった。
***
例の一件から、三日。
世間では佐原さんのピン活動と笑太郎さんの消息が話題となっていた。
「佐原さん、大丈夫だろうか」
事務所で、佐原さんたちのことが書かれた芸能誌を見ながら、俺はゆっくりと紅茶を喉へ流していく。
「ネットニュースを見る限りでは問題なくピン芸人として活躍できているようです」
それが逆に不安要素なんだよね。
事情を知っていなければ何も思わないだろうけど、あんなことがあったと知っていたら精神面がただただ心配だ。
「ま、考えていても仕方ないか」
「そうですね、下手に行動すると佐原様に迷惑がかかりかねないので今は大人しく見守っておきましょう」
依頼人と探偵。
ただそれだけの関係、心配だけど深く関わるのは得策じゃない。ここは非情だろうと一度記憶から消すのが探偵としてマストだろう。
「それに、私たちが見たことを話しても信憑性が薄いですしね」
「だよね。にしてもあれは本当に何者だったのかな?」
あの日からずっと考えている。
俺とワトソンを知る自称宿敵のことを。
俺の知り合いの中にはあんな顔の人物はいないし、ワトソンを製造した技術者かとも考えたが、それならワトソンが把握しているはず。
「現実味を度外視すれば、幽霊という可能性があります」
「もうその線で対策しておこうか」
不明点が多すぎる故に、精密な判断が得意なはずのワトソンも、この件に関しては思考を放棄してしまった。
ただまぁ、何も対策しないよりはいいんじゃないかな。
「気分転換に少し散歩でもしようか」
「そうですね。何か得れるものもあるかも知れませんし」
事務所の近くには、大きな自然公園が存在している。
この事務所から約二分程度でたどり着くその場所は、緑が生い茂り、少し現実から引き離してくれる神秘さを醸し出している。
「――空気が美味しいね」
「空気濃度は事務所と変わりません」
「気分と雰囲気だよ……」
自然公園に来ては、毎度のようにするこの会話。ワトソンはどうも空気のおいしさを理解できないようだ。
「事件のことは忘れて、自然を散歩も悪くないね」
「そうですね、脳に休暇は必要ですから」
そういうワトソンは、自然が脳に与えるメリットを淡々と語っている。
「そういえばマスター。今朝の話ですが、近々依頼しにいくとお電話がありましたよ」
「電話対応ありがとう、わざわざ事前連絡があったんだ」
俺が寝ている間に電話があったのか。
にしてもそんなに早く連絡するのに、今日中に依頼しに来るわけではないんだね。
少し厄介な香りがするね。
「なんでも、忙しくなかなか時間が取れないと仰っておりました」
「忙しさの合間を縫って連絡くれた感じだね」
わざわざ小さな探偵事務所に依頼するってことは、人間の探偵の方が都合のいい事件ってことだろうね。
「お越しになった際にスムーズに対処できるよう、概要だけでも聞きたかったのですが」
「まぁいいんじゃない? 聞いてからでも十分早く対応できるでしょ。ワトソンならね」
無表情ながら、当たり前ですと言わんばかりのドヤ顔にも感じる表情を浮かべながら、ワトソンは黙々と自然の中を歩いている。
「ねぇワトソン、声聞こえない?」
平日の昼前。
ここには太極拳やウォーキングを静かにするご年配の方が大半。
にも関わらず、若々しい叫び声がこの自然公園内に響き渡っている。
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