第15話 fly me to the moon

 突然自宅の電話が鳴った。ちょっと戸惑ったが妻の和子は受話器を取った。

「はい、町井です。」と言い、相手の話に「はい、はい」と返事をしていた。

電話は健司の会社の上司からで、夕方、健司が暴漢に襲われ、刺されて救急搬送されたと言う事だった。受話器を持った手が震え、電話が切れてからでも下すことが出来ない。あまりに突然で、予想だにしない事が起こって居る事に、考えが全く追いついていない。心配そうな顔で娘の彩が「ママどうしたの?」と覗き込んできた。

その声で我に返り、受話器を置いた。

「パパが、パパが襲われて・・・病院・・病院に運ばれたらしい。」やっとの事で口にした。「ええっ、パパが襲われたの?どこで?誰に?」と彩が矢継ぎ早に聞く。

その目は既に涙があふれ「どうしよう、どうしたら良い?ママどうするの?」

とパニックになって居る。それを見て和子は、私がしっかりしなければと、気持ちを切り替えるが、何をどうして良いか考えが纏まらない。とりあえず、自分の実家に電話をして、両親に経緯を伝えた。

 びっくりした父親は「とにかく落ち着きなさい。すぐそちらに行くから待っていなさい。」と言って電話が切れた。そばで彩はおろおろして泣きじゃくり「パパ大丈夫?死んじゃわないよね?」としきりに話し掛けて来る。そんなわが子を抱きしめて「大丈夫。パパは強いから。大丈夫。」と言った。

抱きしめられた彩は、母親の胸に顔をうずめて泣きじゃくる。


 直ぐに和子の両親がやってきて、顔を見ると突然涙があふれだし、母親と娘三人が声を上げて泣き出した。それを見て「三人とも落ち着きなさい。」と言って背中を擦ってくれた。

「とにかく現地に行かなければ」と父親が言い、時計を見た。

既に21時を過ぎていて、今夜の新幹線はない。時刻表を調べると明日の朝7時台にならないと現地に向かう列車がない。

「車を飛ばせば、7,8時間で着きそうだ。今からすぐに準備して出れば、明日の朝5時頃には到着する。」「考えている余裕はない。すぐに支度をしなさい。」と父親に言われ、とりあえずの着替えを準備して父親の車で現地に向かう事に成った。

 「留守中に何処からか連絡があるといけないから、お前は此処に残りなさい。」と言う父の言葉で和子の母が留守番をする事に成った。


 処置室に入ってから、何時間が経過したか判らないまま、玲子は廊下の長椅子に座っていた。病院は暖房が効いているものの、やはり深夜には寒さが厳しくなる。

恐怖と寒さで震えていると、通りがかりの看護師が毛布を貸してくれた。

「大丈夫ですか?」と優しく声を掛け、玲子の肩から毛布を掛けてくれた。

「ありがとうございます。あの、町田さんは大丈夫ですか?」

「ごめんなさい、私は担当ではないので判りませんが、気をしっかりお持ちになってください。お辛いでしょうが、ご本人もきっと戦っていらっしゃると思います。」と励まされ、また涙が零れた。

 それから数時間して、処置室の電気が消え、ドアが開き、医者らしき人が出て来た。「ご家族の方ですか?」

「いいえ、会社の者です。」

「そうですか。ご家族には連絡はとれますか?」

「いいえ。多分会社の上司からは連絡が行っていると思いますが。」

「そうですか。」

「あの、町井さんの具合はどうなんでしょう?」

「本来ご家族以外の方にはお話し出来ないのですが。」と前置きをされ

「詳細はご家族にお話しするとして」とちょっと考え、玲子の服の血痕をみて

「現場にいらしたんですね。」と言って「解りました。取敢えず出来る限りの事はしました。あとはご自身の力によるところが大きいのですが、正直、解りません。」

「とにかく予断を許さない状況とだけお伝えしておきます。」と言い一礼して去って行った。

 玲子が気が付いた時、既に辺りは明るくなっていた。

「ああ、夢だったんだ。」と呟く。健司と一緒に海に居た。彼は泳ぎが得意で、素潜りで潜っては、貝や魚を取って来た。砂浜でそれらを焚火で焼いて食べていた。

その浜辺はどこまでも白く、そして二人以外は誰も居ない浜辺だった。

ニコニコしている健司に問いかけると、何も話さずに突然背中を向け海の中に飛び込んでしまった。玲子が必死に健司の名前を呼んだが、待っても待っても帰って来ない。辺りは既に夕暮れになり、沈む太陽の反対側から月が出て来ている。更には、 どっぷりと日が暮れ、満点の星空が広がり、綺麗な月が頭上に上がった。


