第2話 十六夜の風
健司と玲子はその後、しばしば食事に出掛けた。
玲子による、仕事のミスのフォローと言う借りが出来た健司は、何となく勢いが消え、かつて成績のライバルと思って居た彼女に、少なくともリスペクトの念を抱き始めていた。
二人はいつも、仕事の話を中心に食事や酒を飲み、仲睦まじいカップルと言った感はあまり感じられなかった。しかし、健司は玲子と居る時間が居心地よく、深夜まで仕事の話で盛り上がった。そして何時ものように玲子からのLINEには「よかったら、残念会をしませんか?」と入ってくる。
まるで暗号のように、二人には通じ合う何かがあり、その合図とともに「今夜19時、隣の駅のロータリー前の広場で待っています。」と時間と場所が送られて来る。
それを見て、今夜はあそこの店だなと理解できるまでになって居た。
その店はお洒落なイタリアンで、よく食べ、よく飲む玲子のお気に入りの店で、旬の食材を店主自らが農家に買い付けに行き、野菜をふんだんに使った料理や、魚介の料理などが売りの店だった。
「町井君、この間の伊橋商会さんの事なんだけど、その後どうしてる?」と聞かれ、「それなら今週末に、新たな事業展開のプレゼンをする事に成った」と報告した。
別に上司ではない玲子に報告の義務はないが、彼女と話していると、いいアイデアをくれるので自然と報告するようになっていた。おかげで、健司の成績は以前より20%程度上がり、上司からも「町井君、最近調子いいね」と声を掛けて貰えるほどだった。
そして、食事の後にはいつものバーに移動して、仕上げの1杯を飲みお開きになる。
それが二人のこの数か月のルーティーンになって居た。
その日は、土曜日の夜で妻は娘を連れて実家に帰っていた。
高校時代の田舎の友人が、何やら離婚騒動で大変らしく、「ちょっと気になるから行ってくる」と言い娘を連れ午前中に出掛けて行った。
少し遅い昼食を済ませ、のんびり読書をしていると、いつの間にかソファーで寝てしまい、目が覚めるとあたりが暗かった。
窓から、街頭の光が入り込み、部屋の中を薄っすら照らしている。
今何時だろうと、時計を見るとリビングのデジタル時計は20:17分を表示していた。すっかり眠ってしまった様だ。リビングの照明をつけ、テーブルの携帯を見ると妻から2度ほど着信があり、応答がなかったので、メッセージで「今夜は帰れそうにありません。ごめんなさい。」とだけ入っていた。
きっと、妻の友人の離婚話がもつれて、つかまったのだろうと思い。
「大丈夫、こちらは一人でのんびりしているから心配しないで。友達の力になってあげてください。」と返信を返しておいた。
とはいうものの、すっかり眠ってしまって、夕食の準備を何もしていなかったので、外食をする事にし、シャワーを浴びで出かける準備をしていた。
全身に、熱めのお湯でシャワーをすると、すっきりして目覚めた。
クローゼットに行き、下着とお気に入りのジーンズ、長袖のTシャツを取り出し、洗面台の鏡で、髪を整え着替えを済ませた。
最寄りの駅までは、歩くと15分くらい掛かるが急ぐ必要もないので、散歩がてら歩くことにした。
休みの日、こんな時間に一人で外出するなんて何時ぶりだろうと考えながら、歩いていると、少し肌寒い風が吹いた。どこからか金木犀の香りが漂い、秋が深くなりつつあることを知らせて居る様だった。
暫くして駅に着いた健司は、定期を使って入場し電車を待った。
程なくして列車がホームに滑り込んでくる。何も考えずに、その列車に乗ると知らぬ間に玲子と良く食事に行く、居酒屋がある駅に向かおうとしている自分に気づき、苦笑した。何も休みの日まで行かなくても。と心の中で思ったが、やはりその店で夕食をすることにした。
目的の居酒屋がある駅に着き、改札を出て歩いていく。
健司の住んでいる街よりも少し繁華街になって居て、まだ人がたくさん出ていた。
