君に会いたい日々だった
朱々(shushu)
君に会いたい日々だった
祖父が認知症になった。
はじめは家で介護をしていたがやがて家族がパンクするようになり、施設に入ることになった。
施設に入るその日、祖父と父と私の三人で昼食を食べた。祖父は私の名前を祖母や母と時々間違え、それでも、笑っていた。
バスに乗り込む瞬間、衝動的に祖父と握手をした。
これでお別れになるわけじゃない。また会える。施設に行けば、いつでも会える。
そうしてバスは祖父を乗せ、家を後にした。祖母は数年前に亡くなり、一人暮らしをしていた祖父。
広すぎる家は、家主を失った。
家を探検していいと言われたので各部屋を見ていると、おばあちゃんの名残すらまだ微かにあった。おばあちゃんが大切にしていた季節ごとの手拭いは、月が変わるごとに変えていた。旬を大事にしていたおばあちゃんに、おじいちゃんは優しく笑っていた。
おじいちゃんに異変があったのは、ある日突然だった。
私たち親子の名前を間違え、時にはおばあちゃんの名前を呼んだ。電話をしてきたかと思えば意味不明なことを繰り返し、これはまずいと誰もが思った。私たちは少し遠くに住んでいたのだが、近くに住んでいた親戚宅には夜中に押し寄せ、あげく「こんな時間にどうしたんだい?」と言ったらしい。それらは、典型的な認知症だった。
通うだけだった施設から完全に住むことになり、私たち親戚は誰もが誰もを責めることが出来なかった。昔なら、一番近い親戚が面倒を見ろとか、嫁が面倒を見ろとか、いろいろあったかもしれない。それでも私たちはおじいちゃんを施設に預けた。決して死ぬわけじゃない。いつだって会える。なのにどうしても、胸の奥が痛んだ。
おじいちゃんの文机は立派でかっこよく、密かに憧れがあった。けれど、一番上の引き出しに鍵が付いていることは、小さいときから知っている。おじいちゃんはいつも決まって「秘密なんだよ」と笑った。
ところがその日、なんと鍵が開いていたのである。
「え、嘘…」
恐る恐る開けた引き出しは軋む音と共に、私の前に現れた。
中には、手紙と万年筆が入っていた。
手紙の宛先は、「この手紙を見つけてくれた者へ」。後ろにはおじいちゃんのフルネームと、手紙を書いたであろう日付が記されていた。
日付はおじいちゃんが認知症になる少し前あたりで、文字もしっかりしていた。
どうしよう。これ、誰かに言ったほうがいいのだろうか。何か大切な、おじいちゃんにとってとてつもなく重要なことが書かれている気がする。
それでも手紙の宛先は、「この手紙を見つけてくれた者へ」である。私はひとり意を決して、手紙を開いた。
この手紙を見つけてくれた者へ
突然驚かせてしまってすまない。どうしても頼みがあり、この手紙を
共に入っている封筒を、
北条は今もおそらく東京銀座の和菓子屋「ほうじょう」で、働いているはずだ。
何か聞かれたら、私の名前を言えばいい。
無茶な願いをしてしまって申し訳ない。
どうか手紙を、届けてほしい。
鈴江春吉
おじいちゃんは昔から字が綺麗で、いつも万年筆でお手本のような字を見せてくれた。そんなおじいちゃんからの、切実な頼みである。
当然、北条さん宛ての手紙にはがっちりと封がしてある。一体、何が書かれているんだろうか。
大学の単位は既に大方取り終わっている。あとは何日か行けば問題はない。
私は、誰にも言わずに北条鷹壱さんを探すことを決めた。
東京銀座に着き、ネットで調べた和菓子屋「ほうじょう」を探す。なかなか大きなお店のようで、地図アプリですぐに出てきた。
辿り着いてみると建物は荘厳で、とても私のような小娘が入れる雰囲気じゃないと思ってしまった。いや、そんなことを思っている場合ではない。おじいちゃんのミッションを達成しなければならない。
ガラス張りで出来ている横開きの扉を開けると、スタッフは皆着物を着ていた。やさしい声で「いらっしゃいませ」と迎えられ、ますます居心地が悪くなる。
「ようこそいらっしゃいました。おひとりですか? お二階にされますか? お持ち帰りにされますか?」
私は北条さんに会うのがミッションだったのだが、つい雰囲気に飲まれてしまう。
「あ、ひとりです。じゃあ、二階で…」
「かしこまりました。ご案内いたします」
案内された二階は昔ながらの喫茶店で、椅子も机も重い雰囲気がある。各テーブルにあるステンドグラスのランプは趣味だろうか。可愛い形でつい見惚れてしまった。
「こちらへどうぞ。ただいまメニューをお持ちしますね」
銀座を見下ろせる窓際に案内され、いかに自分が場違いかを思い知らされる。流れてくるBGMも、お客さんの雰囲気も、とてもじゃないが非日常すぎる。銀座には、いつもこんな人々がお茶をしているのだろうか。
思いに耽っていると、先ほどのスタッフがメニューを持ってきてくれた。
「こちら、メニューでございます。今月のデザートは抹茶パフェ。おすすめはどら焼きでございます。お決まりになりましたら、お呼びくださいませ」
丁寧に頭を下げたそのスタッフさんの身のこなしに、またも場違いを感じる。今からこんな形で、北条さんに会えるのだろうか。
メニューを見ていると、筆で書かれた達筆な文字と、日本画のような挿絵が描かれていた。メニュー表ですら、歴史を感じる。おすすめはどら焼きと言っていたな…と思い出し、私はどら焼きとお抹茶を頼んだ。
届いたどら焼きはこしあんで、お抹茶は出来立てというのがすぐにわかった。
