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 帰りの車の中にあったのは消極的な罵倒と積極的な沈黙でした。狭いカゴの蝉の衰弱を受け入れられない弟の駄々、苛立つ父からの過度な叱責、それをとがめる母による誹謗ひぼう。僕は降る雨が永遠に止まずに、この星を沈めてしまえばいいと思いながら静かに外を見ていました。家に着いた後も、皆、目を合わせる事はなく、それぞれ自分の部屋に疲れ切った頭と体を運び入れるのみでした。



 雨は十時頃に止みました。僕は月明かりの差し始めた二階の子供部屋で、どこという事もない場所を見つめながら黙って横たわっていました。隣のベッドでは弟が眠っています。こうして過ごすのは残り数日なんだ、しかも起きている時間で計れば一日分もないんじゃないか、なんていう気がして来ました。いつも眠る前に弟と話をしていれば良かった。昨日は、今日は、明日は、どんな夢を見るのか、聞いていられたらよかった。悔しい思いが内蔵の奥の方から膨らんで僕を泣かせました。



 脳というのはおかしなもので、どんな惨めな状況に縛られていようが、一度泣き出してそして止んでしまえば、冷静な形而上学けいじじょうがくに裏打ちされたシュールレアリズムを披露しようという、昂然こうぜんたる道化師を何処からか雇い入れるのです。これを皆さんが「希望」と呼ぶかはわかりませんが、少なくともこの時の僕は徐々にほがらかになり始め、良くも悪くも、今までの事がどうでも良くなれたのでした――そうだ、これからは僕が、僕の考えで、僕を中心に置いた人間関係をつくろう。家族はおしまいで、それでいいんだ。人生は悪い事ばかりじゃないし、良い事ばかりでもいけない。弟にしたってそうさ。幼児はあっという間に少年になる。少年はまるで風が吹き去る様に大人になる。かつて幼児だった少年も次会う時はきっと大人なんだろう。そのためのさよならだ――僕は涙をこすりました。



 立ち上がってカーテンをけると、庭木に着いた水滴が、生まれたての宝石の様にキラキラと並んで明日の太陽から出る列車を待っています。窓を開けるとそっと精悍せいかんな風が入って来て、今までは何とも思っていなかった大気が頼もしい利発な先輩であったと気付きます。もうめそめそししてられない、やめ、やめ。そう思い部屋を顧みました。旅行鞄やお土産なんかが重なった丘の上に青と黄のプラスチックで出来た弟の虫カゴがあります。何となく気になって取り上げてみると、中の蝉はやはり死んでしまっていました。



 ここはとても重要なくだりです。蝉はよく死んだふりをしているものですが、この時のそれは、確かに、とうに息絶えて飴細工の様になったでした。僕は摘み出してまじまじと観察したのです。明る過ぎるほどの月に照らされて、そのルビー色は生きていた頃より一層燃え盛って見えました。そうです、それは真っ赤だったのです! そんな蝉、皆さんご存知ですか? 写真の発色のせいでそんな風に見える場合はままありますが、そんな生半可な赤ではなかったのです。月光の影響でしょう、といわれますか? あの日の月は白く、部屋の他の物は冷たく、大人しく見えるだけで色は昼間と変わっていませんでした。その中で、まるで人には聞こえない呪咀じゅそを自身の周りに撒き散らすかの様に、固まり始めた血液の如き赤い体躯たいくをめらめらぎらぎらと光らせていたのです。



 果たしてあれは? 亡骸なきがらと向き合っていた場面を振り返ると必ず、ヴァンパイア映画の誘惑のシーンが干渉して来るのです。背筋が冷たくなるのです。しかしあの時は――いわゆる「躁」になっていたのでしょう――かすかなけがらわしさをかろうじて感じた位でした。そして、弟の事がちらと頭に浮かびましたが、死骸しがいに興味もなかろうと思い、窓から庭に放り投げたのです。



「何してるの?」



 僕はぎょっとして冷や汗だらけになりました。しかし見ると当たり前で、弟です。僕は一体何がそんなに怖かったのだろうと我ながら不思議でした。それでもすぐ、弟の愛らしさに気持ちがいっぱいになり、離婚の事、今後の僕らの事などは今ここで打ち明けてしまった方がいいんじゃないかと考え出していました。まずは安心させようとベッドに並んで座って、蝉について伝えます。案の定、もう関心をなくしていました。そこから今日の話、この夏の話、去年にまでさかのぼる話と、徐々に両親の状況へ迫って行きました。そしていよいよ、「お別れ」という言葉を出した時です。



「――兄ちゃんはおっかない事を言って、僕を寝れないようにしてるんだ」



 この時の弟の横顔をはっきりと覚えています。僕の弟は――まだ七歳にも届いていなかった彼は――既に全てを知っていたのだろうとわかりました。家族の話の始まりから決してこちらを向かず、そんな事をすれば涙を抑えきれなくなるといわんばかりに、うつむいて自分のももに置いたこぶしを見ていました。



 先に述べた様に、この時の僕はちょっとおかしくなっていたのです。ここでやめるべきでした。どうしても、このままで弟をのがしたくない。なんとか明るい展望にまで押しきって、じつは自分もおののいている悲劇の撃破を、この小さな相棒と成し遂げたいという狂気的衝動にかられてしまっていました。



 お母さんはお父さんを好きじゃなくなったんだよ、と言いました。



「お父さんはお母さんが好きだっていってたよ」弟は言いました。



 ――お父さんもお母さんがもう好きじゃないんだ――



「僕は皆んな好きだよ。お母さんとお父さんといるよ」



 ――別々のお家に住んでも、またいつでも会えるんだよ――



「いらない。兄ちゃんといる」



 ――だめなんだ。皆んな一緒にはいられないんだ――



「いやだ」



 ――いやでもしょうがないんだ。だって夏が終わったら僕らはもう家族じゃ



「嘘だ!!!!!! 兄ちゃんは嘘つきだ!! お母さんもお父さんも嘘つきだ!!!!」



 弟は悲しみに歪んだ顔を一瞬、驚く僕に向け、あっと思う間に部屋を飛び出して行きました。大きな音に驚いて両親が起きて来ます。しかし既に弟は、家の中にはいませんでした。

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