第11話:竜の温泉旅行③
俺、
頭を冷やすために冷水をかぶる。……冷静に。別に女性と付き合った経験がないわけではない。だが、それこそ学生時代を思い出すような、緊張を感じていた。体を洗い、まだ明るい露天風呂へ向かう。一応タオルで隠しながら、だ。
「お、来た来た。いい湯加減だよ」
湯船で足を延ばしながらくつろいでいるパイロープさん。お湯は無色透明だし、特にタオルなんかも使っていない。つまり、すべてが目に入るわけだ。……動揺しないように、彼女の肉体から目を逸らし、掛け湯をして湯船につかった。
「っあー、ふう……気持ちいいですねぇ。景色もいいし……」
視線は外に。いや……でも、本当に最高だ。明るいうちからの温泉は、めちゃくちゃ気分がいいな。やっぱり。
「いやーこんなにいいところ連れてきてくれて、ありがとうね。クニトくん。あっちの世界でこんな宿には絶対行けないよ。……何百年かしたら、もしかしたらあり得るかもしれないけど」
風呂自体はそこまで大きくはない。二人入れば、体が触れてしまいかねない距離。――だが、彼女の言葉に、消して埋められない距離を感じた。そうだ、彼女は、異世界に住み、異なる生態系を持つ、種族なのだ。人間の姿を模しているだけの、竜、なのだ。
「……そう、ですよね。そう、思ったから、連れてきたんです」
「うん。そうだと思った。君は、私に見たことないことを体験させてくれようとしているよね。それは、とても嬉しい。本当にありがとう、そういうところ、素敵だと思うよ」
パイロープさんの言葉と声に、揺さぶられた。――あぁ、そうだ。俺は。異世界人だから、でも、竜だから、でもない。この人だから、一緒に色々なことを経験したいと、思ったんだ。
「――いえ、俺も、一緒に過ごせて嬉しいです。ありがとうございます」
――俺と、出会ってくれて。
内心の呟きに応えるように、俺の右手がお湯の中でそっと握られた。思わず横を見ると、パイロープさんが微笑んでいた。俺は――――。
握られた手を優しく引き寄せ、彼女を抱きしめた。そして――。
――竜の唇も、人と同じように柔らかいんだな。
川の流れる音と、自身の鼓動がやたら大きく聞こえる、そんな
◆◇◆◇◆◇
「これおいしい!」
風呂から上がり、浴衣に着替え、しばらく寛いだ後に食事の時間となった。部屋に運んでくれるタイプなので、煙草を吸いながら食事をすることができる。パイロープさんが笑みを浮かべながら食べているのはサーモンのお刺身だ。この県の名物らしい。
「外国の方は生魚って苦手な人も多いんで、ちょっと心配してたんですよ。よかった」
「お魚もだけど、オショウユもワサビも美味しいね。これ持って帰りたいなぁ」
「売店とかにないかな……あとで見てきますね」
そんなとりとめのない会話をしながら、食事は進む。料理と共に、ささやかな幸せを嚙み締めながら。
――こんな日が、ずっと続くといいのに。
そんな、叶わぬユメを願うくらいには、心地よい時間だったのだ。
食事を終えると、すっかり外も暗くなった。部屋にはすでに布団が二組敷かれている。俺は売店で醤油とワサビと何本かの缶ビール、つまみを買い部屋に戻る。どのくらい一緒にいられるかわからないが、こういうのもたまにはいいだろう。
「お帰りー。お、それはもしかして、お酒? いいねー」
「ええ、そうです。まぁ、せっかくなんで」
ビールで乾杯しつつ、柿ピー等のつまみを口に運ぶ。俺はそれなりに酒は飲めるが、パイロープさんは既に顔が少々赤い。以前にも一緒に酒を飲む機会があったがその時もやはりすぐに顔に出ていた。……竜って、お酒強そうな印象だけどな。
「そういえば、まだ大丈夫なんですか? 煙草、常に吸っているわけでもないと思うので、結構魔力は減ってるんじゃ……」
例えば飲食の時は当然煙草は灰皿に置くし、吸い終わってからもう一本吸うまでには多少の時間がある。宿の人が食事を持ってきてくれる時もさすがに煙草は吸っていなかったので、結構削られているのではないかと思う。
「あー……うん。まぁ、大丈夫。取りあえず今日はさ、気にせずに過ごそう」
なんとなく歯切れの悪い様子だ。何かを隠しているような、気を使っているような。ふと、既視感があった。なんだったかな、こういう態度の知り合いがいたような。
「あの――」
「それよりさ、この、ショウユとワサビ、使い方教えてよ。魚以外に何に使えるの?」
「あ、はい。ええと、醬油はですね――」
そんなことを話しながら、お酒は進み、段々と意識が朦朧としてきた。運転の疲れもあり、眠い。
「……そろそろ、寝ますか」
「……うん、わたしも、眠い」
パイロープさんは呂律も怪しい。歯を磨き、トイレを済ませて布団に入る。隣には、当然ながら、パイロープさんが、寝ている。