小さな物音でも響いてしまいそうな店内で、お抹茶をすする。苦味のなかに甘みも感じ、高校の文化祭で茶道部のを飲んだときとは、当然ながら大幅に違った。どら焼きもとても優しい味がして、こしあん好きのおじいちゃんを思い出す。今度会いに行くとき、ここのを持っていこう。
窓を見下ろすと、銀座の観光客でのんびり楽しむ人やのんびり歩く人など、様々な人が上から見えた。外国人も多い。まるで店内の空気とは違う。
これから北条さんと会うに、どうすればいいんだろう。そもそもこのお店で本当に合っているのだろうか。お店にいる人なのだろうか。はたまた、生きているのだろうか。おじいちゃんの友人なら歳も近いはずだ。何で知り合った人なのだろう。認知症になる前の手紙に託すほど、大切な人ということか…
おいしい影響かどら焼きはあっという間に食べてしまい、お抹茶は考え事を巡らせながら味わって飲んだ。
とりあえず一階で、お店の人に聞いてみよう。
意を決した環は伝票を持ち、一階のお会計へ向かう。
「ありがとうございました。おいしくお召し上がりになれましたか?」
「はい。初めて来たんですけど、とても美味しかったです。あの、それで…」
「はい」
レジを担当してくれた方はスタッフの中では比較的に若く、この人に聞いていいかわからない。
でも聞くしか道はないと思った環は行動に移す。
「あの、北条鷹壱さんは、いらっしゃいますでしょうか? 私、鈴江春吉の使いで来まして、北条さんに会いたいと思っています」
「………」
するとレジ担当の方は目をぱちくりさせながら、私の顔をじっと見てきた。
もしかして聞く人を間違えたのだろうか…。そう心配していると。
「北条社長でしたら、めったにお店にはいらっしゃいません。失礼ですが、お約束はされてますか?」
社長? まさかの言葉に脳内がしっちゃかめっちゃかになる。
おじいちゃん、一体どんな知り合いなのよ。
「や、約束はしていません。ただ、鈴江春吉に、自分の使いだと言えばすぐに会えると言われました。どうしてもご本人にお会いしたいんです」
「何かお渡しするものがあるのでしたら、お預かりいたしますが?」
「できません。私が直接、鈴江春吉からの伝言を、北条さんにお話したく思います」
話は平行線になってしまった。
幸いレジに並んでいる人がいなかったため、私とスタッフの押し問答である。
「…あらあら、可愛いお嬢さんがおひとりで。鈴江くんからの伝言を坊ちゃんにですか?」
すると奥から、腰が少し曲がったご高齢のスタッフが出てきた。他の方と同じ制服を着ているのである。
「オリンさん!」
「初めまして、オリンと申します。坊ちゃんの幼いときからオリンは付き添ってまして、鈴江くん、…鈴江春吉君ともお会いしたことがあるんですよ」
オリンは声をかけたスタッフの方を無視して環に話しかける。
「おじいちゃんと会ったことがあるんですか?!」
「おじいちゃん? ということは、鈴江くんも祖父になったということね。あなたはお孫さん?」
「はい。鈴江環と申します。どうして北条鷹壱さんにお会いしたくてきました」
こうなったらどんな場所でも行こうと思った環は、もう全てを打ち明けようと決めた。
「どうしても北条さんにお会いしたいんです。お願いします!」
気付けば環は腰を曲げ頭を下げていた。
おじいちゃんの願いを叶えたい。叶えてあげたい。手紙の内容は、知らなくとも。
「………。少し、待っててもらってもいいかしら?」
「はい」
そうするとオリンさんは、受付にある電話を使ってとある場所に電話をした。
「…坊ちゃん、オリンでございます。今銀座「ほうじょう」に、坊ちゃんに会いたくて、鈴江環さんという方がいらっしゃっております。なんでも、鈴江春吉さんの使いできてくださったようですよ。そうです、あの鈴江くんです。環さん、坊ちゃんにどうしてもお会いしたいと。近々でお時間はございますか?」
どうやらオリンさんは、北条さんに直接連絡をしてくれたようだ。
なんてラッキーだろうと環は思う。
「…はい。はい。…そうですね」
「………」
環は何も言わず、電話をしているオリンをじっと見続けている。
お願いします、どうか…!
「はい。では、そのようにお伝えしてみます。…環さん?」
「はい!」
「明日、十五時にまたこちらへ来ることは可能ですか? それでしたら北条鷹壱坊ちゃんとお会いすることが可能ですよ」
「は、はい! 明日も来ます!」
環は興奮気味に答え、明日大学の授業があることなどすっかり忘れていた。
「もしもし坊ちゃん。環さん、明日大丈夫だそうです。そうですね、かしこまりました。ではまた明日に」
電話が切れた途端、実際に電話をしていないにも関わらず、環の緊張が解けた。
この話から察するに、会えるということだろうか。
「環さん、明日十五時にまた、こちらへいらしてください。私もおります。坊ちゃんとお待ちしてますね」
オリンの笑顔は優しく、環の心を安心させた。
「ありがとうございます!」
環は「ほうじょう」を出てしばらくしてから、「やったー!」と両手でガッツポーズをした。銀座のど真ん中など忘れて。それほどに、嬉しかったのである。
おじいちゃん、おじいちゃん。これでおじいちゃんとの約束が、守れそうだよ。
翌日十四時四十五分。環は落ち着かず、少し早めに銀座に着いた。角を曲がれば「ほうじょう」であるが、あまりに早いのもどうかと思い待つことにした。
北条鷹壱さん、一体どんな人なのだろうか。
おじいちゃんがわざわざ手紙を託すくらいならば、相当親しかったように思う。だが私がいるときに会ったことはない。名前も聞いたことがない。昔の友だちとか、そんなあたりだろうか?