 ふと、気付くと人の気配がした。数人の人が此方を向いている。その中の一人の女性が近づいて来て「すみません、町井健司の家族の者ですが。」と言った。

「あっ、私、町井さんと同じ会社の前田と申します。」と言って、いつの間にか長椅子で寝てしまった体を起こして、近付いて来た和子に言った。

「すみません、いろいろご迷惑を掛けました。」と和子が言うと

「いいえ、私こそ、近くに居たのに何もできずに・・」と頭を下げた。

被っていた毛布の裾から、玲子が着ていた服に血痕が付いているのが見える。

「それ、主人の・・・」と和子の言葉が詰まった。

「私、町井さんと一緒のプロジェクトで、此処に来ていたのですが、突然暴漢に襲われて、倒れた町井さんに付き添っていました。」と言うと、それを見た和子が泣きながら「そうでしたか、本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」と再度頭を下げた。

 少しして、看護師がやって来た。「町井さんのご家族の方ですか?」と聞かれ和子が「はい。」と言うと、先生からご説明がありますので、こちらへどうぞと案内されていった。

 玲子はまた一人になり、そのまま長椅子に座っていた。とにかく色々なことが有りすぎて、とても何かを考える力がなく、ただ座っていた。

 一時して、番頭さんと専務さんが健司の上司の課長を伴ってやってきた。

「前田君、大変だったね。」と課長は言い、「様子は、わかったかい?」と聞かれたので「詳しい事はご家族にしか教えられないと、でも、手は尽くしたのであとは本人次第と。今ご家族が先生の所で説明を。」と言っている所に、和子と娘がやって来て、課長と挨拶を交わした。

「私、町井君の上司の片桐です。」と言うと「町井の家内の和子です。」と言った。

「この度は、町井君が大変な事に成り申し訳ありません。」と言うと「いいえ、此方こそご迷惑をおかけいたしました。」と言って、状況を話し始めた。

「まだ意識は回復していません。刺された背中にはかなり深い位置まで刃物が入り致命傷になって居るとの事です。ただ、町井の場合、体が大きく丈夫で、一般的な方なら危なかった所、寸での所で刃物が止まっていて、一命を取り留めたらしいのですが、まだ予断を許さない状況は変わらず、現在、ICUに入っています。おそらく24時間が勝負になると言う事でした。」


 課長が「前田君も大変だったね。とにかく一度帰ってゆっくり休みなさい。」と言うので番頭さんの車で、旅館に戻ることにした。

一緒に居た専務が、和子に向かって「ご家族の方もよろしければ、ご一緒にいかがですか?この時間にお見えと言う事は夜を徹して走ってこられたと、お見受けいたしますが、部屋をご準備させていただきますので、是非。」と言った。

 旅館に戻り、浴衣に着替え温泉で温まることにした。とにかく疲れた事だけは分かるが、経験したことの無いようなスピードで時間が過ぎていく。

 脱衣所から浴室に入り、掛け湯をして広い湯船に体を沈めると、冷え切って居た体に血が巡り出すのが良く判り、やっと強張った体が少しだけほぐれた。

 少しして、和子が湯船に入って来た。「前田さん?前田玲子さん?」と声を掛けられびっくりして和子の顔を見る。「ごめんなさい、驚かせてしまって。」そう和子は玲子をフルネームで呼んだのだ。少し間をおいて続けた「お目に掛かれて嬉しいわ。あなたの名前は主人から聞いていたけれど、お会いする事は無いと思ってた。」

「どういうことですか?」

「主人から聞いてるかもしれないけど、私たち離婚するんです。」と言って顔をしかめた。「離婚の話をしている時、あなたの事を聞いたの。離婚は私がいけなかったんだけれど、それを主人は責めなかった。自分にも心を寄せた人が出来た。だからだって。」

玲子は言葉に詰まった。健司が自分の事、そんな風に思って居たなんて。

「娘の事があるので、まだ籍を抜くのは少しかかるけれど、彼からはサインして捺印した離婚届を預かっている。」と和子はつづけた。「あとは君の好きなタイミングで提出してくれって言われたわ。」

玲子は体の中から熱い思いがこみ上げ、泣いた。

「町井さん。」と言い和子を見た。

 湯船の中で和子は玲子の所に近づいて来て「健司さんをよろしくね。」と言って玲子の手を握った。

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