タチ・ストローベリ

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当グループが解散に至った経緯については、先日、所属事務所ホームページにてお伝えした通りです。事の発端となったセッション中の衝突は当初些細なもので、プロデューサー含め僕らは、あの二人の事だし、一週間もすれば何が争点になっていたのかも思い出せないくらいになり、またいつもの様にグルになって、僕の作詞に対し残虐な皮肉を述べてくれるものと思っていました。ところが、僕ら夫婦が旅行に行っている間に――SNSはしばらのぞいていませんでしたし、これはパートナーとの共有事項なのですが、休暇中いつもそうする様に、外部との接続を断っていました――事態はとうてい収拾不能な段階へ、皆さんを大層お騒がせした、あの、排他的主観理性を根拠として、愛憎の決壊した醜態言語を応酬する、粗暴な疑似肉弾戦へ発展していたのです。



 アティテュードはアイデンティティに養われ、次にアイデンティティがアティテュードに依存する。この癒着関係による情緒の安定的擬態はあたかも、一人格の形成の成就じょうじゅを――反予定調和主義とでもいう様なものの片鱗を残した、ある種の理想的な成年末期の景色を――外部どころか内部にまで演出して見せるという事は、先達せんだつの方々のよくご承知の所でしょう。僕らは急ぎ過ぎたのです。



 この二ヶ月間、沢山のメッセージを頂きました。そしてその内容の多くが、僕の今回の件に対する態度についてでした。いやに落ち着き過ぎだというのです。類似する指摘は、三年前に出演したテレビの心霊企画放送直後にも少なくない数よせられました。僕は既にこのSNS以外のアカウント抹消を済ませており、今後、皆さんの目になかなか触れることがない存在になりますから、最後に、今の僕が出来上がるに至った決定的な出来事についてお話したいと思います。



 それはいわゆる恐怖体験、神秘体験と呼ばれうるもので、十代の入口で邂逅かいこうした僕は、それから、若年期に馴れ合うべき小生意気な科学リテラシーやら、ジュブナイル的唯物史観などというものに、これっぽっちも同情できない、大人達がいう所の「ひねくれ者」、子供達の世間の「裏切り者」として過ごして来たのです。それだけに留まりません。当のオカルト的言論にさえ、まるで不感症になってしまったのです。



 怪奇、超常なんてものは所詮しょせん、数学の証明の美しさといったものと変わりありません。どちらも人間が欲情的に世のことわりを述べるに丁度都合のいい、さして有り難くも何ともない、性愛における出しゃばりなルッキズムでしかないのです。そこに公理や命題をいくら彫刻しようが、論理からはみ出す線で感覚に訴える意匠をいくつえがこうが、その探求とは、因果関係の乱反射に酔わせて間に合わせに余白を埋めて行くだけの、悲惨な宴会芸に違いありません。この世だとか、あの世だとか、宇宙だとかいう見方がそもそも、知的生命という鼻タレ坊主の無軌道な徘徊はいかいです。物分りの良い意味や、意思や、プロトコルの存在信仰など、二足歩行の忌み子である想像力を飼い殺すための手近なわらで、ここそこにあるのは皮や肉や骨を持たない、神経もない、透明な事象で出来た事象で出来た事象だけなのです。



 では、何故この期に及んで僕は死なないか。疑問に思われた方はいるでしょうか。あの出来事がまさしく、僕のずいから生と死の軋轢あつれきを、人間と神の境を、思弁と奇蹟の違いを、その他様々な対比構造を、取り払い、破壊し、消し去ってしまったのです。



 小学校六年の事でした。当時、僕らはまだかろうじて父、母、小学一年の弟の四人家族でしたが、父と母のパートナーシップは暗礁に乗り上げており、僕と弟に対しそれぞれまったく反対の港の明かりを指差しながら、新規巻き直し事業の見通しを説明しようとしていました。弟はまだ幼かったものですから、時折直面する両親の露骨な不和に際し、本能的な拒絶を発現させ、強引に母の肩を持ちました。僕は、父親の毅然きぜんに見せてそのじつ内気な青年の様な神経系も、家族という彫像の幻想性も、既に理解出来てしまっていましたから、必然、母のコンパスを信用しない態度を取ったのです。自らの采配に感服していました。しかし今思い返すと、無意識の内で離婚に早々とベットしておきながらも、体感ではその二文字をまるで性癖の露呈の如くに恐れていたのです。弟と僕との間にだけ、親愛を越えた崇高なる密約があると思い込む事で、感情と日々とを何とか並走させていました。



 夏休みが来ました。弟にはどうだったわかりませんが、少なくとももう僕には二人の破綻を、両親は隠そうとしませんでした。弟は母が引き取り、僕は父について行く。既にそれは既定路線として暗黙の内に三者が調印を済ませたのです。



 最後の思い出と思ったのでしょう、その夏は色々な場所へ連れ出されました。特に印象深いのは父、弟と三人で観に行ったスターウォーズの最終作と――物語の顛末てんまつが僕らの行く末を暗示するかの様でした――そして八月最後の遠出、四人で最後の旅行、岩手県の花巻はなまきです。僕からの提案でした。当時心酔していた宮沢賢治の世界、あの背伸びをしなくても銀河と踊れる事を伝えてくれる物語達の世界を、どうしても四人で巡っておきたかったのです。



 英悟えいごな皆さんなら、ナイーブな少年による杜撰ずさんな足掻きと看破されるでしょうか。正解です。淡い情熱によって様変わりする人生という水流の性質と、その変容ぶりを計画に落とし込もうとする青くとも確かな歴史で出来上がった自分という結晶の光とを、その時はまだ人一倍愛していたのです。いざ行くと記念館は良くつくられ、パンフレットで覗いた時の期待が、きらめく優しい粉となってイーハトーブの風の音色と舞っていました。ひとり興奮する僕を尻目に――いや、客観的に見れば興奮という演出を意図的に取り入れた僕だったのでしょうか――両親は事務的会話に終始し、弟は展示をまわる間中ずっと入口で捕まえた一匹の蝉の事ばかり気にしていました。



 終わったなと、思いました。

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