でもそれならなぜ、北条さんだけに手紙を…。
考えを巡らせているうちに十五時近くになり、環は再び「ほうじょう」を訪れた。
「いらっしゃいませ。環さん、お待ちしておりましたよ」
環が店に入ると、オリンが入り口で迎えてくださった。だが見渡しても、北条さんらしき人物がいない。
「環さんごめんなさいね。坊ちゃん、どうしても間に合いそうにないとお電話が来て、十五分ほど遅れ、」
オリンの話の途中、チョコレート色のスーツに身を包み、手足が長く、とても環のおじいちゃんと同じ年には思えないほど背筋がよい男性がお店に入ってきた。程よい白髪に、髭はない。老眼用なのか、首からメガネをぶら下げていた。
男性は慌てて息を整え、ふーふーと何度も言う。きっとこの人が。
「坊ちゃん、慌てて来られても迷惑になりますし、威厳がなくなります。時間を守ることは結構ですが、どれかおひとつになさってくださいね」
オリンさんはにっこりと笑う。
そうだそうだそうだ! やっぱりこの人が、北条鷹壱さんだ。
「…慌てた様子を見せてしまいすまない」
声は低く、おじいちゃんよりもはっきり話すその声にくらっとした。
「私が北条鷹壱だ。君が、鈴江環さんで間違いないかい?」
「…はい。私が鈴江環です。鈴江春吉の使いで参りました」
目の前に出された北条さんの右手は大きく、私はしっかりと握手をした。おじいちゃんとは、もうこんなにはっきりと、握手が出来ないから。
「おふたりがお会いできて、オリンは嬉しく思います。さて坊ちゃん、上の個室でよろしいですか?」
「あぁ、空いているのならそちらを使いたい」
「このためにもちろん空けております。ご案内いたしますね」
そう言うとオリンさんは二階へ上がっていき、私も慌てて着いていく。昨日座った窓際とは反対側の、ガッチリと扉で固められた個室がひとつあった。
「音も声も聞こえにくいです。坊ちゃんが気分転換に使うお部屋なんですよ」
オリンさんは持っていた布巾でテーブルを綺麗にし、私たちを案内してくれた。私は当然のように下座に座り、北条さんは上座に座った。
「ご注文、いかがいたしましょう?」
「私はどら焼きとお抹茶で。環さんはどうされますか?」
「え! えーっと、」
どうしよう。そのセットは昨日食べてしまったのだ。なんなら違うものを。
「抹茶パフェを、いただいてもいいですか?」
「もちろんですよ。どら焼き、お抹茶、抹茶パフェ。少々お待ちくださいませ」
そうしてオリンさんは部屋を出て、重厚そうな扉を閉めた。当たり前だが、部屋にふたりきりになってしまったのだ。
「…え、えーっと、」
「鈴江、環さんと言いましたね?」
「はい。鈴江環です。鈴江春吉の孫です。」
北条さんの声は響くように低く、なぜかこちらの姿勢を正しくさせる。これが社長という人種の特技なのだろうか。
「そうか。君が、鈴江春吉の…」
北条さんは私の顔を見たあと、昔を懐かしむように少し下を見ては、記憶を辿っているようにみえた。
それにしてもおじいちゃんと北条さんの関係はなんなんだろうか。
「鈴江春吉の名前まで出してまで君は私に会いに来たんだ。何か意図があるんだろう?」
「あ、はい。これを、」
そう言って、私はおじいちゃんの手紙を出した。
手紙を見つけた者への一枚と、がっしり封のしてある北条さん宛ての手紙だ。
「…これは」
「おじいちゃんの机の引き出しに入っていました。何の因果か私が見つけて…。そこで、おじいちゃんの願いを叶えたいと思ったんです。突然訪問したりして、申し訳ありません」
「………」
北条さんは私の言葉に何も答えず、ただただ手紙をじっと見ていた。封を開けることもなく、宛名をずっと見ている。手持ち無沙汰の私はどうしていいかわからず、北条さんを観察するしかなかった。
「………春の字だ。間違いなく、春の字だよ」
「よかったです、お渡しできて。私、おじいちゃんから北条さんのお話って聞いたことがなかったので、正直、どこの誰やらという感じで…。でも今こうして、おじいちゃんの願いを叶えることが出来て達成感でいっぱいです」
私は、心の底からホッとした。おじいちゃんの願いを叶えられた自分にも誇らしく思えたのだ。
北条さんもおじいちゃんとの思い出を噛み締めているのだろう。きっと手紙は、自宅かどこかでひとり読んでくれるはずだ。
すると、コンコンと扉のノック音がし、オリンさんが注文した品を持ってきてくれた。
「時間を気にせず、ごゆっくりお話してくださいね」と言い残し、またも扉が閉まる。
北条さんはお抹茶を一口啜り、私をじっと見つめた。
「…環さん、この時代にセクハラになったら申し訳ありません。失礼ですが、恋人はいらっしゃいますか?」
「えぇ? 彼氏ですか? いないですけど…」
「そうですか。………私と春はね、恋人同士だったんですよ。時代も世間も周囲も、許してはくれませんでしたがね」
「こっ…」
恋人同士だった?
