第5話虎になった李徴
李徴の妻はさすがにあっけにとられたように、声もなく袁傪を見つめている。かすれた声で言う。
「驚きました。にわかには信じられません。つまり李徴は虎の姿になっていたのですね」
「虎の姿というよりは虎そのものになっていたというべきかもしれません。というのも、虎に変身したとわかったとき、最初は死を思ったらしいのですが、目の前を一匹の兎が通るのを見たとき『人間』は姿を消して、次に『人間』が目を覚ましたときには、口は兎の血にまみれていたというのです。どうやら一日のうちに、何時間かは『人間の心』が帰ってくるらしいのですが、それ以外はすっかり虎そのものになるようです。私が通ったときも初めは襲いかかろうとしましたが、私の顔を見た瞬間、人間が戻ってきて、やっと思いとどまったということのようなのです」
「なんとも恐ろしいはなしですね。恐ろしいことですが、私はそれでもうれしいです」
「え?」
「あなたがおいでになったとき、私は李徴が亡くなったという知らせを持ってきたのかと、内心、覚悟を決めておりました。それが、たとえ虎になったとしても、生きていることがわかったのですもの」
何という人だ、と袁傪は再び思う。この強さ。そして愛というべきか、虎になっても生きていた方がいいと言うのだ。袁傪は言葉をついだ。
「李徴に二つのことを頼まれました。一つは、あなたと子どもの面倒を見て欲しいということです。ですから、私の力の及ぶかぎり、私はあなた方のお力になりたいと思ってここに参りました。そして、もう一つは……」
袁傪はかばんを開けると、紙の束を取り出した。
「これです。李徴は虎になってなお、自分の詩を作り続けていたらしく、自分の生きた証として、これを世に残したいので、自分の記憶が確かなうちに、今、吟ずるのでそれを書き留めておいてくれないかというのです。わたしはもちろん承知して、それを従者に書き留めさせました。それがこれです。お見せしなければと思い、持ってまいりました」
妻は眼を見開くと、宝物でも押し頂くように、紙の束を手に取って、じっと見入った。澄んだその目からもう一度、涙が、つと流れた。
「間違いなくあの人の作品ですね」
涙声だった。
「私はあの人の作品が好きです。人が認めてくれなくても、あの人の作品には、本当の真心がこもっていると思ってきました。虎になってからはますます純粋になった気さえします。私の方で、これらもきちんと清書させていただいて、冊子にいたします。誰見るものがなくてもこの世の片隅には残してあげたいと思いますので……本当にありがとうございます」
「わかりました。私も李徴の詩は好きです。もしあなたが冊子にしてくださるなら、私も、微力ながら、知り合いに紹介して、少しでも世の中に残しましょう」
妻は頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたのような方に出会えて夫は本当に幸せ者です。よろしくお願いいたします」
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