第5話 先輩が弁当箱を持ってきてくれた

「体温は平熱……。治ってよかった」


 一夜明けて僕の体調は元通りになっていた。突然きた一条先輩。先輩にはほんと頭が上がらない。


 自分の部屋を出てリビングに向かうと、お母さんはまだ寝ているようだった。昨日は深夜に帰ってきて、今日はリモートで在宅勤務なのだろう。この時間になっても寝ているということはそういうことだ。


 僕は適当に朝ご飯を作る。ハムと卵をフライパンに落としてハムエッグ。それを白米の上に乗せてハムエッグ丼を作りかき込む。


「うん、美味しい」


 リビングにあるソファで食べていると、ふと昨日のことを思い出す。まだ一日も経っていない。先輩がここに来てから。


 ほのかに先輩の匂いが漂うのは気のせいだろうか? それとも僕の気にしすぎ……?


 急激に顔が熱くなって、僕は勢いのまま朝食をかき込んで食器を洗う。


「朝から何変なことを考えているんだ僕……! あ、先輩に連絡しなきゃ」


 一条先輩に体調が治ったことと、今日通学することをレインで伝える。返信は一分と経たずして帰ってきた。


『おはよう。了解した。昼休みに剣道場で待ってる』


 簡素な返事を見て、僕は身支度を始める。


 朝七時前、僕はこの時間に自転車にまたがり、家を出る。

 

 僕の家から学校までは一時間以上はかかる。この時間に出発しないと余裕をもった通学ができないのだ。


 高校進学とともにお母さんが買ってくれた自転車。自転車かごは付いていないけど、フレームは軽くてギアもたくさんある、かなりいいやつ。こういうのをクロスバイクって言うんだっけ?


 これのおかげで自転車通学を苦と思ったことはない。風を切り進んでいく自転車。車が渋滞している国道沿いを走る時なんかはすごく気持ちがいい。


 普通のママチャリとかなら苦戦しそうな坂道も、ギアチェンジを使いこなせば難なく進むことができる。こうして進んでいくと、いつの間にか学校に到着していた。


 白金高校は部活動が活発な高校。朝早い時間帯は朝練に打ち込む生徒が多く、グランドからは野球のバットの音やサッカーのボールを蹴る音、体育館からはバスケやバレーの音が聞こえてくる。


 僕は職員室に向かい、教師に挨拶した後、鍵をもらい剣道場に向かう。古くに建てられた剣道場は学校でも目立たない裏側にあり、周辺に生徒の気配はない。


 もう少し手前に行けば柔道部や卓球部が使う武道場や第三体育館があり賑わっているが、ここはすごく静かだ。


 一条先輩は僕の家庭の事情を考慮して、朝練はしなくてもいいと言っている。しかし少しでも早く先輩の練習相手として不足がないように……と、昨日勢いのまま口にしてしまった宣言を現実にするために、僕は授業が始まる少しの間素振りをしていた。


 僕が剣道部に入ったのは、剣道に憧れがあったからと、母が高校くらい好きなことをやってみなさいと背中を押してくれたからだ。


 学校に許可をもらい、バイトを始めて剣道着や防具、竹刀一式は揃えた。安くない買い物だ……僕にはこれを続ける以外の選択肢はない。


 竹刀一つ振るのも大変だ。身体の重心や握力の加減、剣先をピタリと止めるのも。数ヶ月やってようやく少しは慣れたという感じだ。


 一条先輩の目を惹くような素振りにはとても敵わない。けれど一条先輩のような綺麗な素振りをするため、鏡の前の自分と一条先輩を重ね合わせる。


「先輩はどれだけ剣道を続けてきたんだろう……?」


 僕は一条先輩のことを何も知らない。なんで剣道を始めたのか、普段何をしているのか、何が好きで何が嫌いなのか全部。


 剣道部では部活と学校の授業の話ばかりで、私生活についてほとんど話さない。私生活の話題を振ってきたのはつい一昨日が初で、それも弁当を作ってあげるという話だ。


 どんな弁当を作ってきてくれるのか、どんな風に振る舞えばいいのか、そんなことばかり考えてしまう。昨日からいつにも増して、先輩のことが頭から離れない。


「……い、いやいや恋とかじゃないしこれ! 恋愛感情とかそういうのじゃなくて……先輩後輩の関係についてだし」


 何を一人で言っているんだ僕は!?


 そんなことを考えているとすっかりと時間は過ぎて……僕は危うく朝のホームルームに遅刻しかけるところだった。


 それからホームルーム、授業と一日が進んでいく。授業が進むたび、昼休みが近くなるたび、心臓の鼓動がうるさいほどに高鳴る。


 本当に弁当を作ってきてくれるのだろうか? おかずはなんだろうか? 悩ませた挙句気を遣わせていないだろうか……?


 好みや食べたいものを伝えておくべきだったか……いやそれは少し強欲じゃないか? なんてことが頭をよぎって、授業の内容は右から左へと通り過ぎていくばかり。


 そして運命の時はきた。昼休みを告げるチャイム。生徒たちが少しの間だけ、授業から解放される時間。


 僕はごくりと唾を飲み込み、剣道場へと向かう。みんなが購買や食堂に向かう中、段々と人通りが少ない道となっていき、剣道場に到着する頃には人は全くいない。


 剣道場の鍵は開けられていた。一年の教室よりも二年の教室の方が職員室や剣道場に近い。授業に遅れがない限り、二年の一条先輩の方が先に着くのは当たり前か……。


「し、失礼しまーす」


 僕は剣道場にゆっくりと恐る恐る入っていく。中には正座をし、黙想して待っている先輩がいた。学生服での黙想、剣道着とは違う雰囲気というかギャップに、一段と心臓の音がうるさく聞こえる。


 先輩がゆっくりと目を開く。その後、咳払いを一回して。


「う、うむ……。よく来てくれたな……。座ってくれ。約束通り弁当を持ってきたぞ」


 いつもとは違う辿々しい口調で先輩はそういうのであった。

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