おじいちゃんと北条さんが?
男性同士で?
環は、開いた目と開いた口が塞がらないまま、北条の話を聞き続けた。
「戦時中私の疎開先は田舎の曽祖父の家でね、そこに東京から春の学校たちがやってきました。小学校間もない頃です。特段春と仲良くなった私は、何をするのも一緒だったんですよ」
食事をするときも隣に座り、風呂に入るときも共に入り、就寝すら隣の布団だった。
「やがて戦争も終わり春たちは帰り、数年して私も東京に戻ることになりました。家はかろうじてあったのですが、食べ物がない。緊張しながら祖父と共に、いわゆる、闇市と呼ぶのでしょうか。そこへ向かいました。するとなんと、そこで春が商売をしてたのです」
北条さんはそのまま、なんてことのないテンションで話を進める。
「おじいちゃんが闇市で? え、ていうか闇市って、警察につかまったりするんじゃ…」
「ははっ。当時はそれどころではありませんでした。皆食いっぱぐれないのに必死です。…一日足りとも忘れたことのない春の姿。見間違うはずがありません。運命だと思いました」
ーーー春?! 君、鈴江春吉だろ?! 僕は鷹壱、覚えているかい?!
ーーー…鷹壱ィ? …あぁ! 疎開先のじゃねぇか! 生きてたんだな! よかったよ!
「どうやら春は、その明るい人となりから毎日どこかの店を手伝ってはお金や食事をもらい、家に持って帰ってたようです。まさか闇市で疎開先の人間と出会えるとは思わず、気づけば抱きしめあっていました。私と祖父は市場で普通の小豆売りをしようと考えていたので、春にもその話をしたのです。するとすぐに手伝うと笑ってくれました」
ーーー俺も手伝うよ! 小豆だろ? どら焼きとかまんじゅうか?
「暗いはずの世の中で、私にとって春は光でした。眩しく笑う春に、私は自分の気持ちを思い出したのです。疎開先ではまだ私たちは、恋人同士ではなかったので」
北条さんは慈しむような顔で当時を思い出し語ってくれた。それは、私の知らないおじいちゃんの話でもある。
「家族のため春は時々闇市で商売をし、私たちは北条家の人間として表の市場の準備をしました。小豆を煮るための場所、販売する場所、従業員。従業員は家族で賄えましたし、春も手伝ってくれました。春は商売に向いている。いわば、ビジネスパートナーですね」
北条さんはその後も思い出話を淡々と話してくれた。
環は興味深く、思わず無言になってしまう。
「あれは…十八の頃でした。私は自分の気持ちがどうしても抑えきれず、春の家まで帰る帰り道で、気持ちを伝えました。それが友愛じゃないことも。親愛とも違う、恋愛だという意味だと」
「……っ…」
「もちろんはじめ、春はとても驚いた顔をしていました。冗談だろ?とも言っていた気がします。私は自分でもわかるくらい顔中に熱が集まっていて、それで本気とわかってくれたのか、春は私の気持ちを信じてくれました。春は、何も言いませんでした」
「…え?」
てっきりすぐ交際になったと思った環は、思わず声を出して驚く。
「今まで男性から好意を向けられたことがないのでわからない、と正直に言われました。春らしいです。いつもどんなときも正直で、真っ直ぐな人でした。でも私は引かずに、じゃあ考えて欲しいと粘ったのです。今思えば、若いからこそできる行動ですね」
北条さんは少し笑みを浮かべ、当時にタイムスリップしているようだった。きっとその日の北条さんの心境は、現代の異性同士の告白よりも相当勇気がいったに違いない。
「それから一週間後です。今度は春から想いを伝えてくれました。特別何かをした覚えはなかったのですが、………「失いたくない」と言われたときは、天にも昇る気持ちでしたね」
「…それほどおじいちゃんにとって北条さんは、たいせつな人だったんですね」
若いふたりが手を取り合って生きていこうとする姿を思い浮かべては、環の心が切なくなった。ふたりは、たしかに恋人同士だった。
「といっても、同性愛者に理解がない世間で、周囲には秘密の恋です。そのぶんアイコンタクトをとったりと、楽しいこともあったんですよ」
「今よりきっと、同性愛者に厳しかったですよね…?」
その質問に北条さんは顎に手をあてては悩んでいた。
「うーん、そうですねぇ。ただ知らないだけで、もしかしかたら同性愛者はいたのかもしれない。けれど、私たちの周りにはいなかった。それだけですよ」
「私も友達に彼女がいる女の子いますけど、そこまで隠してるようには見えないんですよね」
「それはきっと環さんが否定せず、理解しているからでしょう。当時の私たちの周りには、仕事の影響もあってか家の者が多く、同年代の付き合いが少なかったですからね」
ーーーなぁ鷹壱、ここの蔵、今なら誰も来ない気がしないか?
ーーーえ? まぁ、そうかもしれないけど、…っ
ーーー隙ありっ。俺の鷹壱補充だなぁ
「でも私は、春を傷つけてしまったんです…。二十二歳あたりの頃、小豆屋として「ほうじょう」も軌道に乗り、私に縁談の話が来たのです」
「縁談ってことは、お見合いですか?」
「…そうですね。私は長男ですし、せっかくの「ほうじょう」を継がせたいと思っていた祖父や父は、私をゆくゆくは三代目にさせたがっていました。縁談相手は隣町の年下の少女で、見目も麗しく、家事も完璧とのこと。そりゃあ周りは喜びました。まだ、本人たちは会っていないというのに。その彼女がのちの妻になり、三年前に病気で亡くなりました。最期まで、本当に尽くしてくれました」
ーーーねぇあなた、私、ずーっとあなたのことが好きでしたよ。
ーーーそれは私もだよ。今まで苦労もかけてすまなかった。
ーーー…いいえ違います。あなたには確かに、忘れられない人がいたでしょう?
