第6話 タイラー・ポーヴル⑤
「カーラたちは、半年前ですかね。ここへ引っ越して来ました。あ、引っ越したといっても、ここのほど近くからですので。……数日前の朝です。カーラがうちを訪ねてきました。ネリタ、と叫びながらドアを叩くのです。そんな非常識なことをする人ではなかったので、心配になってすぐに家へ入れました」
ネリタはゆっくりと話す。しっかり順を追って、間違いのないように。
「彼女は泣きながら『夫が帰ってこない』と叫びました。最近は帰りが遅い、心配だと、カーラから何回か聞いていたんです。でも昨日は仕事へ行ったきり、帰っていないのだと、そう言いました。……タイラーさんはカーラを本当に愛していて、素敵な旦那さんだというのは、近所でも有名なんです。だから、私もカーラも、タイラーさんが何らかの事柄に巻き込まれて、帰れない状況にあるのだと思いました」
フィーネは首をかしげた。タイラーは討伐に行くことを話していないのかと、疑問を抱いたのだ。
「そして、その翌朝です。今度はシルムちゃんがうちを訪ねてきました。『家にママがいない』と泣きながら。信じられなくて、カーラの家に行ってみたんです。そうしたら、……本当にいませんでした。一時は、タイラーさんを探しに行ったのかとも考えましたが……」
「今はそう考えていない、ということですか?」
「はい。その場合、きちんとシルムちゃんのことを預けに来るだろうし、荷物もそれなりに持っていくと思うんですよね。でも、そのどちらもなかった」
「それで、この状況に落ち着いた、と」
「はい。……もう、怖くて、怖くて。何か事件でも起こっているのでしょうか」
「きっと大丈夫ですよ」
(魔物が出ていたみたいだし、カーラさんは夜出掛けている最中に襲われてしまったのかしら? ……ううん、ネリタさんの言う通り、普通小さな子供を残して出歩かないわね)
「この辺りで魔物の討伐が行われたと聞いたのですが、本当ですか?」
「え? 討伐はここ最近なかったと思いますよ」
「え?」
フィーネは驚きで一瞬目を見開いた。
近くで討伐を行うのに通達をしないなど、絶対にあり得ない。知らせるのは、戦禍を被る可能性を少しでも減らすためだ。それを怠るなど言語道断。
(もしかして、討伐、行われてないの……? いや、でもタイラーさんはああ言ってたし……)
「すみません、違う地域の話だったようです。申し訳ありません」
ネリタに要らぬ心配をさせないよう、フィーネはこう言った。
「いえ」
「あと、タイラーさんの職場を教えてもらっても良いですか?」
「職場ですか? それなら」
「フィーネさん! 準備できたよ!」
遊ぶ準備を終えた天使が、二階から降りてきた。
「あら、本当? じゃあ遊びましょうか。では、二階へ上がらせてもらいますね。ネリタさん、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそありがとうございます。それと、あとでお教えしますね」
「お願いします」
* * *
「イデア様は、こう言いました。『僕のを分けてあげよう。そうすれば、君は生きていられる』」
「……フィーちゃん! やっぱり絵本じゃなくて、おままごとにしよう!」
昼食を挟みつつ、かれこれ四時間は天使と戯れている。
だが、何か知っていることはあるか、など話を聞くことはできていなかった。
「あら、良いわね。シルムがご飯作ってくれるの?」
「うん! いいよ!」
シルムに変更を言い渡され、フィーネは内心ほっとした。絵本は神にまつわるものが多いのを失念していたからだ。
そしてもう一つ、失念していたことがある。
「あ、夕飯」
ご飯、という単語で思い出したのだ。
「え、フィーちゃん帰っちゃうの……?」
呟きが聞こえてしまったようだ。
天使の顔が、途端に陰っていく。
「そうね、そろそろ帰らないと」
「フィーちゃん泊まっていってよ」
「うーん。お昼ご飯もご馳走になっちゃったし、ご迷惑になっちゃうわ」
「そっか……」
寂しさからか、シルムはフィーネに抱きついた。
フィーネもそれに答え、小さな体をぎゅっと包む。
「……あら? シルム、眠くなってきちゃった?」
別れを惜しんでいても、まだ六歳の体である。昼寝は必要なようだ。フィーネとの抱擁で、眠気が倍増したのかもしれない。
フィーネはそのままシルムを持ち上げると、小さなベッドに寝かせた。
「ねえねえ、フィーちゃん。寝るまで、一緒にいてくれる?」
「ええ、もちろんよ」
シルムはうとうとしながら話し始めた。
「あのね、シルムのパパとママが、いなくなっちゃったの」
「ええ、さっきネリタさんから聞いたわ」
「どこに行っちゃったんだろう。帰ってくるよね?」
「ええ、ママはすぐに帰ってくるはずよ」
シルムに布団を掛け、手のひらでトントン優しく叩く。
「ママがいなくなっちゃう前、夜に誰か来たんだ。きっと、パパが来て、ママと遊びに行ったんだよね。それで、帰ってきたら、シルムともいっぱい遊んでくれるよね」
「ええ、たくさん遊んでくれるわ。だから、泣かないで。安心して、寝ていいのよ」
「うん、おやすみ」
「おやすみなさい」
シルムは一粒の涙をこぼしながら、眠りについた。
(夜に誰か来たのね。でもそれはタイラーさんではない。……まずいわ。噂通り、カーラさんの駆け落ちの可能性が出てきた)
フィーネは、これまでの情報とシルムから聞いた話で、推測をたてていく。
(でも、カーラさんはタイラーさんが帰ってこないことを嘆いていたのよね? ……演技? ますます難しくなってきた)
考えても分からない。まだ情報が足りないようだ。
フィーネは推測を諦め、シルムに目を向ける。
「シルム、また会いましょうね」
天使の額に口付けをし、部屋を後にした。
「シルムちゃん、寝ちゃいました?」
階段を下りると、フィーネに気付いたネリタは読んでいた本を閉じ、聞いた。
「はい。すやすや寝てますよ」
「そうですか」
ネリタは微笑んだ。シルムの寝姿を想像しているのだろう。
「……うちには、子供がいないんです。夫も私も子供が大好きで。でもずっと来てくれない」
ネリタは寂しげに言う。
「でも、今こうしてシルムちゃんが来てくれた。一時でも良いんです。少しの間で良いから、私と夫でこの子を可愛がってあげようと、そう決めたんです」
「……そうだったんですね」
フィーネも微笑んで対応する。
「あ、そうだ。タイラーさんの職場ですよね。お教えします」
「ありがとうございます」
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