第2話
あらためて自分の両手を見る。素手じゃなかった。白いニトリルゴム手袋。袖も白い。
俺は立ち上がって、自分の足元を確かめてみる。白いゴム長靴。白いズボン。いや、繋ぎの防塵着だ。
鏡が無いので、頭をペタペタ触る。耳から首まで頭部全体を隠す防塵帽に、口元には白い不織布マスク。
足元の藁を掻き分けると、目を守る保護メガネが出てきた。・・・なるほど。
俺の格好は、ウチの会社の
突然、厩舎で目覚めたことでパニクっていたが、ようやく落ち着いてきた。直前の状況も思い出せそうだ。
アラフォーとなり、ハローワークから中途採用で入った会社。化学薬品工場という縁もゆかりも無かった業種。
東京の隣の県の郊外にある老舗の薬品工場。東京になくても「東京工場」と呼ぶのは、空港やネズミの遊園地と同類か。
10年近く真面目に働き、生まれて初めて「主任」という役職を与えられて、俺は張り切っていた。後輩も出来たし。
直前の俺は休日出勤だった。サンプル出荷のため、小型のエアードポンプで塩酸をドラムからポリ瓶に小分けする非定常作業。
休日出勤は安全のために二人以上で作業しなければならない。でも後輩は休日出勤したくないようだった。家も遠く、通勤だけで2時間以上かかるという。俺は近所でチャリ通勤だ。それほど難しくない作業だし、一人でも半日で終わる。俺は上司に内緒で後輩を休ませた。休日出勤したって大した金にはならないし、当日の病欠ということにしておけばお咎めはないだろう。
業務部も技術部も、俺以外誰もいない静まり返った工場での一人作業。
不織布マスクを着けて、保護メガネをかける。正式には防毒マスクを装着しなければならない。塩化水素ガスは有毒だからだ。でも俺は簡単に不織布マスクで済ませた。年季の入った防毒マスクは口の周りに跡が残るし、何といってもゴム臭いのだ。吐き気を催すこともある。
誰に見られているわけでもないし、
「充填準備よし!」と指差呼称をして、エアードポンプのバルブを開ける。エアードポンプは電動ではなく、圧縮空気によって作動するものだ。ロードセルを組み込んだ自動充填機であれば電源SWもあるのだが、今日はサンプル出荷用の簡易設備。エアーのON、OFFも手動でやらなければいけないが、本数も少ないから大した手間でもない。
パージを取って、分析用のサンプルを100ml採取する。適当にポン置きするとどこに置いたか忘れることがあるので、サンプルをユニパックに入れて胸のポケットにしまう。最近、物忘れがよくあるのだ。オッサンになった証拠だな。
ここから本格的な充填となる。1本詰めるのに約5分。ドラム1本から20L容器に10本小分けするので、まあ大体1時間ほどで終了だ。二人でやる作業じゃない。
重量計の表示を見ながら「20.02」になるようにポンプの手動バルブを閉じる。ピタリ。フフフ、熟練の技だね。
容器を入れ替えて、2本目を充填しながら1本目を台に移動する。キャップをトルクレンチで絞めて瓶を拭いたら、パスボックスに並べる。大した距離じゃないのだが、20kgを持って移動するのは楽じゃない。オッサンになって体力落ちたかな?
異変が起きたのは、3本目の充填中だった。
2本目をパスボックスへと移動中に部屋が真っ暗になったのだ。て、停電!?真っ暗な部屋にエアードポンプの「ポン、ポン」という間抜けな音が響く。
ヤバい!!停電で
俺は暗闇の中、ポンプの音を頼りにバルブを探すのだが。「ゲホッ!!ゲホッ!!おえぇぇっ!!」強烈な咳き込みと嗚咽感。塩化水素ガスを吸い込んでしまったようだ。 失敗した・・・ちゃんと防毒マスクをしていれば良かったのに、不織布マスクでは全く意味がない。
息苦しい。フラフラするが、倒れるわけにはいかない。塩化水素ガスは比重が重いので、下の方に溜まるからだ。倒れたら、間違いなく「死」あるのみ。
激しく咳き込みながら、俺は暗闇の中で何者かの視線を感じた。死神が俺の死を狙っているのか?くそっ!!連れていかれて、たまるか!!昭和のど根性、なめんなよ!!
俺は意識を飛ばしながらも、ドラム搬入口を目指す。ドアノブに手をかけた時、力尽きたようで完全に意識を失った。
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