「その頃の私は、なんというか、調子に乗っていました。欲しいものは全て手に入ると思っていたのです。家も仕事も妻も家庭も、…春も」
「おじいちゃんは、そのとき、」
「見合い話が出て数日後の夜、春は珍しく遅くまで「ほうじょう」に残っていて、私の部屋にやってきました。不思議な気持ちと嬉しい気持ちが混じりながら、春は突然私を抱きしめ、口づけをしたのです。「ありがとう」と言い、春は部屋を去りました」
ーーー鷹壱くん! 鷹壱くん! 従業員部屋のテーブルにこれが…っ
ーーー………え?
「その頃「ほうじょう」は多くの従業員も雇っていましたし、住み込みの者もいました。春が部屋を去った翌朝、テーブルの上には退職届があったのです。中の文面は、新しいことに挑戦したい、とありましたが、どう考えても私のせいだと思いました。見合い話が出たときにすぐにでも春と話し合えばよかったのに、私は何も考えずに、春がいる生活が当たり前のように続くと思っていたんです」
「…それが、おじいちゃんとの最後ですか?」
北条さんは私の質問に苦笑した。
「そうです。春がどこへ行ったのか、何をしているのか、全くわからない状況になりました。闇市の跡地にもひとりで行きましたが、春はいませんでした。探すあてもないまま、縁談話だけがどんどん進んでいきました」
「最後まで、探さなかったんですか?」
「…春は、わかっていたんでしょう、私が縁談を受けることを。「ほうじょう」を大きくすることを。自分が、捨てられることを」
環は話を聞きながら、泣きそうになっていた。自分のことではないのに、振られてしまった祖父の悲しみを思うと胸が痛くなる。
「私は最初から最後まで身勝手でした。自覚しています。春との記憶…恋人同士として過ごした日々で、その後の人生を満たそうとしていたのです」
それは残酷で、痛々しい毎日だったと振り返る。美しい妻が隣にいながら、別の、しかも男のことを考える日々だったのだ。
「…昨日環さんの話を聞いて、それはそれは驚きました。というのも、つい最近昔の資料を整理していて、春が写っている写真が出てきたのです。そこで環さんの来訪だったので、なにか天の思し召しかと思いましたよ」
環は抹茶パフェを口にしながら、何も言えなかった。
北条さんとおじいちゃんの関係は、永遠に秘密だろう。友人じゃない。けれど、それだけ手紙に託したいほど気持ちがあったなんて、愛しか感じられなかった。
「ところで、春の命日はいつなんですか? 僭越ながら手帳に書いておきたく」
「…命日?」
「亡くなって、遺品整理としてこの手紙が見つかったのでは?」
「………あ!」
環は思わぬ非常事態に気づいた。北条には手紙を渡しただけで、祖父の現状を何も話していなかったのだ。
「いや、おじいちゃんは、生きてます」
「………は?」
そりゃあそんな顔にもなりますよね、と環は思いながら、話を今一度最初に戻した。
「実はおじいちゃん認知症になってしまって、こないだから施設にいるんです。なので、生きています。でもまぁ、名前間違えたり、記憶違いもあるんですけど…、誤解させてしまってすみません!」
環は机ギリギリまで頭を下げ謝った。目の前の抹茶パフェがどんどん溶けてゆく。
「…墓まで持っていくと決めていた話を私は、あなたに全て話したということですね」
北条さんは手をおでこに当てながら、まるで頭痛のようなポーズを取った。いや、実際に頭痛だったのかもしれない。たしかに今社長業の者が過去に同性の恋人がいただなんて、一大ニュースである。
「ぜ、絶対に誰にも言わないので、ご安心ください!」
「………孫娘のあなたに、心を許して全てを話した私にも責任があります。ただ、今私から聞いた話は、是非とも墓まで持っていってもらうと幸いです…」
「もちろんです! おじいちゃんにとって大切な人ということに、変わりはないので!」
環は顔を上げ、勢いよく発言した。
自分は、祖父の願いを叶えている。親孝行ならぬ祖父孝行をしている。その自負を持ちながら、環は北条と向き合った。
「…環さん、ここまで話しておいてさらにご相談なんですが」
「はい。なんでもお聞きください」
環は今度こそ抹茶パフェに手をつけながら話を聞く。
「春に、…今の私が、今の春吉に会うことは可能ですか?」
銀座「ほうじょう」に行ってから次の土曜日。環は祖父のいる施設に父親と一緒にいた。訪れたのはその日が初めてで、個室のベッドに横たわる祖父に違和感しかなかった。
「おじいちゃん、環だよ。遊びに来ちゃった」
「おぉー、環ちゃん。こんなみっともないところ見せてすまないねぇ」
「そんなことないよ。思ったより元気そうでよかった」
祖父は明らかに痩せていて、昔の元気な頃を知っていると胸が苦しくなった。ひとまず今日は名前と顔が一致してくれてよかったと安心する。
「毎日どう? 友達とか出来たの?」
「そうだねぇ。隣の、あの、なんて言ったかな。…隣の人と話したり、テレビを見たり、施設の人も優しくてね、よかったよかった」
たどたどしい話し方は変わっていなかった。でも、いい。生きていてくれることが何よりの望みにとっては、これが一番いいのだ。
父親が祖父と親子で会話をしているあいだ、環は北條を思い出していた。
もしも北条さんがここに来たら、一体どうなるんだろうか。おじいちゃんは覚えているんだろうか。取り乱すだろうか。全く想像が出来ない。
あの日の質問に「わかりません」と答えてしまったのも、自分が祖父の状況がわからなかったからである。
勝手に、連れてきていいものなのだろうか。
