第3話 恋の立待月夜

 玲子のカミングアウトで、すっかり酔いが醒めた健司はペーパームーンを出た後、タクシーを駅前で拾い、自宅に戻った。

 玄関の鍵を開ける。人の気配がない我が家に帰るのは、初めての経験かも知れないと思いながらリビングのドアを開け、照明をつけた。

その後妻からは、何の連絡もなく、どうしただろうと思いながら服を脱いだ。

秋が深まってきたとはいえ、家の中はそれほど寒いわけでも無く、健司は脱いだ服を持ち、洗濯機の所まで歩いた。

 再度、浴室に入り、熱めのシャワーを浴びた。

「すっかり酔いが醒めてしまった。」と呟き、バスタオルで髪を拭きながら寝室に戻って来た。普段は掛ける事のないオーディオのスイッチを入れ、古いCDを再生した。この機器は彼がまだ学生だった頃、バイトのお金をためて買った思い出の品で、その中に入っているCDはその頃よく聞いていた曲が入っている。

 妻と結婚してからは、ほとんど再生される事は無かったが、今夜のような気持ちの夜は、思い出にどっぷりと漬かりたかった。

「俺はどうなんだろう?」と自問自答してみたが、果たして玲子のように、パートナーを想って、何かしてあげる事が出来るのだろうか? 彼女はああいう性格だから、自分を責めて寄り添ってあげられないと言ったが、心の中はかなり傷ついていた、いや、まだその傷跡ははっきり残っていて、少し触れただけで、鮮血が噴き出すのではないだろうかと思うと、苦しくなった。

 

 妻と結婚して12年と言う時間が過ぎた。授かり婚で一緒になったので、その時の娘はこの春、中学生になった。

家族を一生かけて守る。そう誓ったあの日の気持ちに嘘はないし、今もそう思って居る。しかし、この12年と言う時間の中で、小さな心のずれが、お互い蓄積してきて、会話が続かないのが本当の所だ。

 当時妻は、都銀の窓口業務をしていた。短大を卒業してから、結婚までずっと同じ職場で、娘を出産してから、再度パート社員として同じ銀行に今も務めている。

 俺は、娘の下にもう一人子供をもうけたかったが、妻は「この子にすべての愛情を注ぎたい」と言う考え方で、出産を拒んだ。言って居る事は分かるが、正直、納得は出来ていない。確かに昨今では、子供を一人前に育てるためには、かなりの金銭負担がある事も理解している。習い事や塾、学校の部活。公立ならまだしも私立に幼稚園から入れて、エスカレーターで大学まで行かせる方が、無駄な受験の心配をせずに済む事は、本人はもとより、親にとってもかなりの精神的負担の軽減になる事も、わかる。しかし、それで本当に良いのだろうか?と言う考えが、時折頭をもたげる。

 そして、彼女の両親の事が心配だ。今はまだ元気だが、父親はすでに定年で退職をして、母親と良く旅行に出掛けていた。

 健司の両親は既に二人とも他界している。

父親は健司が幼い頃事故で無くなり、ほとんど記憶にない。母が一人で育ててくれた。その母も、5年前に癌で他界した。調子が悪いと病院を受診してから、わずか3か月だった。

 検査した時は既にステージ4で全身に癌が転移していた。その時の主治医曰く、これほど悪くなるまでにはかなり痛みがあったはずですが、お母様は何も言わなかったのですか?と検査結果を聞きに行った時に言われた。

 未だ、妻の両親は元気だから良いのだが、いづれその時は、必ず来る。

それは全ての生きとし生けるものに平等に。

その時がまだ若く、パートナーの世話をすることが出来ればよいが、その時は何時か誰にも判らない。当然、妻の両親を介護したりすることは問題ないが、妻も一人っ子だから全て我々夫婦で何とかしなければいけない。当然その覚悟は結婚する時から出来ているので良いが、娘はどうだろう?まだ中学生の娘の行く末を心配するのは早いかもしれないが、果たして、同じような境遇で俺と同じ覚悟を持った男性と巡り合って、結婚できるのだろうか?

 そして、われわれの葬儀を済ませた後、娘の心をだれが支えてくれるのだろうか?

 一人でも姉妹が居ればと思うと、やはりもう一人、出来れば男の子と考えている俺はただの古臭いオヤジだろうか?

 

 そんな考え方の違いから、心が少しずつ心が離れて行ったように思う。

最近では、自分の最期は一人が良いとさえ考えている。誰も悲しませたくないし、看取られることも、させたく無かった。

「俺は何のために結婚をしたんだろう」とさえ思う。そんなことを考えている時に、あの玲子の発言は衝撃以外の何物でもなかった。彼女には、一人で生きていく覚悟を感じた。それは取りも直さず、一人で死んで逝くと言う事だ。その覚悟をすると言う事は、かなりの悩みやプレッシャーがあったに違いない。

そんなことを考えながら、ベットに潜り込む。

今夜のダブルベットはかなり広く感じた。眠りに落ちていく時、枕に付いた妻のにおいが鼻を突いた。


 翌日、朝眩しくて目覚めた。カーテンの隙間から朝日が差し込み、健司の瞼を照らしていた。まだ、体が完全に起きていないが、ベットから抜け出しキッチンへ向かった。

 寝ぼけた頭で、ケトルに水を入れ、コーヒー豆を挽く。ドリッパーにペーパーフィルターをセットしてマグカップの上に乗せ、お湯が沸くのを待つ。

暫くして、湯気を立て始めたケトルを持ち、コーヒーを落とし始めた。

 かつてバイトでさんざんやっていた動作は、寝ぼけていても体が勝手に動く。

コーヒーの入ったマグカップを手に持ち、リビングのソファに座った。

 時計はまだ7時前だったが、コーヒーを飲み頭を叩き起こし、風呂場に向かった。

熱いシャワーを浴び、着替えを済ませてから妻に車で迎えに行くとLINEした。

 妻の実家は高速で2時間少々の所にあり、久しぶりにドライブがしたくなった健司は早起きをしたのだ。妻の両親にもしばらく会って居なかったので、ご機嫌伺も兼ねていた。

 暫くしてLINEに返信があり「ありがとう、でも大丈夫。何時に戻れるか判らないし、折角のお休みは健司の為の時間に使ってください。私も明日は出勤だからそんなに遅くならずに帰ります。すみません。」と書いてあった。

やっぱり、頼まれないことは必要ではないと言う事かと思い、気落ちした。

 折角出掛ける用意をしたので、家を出る事にした。車で郊外にあるショッピングモールの中に有る映画館に行くことにした。

ちょうど見たかった映画が最終日で上映していた。その大型商業施設は、色々なテナントの他、映画館やスポーツクラブが併設してあり、日曜日は家族連れでかなり賑わうことは予想できたが、なんとなく空いた心の穴を埋めるにはちょうどいいと考え、車で向かった。

 行きの車の中で、昨夜寝室で聞いていたCDを掛け、又どっぷりと昔の自分に合いに行くことにした。

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