……これは、夢なのでは? そんなことを思ってしまうくらいに、非現実的な空間だ。彼女はもう、歯を磨いてから煙草を吸っていない。――おそらく、いつ消えてもおかしくはない状態なのではないだろうか。そんなことを思ったら、隣に手を伸ばさずにはいられなかった。布団の中、右手で、彼女の左手を握る。
「……パイロープさん。大丈夫、なんですか?」
「……今日のうちは、ね。何とか」
「じゃあ……その、一緒に、寝ませんか」
「……いいよ。でもさ、なんで、一緒に寝たいの?」
からかうような、試すような、でも、真剣な、言葉。
――全く、格好悪いな、俺は。大事なことをまだ、伝えてないじゃないか。
「――あなたが、好きだからです」
「……よく言った。私もだよ」
彼女と出会ってから、二年ほど。頻度はまちまちだったが、月に一回は会っていたと思う。色々なところへ行った、色々なことをした。――ずっと、彼女が好きだった。
「やっと、言えました」
「やっと言ったね。この臆病者」
「……すみません。断られるのが、この関係がなくなってしまうのが、怖くて」
「……まぁ、そうだね。何せ、どちらかが望まなくなれば、二度と逢えないんだから」
それだけじゃない。魔法なんて、不確かなものの上に成り立っている関係だ。住む世界も、時間も、場所も、種族さえも違う。この瞬間は奇跡みたいなものなんだから。
「でも、だからこそ言わないとな、と思ったんです。すっかり遅くなってしまいましたけど」
「まぁ、ギリギリ、間に合ったね。よし、じゃあそっちへ行ってあげよう」
ごそごそと、布団を移動するパイロープさん。そして、ぴたり、とこちらの腕に頭を乗せ、寄り添った。――腕枕なんて、いつぶりだろうな。こんなに近くに好きな人の顔がある。彼女の鼓動と体温を感じる。――あぁ、なんて――。
「俺、今、世界で一番幸せかもしれないですね」
「異世界合わせても、一番かもね」
そう笑い合って、唇を重ねた。そこから先は――まぁ、ご想像にお任せする。
◆◇◆◇◆◇
――深夜、物音を感じて目を覚ました。隣にいたパイロープさんの姿がない。起き上がり、音のする方――露天風呂に向かった。
温泉の流れる音。それをかき消すような川の音。そして、空に見える星。ぽつりぽつりとともる、旅館やホテルの灯り。そして――外を眺めながら、女性が咥えている、煙草の灯。
「や。起こしちゃったか」
パイロープさんは、ここに来るときに着ていた服に着替え、夜空を見ながら煙草を吸っていた。少し寂しそうな、それでいて、何かを決意したような、赤く綺麗な瞳が見える。先ほども感じた既視感。あぁ……思い出した。会社を辞めると決めた、仲の良かった後輩。彼もこんな感じだったな。
「――帰るんですね」
「うん」
「……もう、会えないんですか?」
なんとなく、そんな雰囲気を感じたのだ。
「……わからない。でも、しばらくは、会えないかな」
「魔力が、ないんですね?」
明らかに今までとは異なる、長時間の滞在だ。おそらく相当量の魔力を消費しているはず。
「……竜はさ、魔力が足りないとき、自分の生命力を代わりに使えるんだ。でも、代償として、永い眠りを強いられる。生命力が回復するまでね」
「……どのくらい、眠るんですか?」
「わからない。一年か、五年か、十年か、もっとか」
竜のスケールだから、長いだろうとは思っていたが、年単位……しかも、十年以上の可能性さえあるのか。
「なんで、そんなに無理を?」
「だってさ――ドライブして、温泉、二人で入ってさ、ご飯食べてさ、泊まるのなんて、最高に楽しいでしょ。……きっと、最初で最後だと思ったから。このまま少しずつ会うより、もっと、長く、深く、逢いたかった。クニトくん。君が好きだから」
「――でも、それで二度と会えなかったら……」
「大丈夫。奇跡みたいに会えたんだから、また、会えるよ。知ってた? 異世界とこっちの時間の進み、結構違うんだよ」
「え? そう、なんですか?」
「そう。私は外見が変わらないから気づかなかったろうけど、君と会う間隔、ひと月だったり、一年だったり、もっと開いてる時もあったからね。変な風にねじれてるのかもしれない。だからさ、まぁ、また、会えるよ。きっと」
――彼女自身、信じているわけではないのかもしれない。視線は合わなかった。
「……はい、必ず。だって――あなたは、俺の――」
彼女、と言おうとした。だが、それはふさわしくない、と言い直す。
「俺の――運命の人、ですから」
その言葉で、パイロープさんは笑う。そのまま、こちらに抱き着いてきた。俺も強く、抱きしめ返す。
「――またね」
「はい――また」
言葉と同時に、抱きしめていた感触が消える。あとに残ったのはかすかな残り香と、煙草の煙。
俺は、都会よりだいぶ明るい、空を見上げた。瞬く星の合間に、一筋の流星。まるで竜が飛んでいるみたいだと思いながら、天をじっと見つめる。
――再び愛する人に会えますようにと、流星に願うために。
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