施設名も覚えた。道のりもなんとなくわかる。セキュリティ問題もわかる。けれど、北条さんを連れてきてときのおじいちゃんの姿が、全くもってわからない。
そもそも私が北条さんに会っていることは、家族の誰も知らない。おじいちゃんの古い友達、とでも言えばいいだろう。なんなら、手紙のことも話せばいい。でも、けど。
環は祖父と父親を見ながら、答えがわからなかった。
別れを選んだふたりが、今、何十年も時を経て会っていいのだろうか。
「じゃあ親父。次来るときは新しい洋服とか持ってくるからさ、風邪とか気をつけてくれよ」
「あぁ、悪いね、ありがとうありがとう。環ちゃんも、」
「ん?」
「環ちゃんも、風邪ひかないで、元気でいるんだよ」
「………」
おじいちゃんは昔から優しくて、いつも気を遣ってくれる。怒られた経験など一度もない。だから北条さんから過去を聞いたとき、驚いたのが正直だった。
行動力があって、逞しくて、自己犠牲で身を引ける。繊細な人なのだ。
そんなおじいちゃんを、環はこれまで知らなかった。
「…うん! おじいちゃん、また来るね!」
その日の夜、私は北条さんにメールをした。
【おじいちゃんのお見舞いに行ってきました。施設名も場所もセキュリティも問題なさそうです。ただ、やはり認知症なので、誰だかわからない可能性もあります。名前だってわからないかもしれません。いきなり取り乱すかもしれません。暴れるかもしれません。それでも、会いたいと思ってくれますか?】
翌日の夜、北条さんから返信が来た。
【それでも構いません。春に、会わせてください。】
その日は風が気持ちよく天気も良く、絶好のお見舞い日和だった。
私と北条さんは施設の最寄駅で待ち合わせをし、そこから運転手さんの車に乗り込んだ。北条さんはスーツではなく私服で、これまでの印象とだいぶ違った。髪型も、いつもはキチっと決めているが、全体的にラフな装いだった。
「おはようございます。東京から遠いのにすいません」
「おはよう環さん。こちらのワガママさ。今日は本当にありがとう」
施設はほぼ千葉県にあり、都市圏からだとだいぶ距離がある。その説明をしても、北条さんはおじいちゃんに会いたいと言ってくれた。
何を話していいかわからず無言のなか、私はぼーっと外の景色を眺めていた。今日のおじいちゃんの様子はどうだろうか。私のことはわかるだろうか。
北条さんのことを、覚えているだろうか。
環は自分でもわからなかった。祖父が北条鷹壱のことを覚えていてほしいのか、すっぽりと忘れてしまっていてほしいのか。そしてそれが、孫娘のエゴなのではないか。
あんな手紙まで残して渡して欲しいと願ったものを、私がぶち壊すことにはならないだろうか。
環はひたすら自問自答し、だんだんとビルがなくなってゆく景色を見ている。
本当にこれから先はどうなるのか、誰にもわからないのだ。
車が施設に着いたのでふたりして降りると、北条さんは施設をじっくりと眺めていた。
「ここが、いま春がいる場所なんですね…」
おじいちゃんがいる施設は全員が全員認知症というわけでなく、軽度な方から重度な方もいれば、健康体でひとり暮らしがもう不可能な心身共に元気な人もいる。入り口すぐには可愛い小型犬もいて、ペットセラピーと呼ぶべきだろうか。
入り口は自動ドアで、私が先に入った。
「こんにちわー」「こんにちわぁ」
施設に入ると、スタッフさんが一気に挨拶をしてくれる。
「こんにちわ。いつもありがとうございます」
スリッパに履き替え手を洗い、紙に会いに来た人と自分の名前を書く。北条さんも続き、スリッパのペタペタした音で館内を歩いた。
「鈴江さん、何かあったらおっしゃってくださいねー」
「ありがとうございます」
スタッフの方が優しく声をかけてくださり、私たちはエレベーターの前を並んだ。
「おじいちゃんの部屋、301号室なんです」
「………」
北条さんは、もしかしたら緊張しているのかもしれない。私の言葉に何も返事がなかった。
数十年振りの、再会。
いや、きちんと再会になるのだろうか。
それすらもわからない。
環の足取りも緊張しながら、祖父の部屋を目指した。
「…ここです」
私は北条さんと並んで、扉の閉まった部屋の前に立つ。
北条さんは、相変わらず何も話さない。
「私が先に入りますね。北条さんは良きタイミングで呼びます」
「………」
北条さんは手元を祈るポーズにし、やや震えているように見えた。私の言葉にも、気づいているのかすらわからない。
それでも、ここまで来たのだ。会わない選択肢はない。
コンコンとノックをしてから、ガラガラっと、横開きの扉を開けた。
「おじいちゃーん。環だよ!」
「…おぉ、…環ちゃん。今日もまた来てくれたんだねぇ。いつもいつもありがとう」
「また会いに来ちゃった! 今日は天気も良くてよかったね。おじいちゃん元気?」
「あぁ元気だよぉ。環ちゃんも来てくれたし、そうだ、冷蔵庫にフルーツジュースが、」
そう言いながら、おじいちゃんはベッドから降りようとする。
「あぁ私、自分で取るよ。好きなのもらってもいい?」
「もちろんだよ。環ちゃん、オレンジジュース好きだっただろう?」
オレンジジュースが好きなのは、父親だ。
「…うん! オレンジジュースもらうね」
認知症とは、残酷だ。
おじいちゃんと話すたびいつも思う。思い出が、記憶が、何もかもが混同してしまう。残された私たちすら、傷を負う。
私は丸い椅子をおじいちゃんのベッドの脇に置き、オレンジジュースを飲みながら話をした。最近は元気? 何か新しいことはあった? 誰か会いに来てくれた?