居酒屋の暖簾をくぐり、「いらっしゃい」の声に一人と言う意味で、右手の人差し指を立てた。カウンターの席に案内され、生ビールとおでんを幾つかと、焼き鳥を注文した。お通しの枝豆をつまみながら、生ビールを飲んでいるとおでんが、良い香りの湯気を立てて運ばれてきた。「すみません、生お替りください。」と言って2杯目を注文する頃には、焼き鳥も上がって来た。
暫く食事をした後、時計は22時少し前を指していた。
これからどうしようかと考えながら、居酒屋を後にした。
そうだ、いつものバーに行ってみよう。そう考え、駅とは反対の方に歩き出した。
少し人通りが少なくなって来る路地裏にそのバーは有り、入り口の行灯看板には「ペーパームーン」の文字が浮かんでいた。
重厚なドアを開け、店に入ると、いつものように静かなジャズが流れていた。
ただ、土曜日なのでいつもより店内は混んでいたが、カウンターには健司が座る席が空いていた。いつものように穏やかな口調で、店主が「いつものロックでよろしいですか?」と聞いてきたので、頷きながら「今日はダブルでお願いします。」と言った。アーモンドやピスタチオの入ったナッツを注文し、それをつまみにスコッチを楽しむ。少ししてチェイサーが届き、合間にそれをはさみながら、健司は心地いい酔いを楽しんでいた。
「お一人は珍しいですね。」と女性のスタッフに声を掛けられ、「これ、いつも来て頂いているのでサービスです。」と言って、小さめにカットした数種類のチーズが乗った皿を差し出した。
「ありがとうございます。」と礼を言い、早速そのひと切れを口に運ぶ。追いかけて、ロックグラスのスコッチを口に含むと、更に香りが広がりその豊潤さに更に酔いが追いかけてくる。こんな一人の時間は至福の時だと悦に入っていた。
しかし、その至福の時はあっさり崩れた。
店の入り口扉のベルが音を立て、来客を知らせたとき「あらー、町井君どうしたの?」と聞き覚えのある声がした。
カウンターに居る俺を見つけた玲子が、すぐ脇まで歩いて来て、「奥様と喧嘩でもした?」と冗談ぽく笑いながら隣の席に座った。
「へ?どうしたはこちらのセリフだよ。」と返しながら改めて彼女を見ると、いつもの仕事の時とは明らかに違う出立で、縛っている髪を下ろし、白いブラウスにスキニーのジーンズ、足元は赤のパンプスを履いている。身長も160cmほどあり、目鼻立ちもはっきりした美人の玲子は、ただでさえ目立つのに今夜は特別だった。
女友達4人で食事をしていて、その帰りだと言うが、時計はすでに午前零時を少しだけ回っていた。
「土曜日は家族の日じゃないの?一人でこんなところに居ると、奥様に逃げられちゃうよ。」と明らかに酔った口調で、上機嫌だ。なんでも、食事の後にこの店に来て1杯だけ飲まないと、1日が終わらないらしく。注文しなくてもマスターはシェイカーを取り出して酒を注ぎ始めている。
「私は独身アラ40だから、平気だけど。」と笑顔で話しているが、とてもそんな風には見えない。
「実はね、此処のマスター、私の元夫なの。」
思わず、口に運んだチェイサーを吹くところだった。
「はい?」と動きの止まった健司を見て玲子は笑っている。
「彼がまだ、以前の行き付けの店でサブマネージャーをしている時に結婚したんだけれど、わたしも仕事を覚えたてで、仕事に夢中。そしたら彼、浮気しちゃって、でも、離婚の原因はその浮気が原因じゃなく、私がいけなかったの。本当は自分の店を持ちたいという彼に、寄り添って居たら良かったのに、私、家庭的じゃないし、仕事面白いしでね、彼を幸せにしてあげる自信が無くなっちゃって。」と一気に話をした。「でね、その時の浮気相手が容子ちゃん。そう、今マスターの隣にいる彼女。会って色々話してたら、とても良い子で、この子と彼が一緒になるなら幸せになれるって、私ピンと来たのよ。だから私と離婚して、容子ちゃんと結婚してってお願いしたの。」そう言いながら屈託のない笑顔を向けてくる。
健司はあっけにとられ、酔いがさめた。「何のカミングアウト?」と突っ込んでみたが、よほど機嫌よく飲んで居たせいか、その笑顔が消える事は無かった。
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