金木犀の片思い
神田川 散歩
第1話 満月の夜に
外回りの休憩で、コーヒーのチェーン店に入りホットコーヒーを買った。
テイクアウトして、いつもの公園のベンチに座り、一口すすった時に、LINEの着信音が鳴った。
「今晩、いつもの店で残念会しませんか?」
玲子からだった。
彼女は、3年前ヘットハンティングで我が社に来たエリートで、新規事業の中心を担っている。基本は社内での人材育成のような事をしているが、もともとが営業で、バリバリの経歴を持っていたので、たまに若い子の面倒を見る体で、一緒に外回りをしていた。
「実際に、やって見せた方が解りやすいのよ。」と言うのが口癖で、そのくせ、ほとんど彼女が外回りをしている時は、一緒に行った若手が度肝を抜くような結果を出してきた。
彼女が来てすぐに、部内では常に上位の成績を保っていた俺は、すぐに危機感とライバル心を持ち、玲子に接触していた。
そんなある日、俺が営業でミスをした。しかも致命的なミスで、クライアントを怒らせてしまい、取引を中止されそうになった時、彼女が助けてくれた。
その取引先は、先代の社長の時からのお得意様で、老舗ではあるが、ただ古いだけではこの先が見えている。新しいことに挑戦していかなければ、経営が傾くと言う危機感を持って、弊社にその新分野での挑戦のサポートを依頼してくれた。
しかし、見事にその信頼を裏切る結果になり、更にその後に提案したプレゼンがよくなかった。
「御社とは今後付き合いを改めさせていただく」と強い口調で言われ、何度足を運んでも、先方の社長は会ってくれようとはしなかった。
そんな時、何処から聞きつけたか、玲子からLINEが入った。
「大島商事様の件で、お力になれるかもしれません。良かったら、本日18時、駅前の居酒屋大将にお越し頂けないでしょうか?」
一体どうゆい事だろうか。
「彼女にとって、俺はライバルであり助ける義理もないはずなのに」とつぶやきLINEを返した。
「おっしゃっている意味が良く判らないのですが、何故ですか?」
ちょっとぶっきら棒になってしまったその返事に、玲子は「このまま大島商事様と取引できなくなると言う事は、我が社にとって大変な不利益になると考えています。どうか、今後の事も踏まえ、是非18時に居酒屋大将にお越しください。」と帰って来た。
指定された18時少し前に俺は、居酒屋大将の暖簾をくぐった。此処の店は、会社の連中もよく使うというより、プライベートで飲みに来ると言った感じの店で、俺も入社して間もない頃から通っているので、店主の事もよく知っている。
「いらっしゃい。奥の座敷どうぞ」といつもの元気のよい良い声で店主が言った。
おかみさんが奥から出てきて、俺を奥の座敷に案内すると、そこにはすでに大島商事の社長と玲子が座って、にこやかに談笑していた。
ふすまが開き、おかみさんが「お連れ様が見えました。」と伝えた瞬間、社長の顔がこわばり、一瞬でその場の空気が凍り付いたようだった。
「あっつ、町井さん、お待ちしていました。」と玲子は笑顔を残しつつ言ったが、床の間を背にしていた社長は、すでに不機嫌な表情をしていた。
「あの、この度は・・・」と言おうとした瞬間、玲子に手で制され、「町井さん、今日は私が大島商事の社長と町井さんをお誘いしたの。この場は私に預けてくれない?」
「はあ、・・・」と言い面食らった。
そして玲子は「社長この度は弊社のミスで、大変なご迷惑をおかけしました。心より深くお詫び申し上げます。」と深々頭を下げた。
「いやいや、玲子ちゃんそれはないだろう。」と大島商事の社長が慌てる。
「そもそもこの件で、あなたが頭を下げるのは筋が違う。」
「いいえ社長、今私は今回の件の最終責任者としてお詫びしているのです。」