おじいちゃんはゆっくりと、時に人の名前を間違えながら、教えてくれた。
そして私は、今日最大の目的を果たそうと決めた。
「おじいちゃん、あのね…。今日、会って欲しい人がいるんだ」
「会ってほしい人かい? 環ちゃんの恋人とかかい?」
おじいちゃんはケタケタと笑いながら、予想外の答えを言う。
「ううん、違うの。おじいちゃんの、」
そこで、気づいてしまった。この先を、私はなんて言ったらいいのだろうか。
友だち? 昔の恋人? わからない、わからない。
「………環ちゃん?」
「…呼んでくるから、ちょっと待ってて」
そう言って私は部屋を出て、閉まった扉の横に立って待っていた北条さんの姿を確認した。今度は腕を組み、緊張を抑えているように見える。
「…行けますか?」
「…あぁ」
意を決した北条さんは私の後について部屋に入った。
扉の閉まる音が、苦々しく感じた。
「おじいちゃん。こちら、北条鷹壱さん」
「…北条鷹壱です」
そう言うと頭を下げ、顔を上げておじいちゃんと目を合わせる。
おじいちゃんの目はまぁるくなったまま、口がだんだんと震えていた。
「…春、ひさしぶりだね。僕のこと、覚えているかい?」
明らかに緊張した声の北条さんと、理解が追いついていなさそうなおじいちゃん。私は、おじいちゃんが発狂してしまったら、とか、叫び出してしまったらとか、そんなことを考えていた。
しばらく沈黙が続き、すると、おじいちゃんの瞳から涙が溢れていた。
「はっはっは。鷹壱! 鷹壱じゃないか! なんでまたこんなところにいるんだ! 随分とひさしぶりだなぁ。互いに少し老けたか? それでも鷹壱は、全然変わらないなぁ」
おじいちゃんの声は活気を取り戻し、まるで、入院前の元気な頃のようだった。そんな様子に驚き、今度は私の口が開いてしまった。
「「ほうじょう」は今も元気だろう? 実はな、時々様子は見に行ってるんだ。従業員のみんなも元気そうで安心してるよ。あぁ、鷹壱に会えるなんて、会えるなんて…」
北条さんはすぐさま丸い椅子をベッドの横に置いて座った。今目の前にいるおじいちゃんは、"いま"のおじいちゃんではない。
「なぁ鷹壱…。ずっとな、謝ろうと思ってたんだ。勝手に出て行ったこと、「ほうじょう」を捨ててしまったこと。あのときの俺は弱くて、耐えきれなくて、ひとりになることしか方法がわからなかったんだ」
手を目に当て涙を拭い、おじいちゃんはまるで若い頃に戻っているようだった。「様子を見に行ってる」なんて、出て行ってすぐの話だろう。
「悪ぃなぁこんな姿で。ちょっと怪我しちまったんだ。まさか鷹壱が見舞いに来てくれるなんて思いもしなかったよ。よく病院がわかったもんだなぁ」
そう言うおじいちゃんはとても笑顔で、とても嬉しそうで、まるで。
「…恋する乙女」
環は誰にも聞こえない声で呟いた。
あぁ、"いま"のおじいちゃんは、いつのおじいちゃんなんだろう。確実に、私の知らない時期のおじいちゃんだ。
「…春。俺は、ずっと春を探してた。だから、会えて嬉しいよ。たしかに春がいなくなったときはとてつもなくつらかったしさみしかったけど、優柔不断な俺のせいでもあるんだ」
「そんなことない。鷹壱はみんなを守るため、「ほうじょう」を守るため頑張ってる。だから俺なんか気にすることないんだ」
「俺なんか、なんて言うなよ…。どれだけ探したか…」
すると北条さんは、おじいちゃんの右手を取って握った。おじいちゃんも特に拒否するわけでもなく、菩薩のような微笑みで北条さんを見つめている。
「…もう、許嫁とは結婚したのか? 良さそうな奥さんだってみんなも言ってたじゃないか。ちゃんとしあわせにならないと俺が許さないぞ、なんてな。ははっ」
おじいちゃんの"いま"はいつなのか。私にはわからなかった。話している時間軸はめちゃめちゃで、でも、北条さんはすぐに適応している。
わかるのは、ふたりは、ふたりだけの世界だった。互いがプラスとマイナスで引き合うような、互いがS極とN極でくっつくような。そんなふたりの世界に入れる余地なんてない。形の違うピースがカチッとハマるかのように、ふたりは、ふたりだった。
こんなの、ずるいよ。
環はもう一度ふたりを見てから、そーっと静かに部屋の外に出た。
扉を閉めた瞬間、ボロボロと涙が出てくる。なんの涙なのか、本人にもわからなかった。おじいちゃんに恋人がいたこと? おじいちゃんの知らない顔を見たこと? おじいちゃんがまるで認知症じゃないみたいに話せたこと? わからない、わからない。
環はふーっと深呼吸をし、歓談場のような場所にある椅子に座った。そこには施設の利用者が何人かいて、テレビが流れていた。
ふたりがあと、どれくらい一緒にいるかはわからない。何を話しているかもわからない。でも、それでいい。自分の役目は済ませられたのだと、一種の達成感があった。
「…おじいちゃん」
私のことも、忘れないで。
私のことも、ずっと覚えていて。ずっと、ずっと。
「…さん。環さん」
気付けば肩を優しく叩かれており、顔を上げると北条さんがいた。どうやら私は眠っていたらしい。
