第9話 三日月の誘惑
最終日は朝から雨だった。
起きて直ぐ温泉を頂き、満喫した。確かに旅行気分と指摘されればそうゆう事に成るかもしれないが、玲子曰く、「必ずユーザー目線にヒントが隠れている。だから仕事だけど楽しんで。楽しんだ人にしか気付けない事や、楽しんだからこそ判る、伝わることが有るの。だから、楽しんで。」
2日目は朝から観光協会に挨拶に行き、この土地の良い所を聞いて来た。まだまだ知られていない良い所が沢山ある。しかし、その情報をただ発信して行くだけでは、周りの受け入れ態勢が出来ていない。
そうすると、お客様にはリピートをして頂けない。目標は何度もリピートして頂けるお客様を、いかに増やすか。
どんなに立派な経営計画を立てても、集客が上がらなければ、売上も上がらない。
その為に何をするか、そして、どうしたらリピートして頂けるかがカギになって来る。
午後には、メインバンクの担当者と会い、その老舗旅館だけでなく、町全体が期待して居ると更にプレッシャーを掛けられた。もちろん、細かな計画も必要だが、何処にお金を掛けて、どの経費を抑えるのか、時には大ナタを振る必要もありそうだ。
やはり
それを踏まえて、今日、新たな観光スポットになりそうなところは無いか、あるいは地元の商店とコラボできないのか、などを探るべく町中を案内してもらう予定だ。
雨ならば、雨でも楽しめる方法は無いのか、雨だからこそ見れる景色は無いのか。
そんな思いで町中を走り回り、帰りの列車の時間ぎりぎりまで粘った。
和倉温泉15時19分発、特急能登かがり火8号は既にホームに入っていた。
急いで改札をくぐり、見送りに来た番頭さん達に頭を下げ、礼を言って階段を上った。列車はこの駅が始発の為、少し早めにホーム入りしているが、それでも乗車したとたんドアが閉まり、走り出した。
指定席まで車内を移動し、やっと座った瞬間、緊張がほぐれ眠気が襲って来た。
金沢には16時30分に到着し、乗り換えは16時48分発の新幹線かがやき521号で、東京駅には19時20分に到着する。
そこから最寄り駅まで行っても20時頃には帰れるが、やはり玲子と夕食が食べたいと思い、着いてから夕食をとる事にした。
定刻通り新幹線は東京駅のホームに滑り込んだ。
在来線に乗り継ぎ、最寄り駅方面に向かう。玲子もさすがに疲れたようで、口数も少なくなっていた。
いつもの居酒屋で軽く食事をしようと言うので、その店の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい。」威勢のいい大将の声が、疲れを少し吹き飛ばしてくれたような気がした。生中を2杯と焼き鳥、おでん、茄子の煮びたし、カマ焼きなどを適当に注文し、ひとしきり飲み、食べた。
「私、やっぱり緊張していたのかなぁ。」確かに、いつもの玲子ならこの程度のアルコールで酔う事は無かった。しかし、今夜は頬を赤らめ、目が潤んでいる。
「今日は早めにお開きにしよう。」と言って会計を済ませた。
店を出ると、玲子が店の前で待っていた。
「大丈夫?送ろうか?」と声を掛ける。
「大丈夫、まだ歩ける。」そう言うと、ちょっとふらついて居るので、少しの間ついていくことにした。
少し行くと小さな公園があり、そのベンチに腰掛けた。
「私、ごめんね。やっぱり・・」と言って俯いた。
顔を両手で覆い、涙ぐんでいるらしい。「どうしたの?」と聞いてみたが、そのまま彼女の肩を抱き寄せた。
「私、あなたの事を好きになったみたい。そうやって優しくされると、ただの女なんだなぁって思うの。」
どの位の時間がたっただろうか、さっきまで疎らではあるが人が行きかっていた道にも、人影が無くなっていた。
健司は黙ったま、玲子を抱きしめていた。
「このプロジェクトの話を貰った時思ったの。これ以上、町井君と一緒に仕事して居たら、絶対心が、あなたを必要って叫び出すのが解っていた。だからこの3日間とても幸せだった。別に何もなかったけど、仕事をしているあなたを見ているだけで、すごく心がときめいていた。新幹線がだんだん東京に近づくのが嫌で、とても苦しくなっていく自分がいたの。本当にごめんなさい。」
こんな時、気の利いた言葉が掛けられるような男だったらと、自分を責めた。
「あなたには大切な家族があるのに、あなたを困らせるようなことを言って、私って駄目な女だよね。でも、もう自分に嘘付けなくなっちゃって。」と更に肩を震わせている。
愛おしい。健司はそんな想いが、忘れかけていた熱い思いが、湧き上がって来るのを、はっきり感じていた。
たぶん、妻に対してはこんな想いは、既に失くしてしまっていて、それを何とか繋ぎ止めようと、彼女を抱こうとしたけれど、拒否された。
悪気はない事は分かって居たが、その、ぽっかりと空いた心の穴に、ゆっくりと染み込む様に玲子の笑顔が入って来た事実は否めない。
だが、自分には妻がいて娘がいる。安易に自分の心を伝えるべきで無い事も承知していた。
ひとしきり泣いた玲子は、健司の腕をほどきベンチから立ち上がった。「もう大丈夫。ごめんね今の事は忘れて。」と言って無理に笑った。またその顔が愛おしい。
強く抱きしめたい衝動を、どれほどの思いで振り払っただろうか。
「ちょっと疲れただけだよ。大丈夫、明日になれば忘れられる。」と無責任なことを健司は言ったが、説得力がない。
そのまま、玲子のマンションの近くまで送り、駅に戻った。
時計はまだ22時前だった。
駄目だ、今夜は飲みたい。そう思いペーパームーンに向かった。
重たいドアをひらく。静かなジャスが流れている。いつものようにカウンターに座り、スコッチをダブルで注文した。
「何かありましたか?」マスターの脇で、お通しを作りながら、容子さんが声を掛けて来た。
「えっつ?」
「玲子さんに告られました?町井さん、解りやすいから。」と笑っている。
「そんな顔してお家に帰ったら、奥様にバレバレですよ。」
「確かに、ちょっと困りました。どう答えていいのか判らず。気の利いた言葉も見つけられない自分が情けなかった。」
「もし、今、東京に大きな地震が来たとしたら、町井さん、あなたは誰の事を真っ先に心配しますか?」と聞かれた。
思い浮かべたのは玲子の顔だった。
「そうゆう事です。自分の心には嘘は付けない。ただ、それをどう行動に移すかだけの話で、基本はなるようにしかならないのです。」
容子の言って居る事は、いちいち、もっともだった。
「一つ聞いていいですか?僕は今浮気をしているのですか?」
確かに、心は妻ではなく、よその女性を向いている。躰の関係がない分、不貞行為ではないと思うが、どう解釈して良いのだろう?と思いながら、我ながら馬鹿な質問をしたと後悔した。
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