と言い、「弊社にとって、大島商事様はとても大切なお客様で、先代社長の時からのお得意先です。そんな大切なお客様を失うわけにはまいりません。」
少しの間、沈黙がつずいた後、社長が口を開いた。
「わかった、今回の事は白紙に戻す。もう一度だけチャンスをやるから、町井君新しい企画案を今週中に出してくれ。」とだけ言った。
事の成り行きが解らないまま、その場は返事をした。
そこから、「はい、この件はこれでおしまい。飲みましょ。」といって、酒やつまみが運ばれてきた。
2時間くらい時間が経過しただろうか、気が気ではない俺は、酒も肴も進まず、居心地の悪い座布団に座っていた。
そして、「うん、じゃ、そろそろ帰るとするか。孫が待っているから。」といい、社長はタクシーで帰って行った。
「前田さん、いったい此れはどうゆう事ですか?」と社長が帰った後、質問すると玲子は「ごめん、ちょっと場所変えない?」と言うので、その言葉に従った。
居酒屋の会計を済ませ、店を出ると玲子が待っていた。
「ちょっと行ったところに、私の行き付けがあるの。そこでいい?」と言われついていくとそこは会員制のバーだった。
重厚な木製のドアを開くと、抑え気味のジャズが流れて居た。
ドアに取り付けてあるベルが揺れて鳴り、「いらっしゃいませ。」とカウンターの向こうから男性の声が聞こえた。
その声のする方へ玲子は歩いていき、低いカウンタースツールに腰かけた。
俺もその後に続き腰かけ、ちょっと面食らった顔をしたまま、持っていたビジネスバックを隣の椅子に置いた。
「マスター、マティーニをいつもよりドライでお願い。ベースはビフィターじゃな無くゴードンドライで。」
「判りました。」とだけ答えると、俺にもオーダーを聞いて来た。
正直、本格的なバーで飲むことがない俺は戸惑ったが、目の前にあったスコッチを注文した。
「ロックでよろしいですか?」と言う問いに頷きながら、「シングルで」と付け加えた。
少ししてコースターが目の前に置かれ、玲子にはマティーニグラス、俺の前には大きめの氷が入ったロックグラスが置かれた。
それぞれのグラスを持ち、目の高さに持ち上げ、「乾杯」とだけ言いグラスを口に運んだ。玲子は一気に半分くらい飲み、ふーっと息を吐いた。
俺は、本当に少しだけ口に運び、口の中に入ったスコッチを、一瞬舌の上で留めてから、飲み込んだ。
「びっくりしたって顔してるけど、本題に入るね。」「大島商事の社長とは、以前いた会社で付き合いがあり、よく知った仲で、知り合いを通して、実はコンサルを頼まれていたことがあったの。でも、その時はビジネスではなく、個人的なレベルの相談みたいな感じだったから、あまり突っ込んだ話は出来なかった。」「ある時、ちょっとしたトラブルで困っていた社長を助けたことが有って、今日はその貸しを返してもらった感じかな」と笑みを浮かべながら話した。
「でも、どうして?」と再度聞いてみた。
「町井君、今回のミス、本当はあなたのミスではなく、部下の小川君の勝手な判断のミスでしょう? なのにあなたは彼を責めなかった。」
確かに、玲子が言うように今回のミスは、部下がしてしまったことだが、責任は上司の俺の所に来るのは当たり前なのだが。
「昨年、彼が入社した時の教育係は私で、気を付けていたけど、彼、結果を出したくて焦っていたと思うの。研修中も優秀だけど、注意力が足りないというか、だから今回の件は私の教育係のミスでもあると思う。」そう言い終えると、マティーニを口に運び、残ったオリーブをかじった。
同じように健司もグラスを口に運びながら、彼女の唇にオリーブの実が触れる瞬間を見たとき、禁断の何かいけない物を見てしまった感覚に、心が釘付けになった。
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