「………北条、さん…」
「環さん、結構ぐっすり眠っていたようですね。大丈夫ですか?」
「あの、おじいちゃんとは、」
そう聞くと、北条さんは優しく笑って頷いた。
「…たくさんのことを話せました。たしかに認知症の影響か話す時間軸はバラバラだったりしましたけど、それでも、当時の記憶はあったみたいです。春と話せて本当に感謝しています。環さん、本当にありがとうございます」
「……っ…」
人に感謝されることとは、こんなに嬉しいことなのか。心からの感謝が伝わってくる。嘘偽りのない想いが、環の胸に刺さる。
「しばらく話していたんですが疲れてしまったようで、話している途中で春は眠ってしまいました。その際に部屋から出てきましたよ」
「…北条さん、おじいちゃんと会ってくれてありがとうございます」
「言ったでしょう。感謝するのはこちらですよ」
「いいえ。あの手紙を見つけたときから、私の役目がきちんと果たせた気がするんです。無事にピリオドが打てました」
「…はい。そうですね」
私はもう一度おじいちゃんの部屋を覗き寝ていることを確認したあと、北条さんと一緒に施設を出た。来たときよりも、風が強くなった気がする。
「行きと同じで大丈夫ですか? それとも環さんのご自宅の最寄駅までお送りしますよ」
「いえ、今日のこと家族は知らないので、行きと同じで」
行きと同じく運転手さんが滑らかに運転をはじめ、後部座席に私と北条さんが座る。
ふたりで何を話していたのか聞いていいべきなのか…と環は困惑していた。いや、あの空気感だ。きっと知られたくないだろう。
車はゆったりと駅のロータリーに入り、スムーズに止まった。私は車から降り、もう一度お礼を言う。
「北条さん、今日は本当にありがとうございました」
すると北条さんも車を降り、私に話し始めた。
「…環さん。私は今日が最初で最後だと思って春に会いました。それも全て環さんのおかげです。私が一人で会いに行くことはないので、安心してくださいね」
そう言われ、なんだか拍子抜けしてしまった。
もしかしたら北条さんは、これを機におじいちゃんに会いに来ると少し思っていたのだ。
「あ、いえ…。あの私、正直なことを言うと、すごく複雑なんです」
「複雑、とは?」
環は小さく深呼吸をして、話し始める。
「おじいちゃんが北条さんのことを覚えている瞬間を見たとき、ふたりがとてもお似合いだと感じました。ふたりが過去のまま一緒にいたらどんなに幸せだったんだろうって、想像してしまったんです。でもその反面、ふたりが、わ…別れを選んでくれたから、今の私がいるんです。私のおじいちゃんが、おじいちゃんとして出会えたんです。ふたつの道を考えると、どっちがよかったんだろうって、なんだか、わからなくて、…っ」
「………」
自分のいない未来が、おじいちゃんにとって幸せだったのではないか。
自分がいる未来で、あるべき幸せを壊してしまったんじゃないか。
環の胸中は複雑で、それは、答えの出ない「もしも」の話でもある。
「おじいちゃんは、私に怒ったこともなくて、この歳になってもお年玉をくれるような人でした。お歳暮やお中元もたくさん来ていて、慕われていて、とにかく優しい人なんです。だから、あの、えっと…、北条さんとおじいちゃんが別れを選んでしまったことで、それでも、おじいちゃんの人生の一部になってくれて、本当にありがとうございました」
気付いたら涙目になっていたのは、気付かないフリをした。北条さんに伝えたのは、全て本音である。複雑なことも、感謝なことも。
人と人の出会いは、縁だから。
「…環さん。こちらこそ、春の血縁者に会えて光栄です。私とだけだったら、あなたには出会えなかった。春の血筋が続いていく。思い出と記憶が未来に繋がる。今はそれが、私にとって一番幸福なことです」
私と北条さんは、同志なのかもしれない。
おじいちゃん、鈴江春吉という共通点を持った、継承者だ。
「またいつでも連絡ください。お店にも是非顔を出してくださいね」
そう言い、北条さんは車に乗り込んだ。私は車が遠くに行くまで見送り、やっと肩の力が抜けた気持ちになる。
今日という日を、私は忘れないだろう。
おじいちゃんと最愛の人の、再会の日を。
たとえおじいちゃんが忘れてしまっても、私が、覚えているから。
「そういえば…」
私はふと思い出し、北条さんにメールを送った。
【北条さん、おじいちゃんからの手紙には、なんて書いてあったんですか?】
すると、すぐに返信が返ってきた。
【環さん、野暮なことを聞きますね】
【だって、気になるじゃないですか】
私もすぐに返事を打つ。
そう、気になるのだ。あそこまでして託した手紙のなかに、何が書いてあったのかを。
【ラブレターでしたよ。それだけ、お伝えしておきます】
「…もうっ!」
ニヤニヤする北条さんの顔を予想しながら、私はひとり、駅で地団駄を踏んだ。
君に会いたい日々だった 朱々(shushu) @shushu002u
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