第3話 李徴の残した詩
「もしや清書しておいでなのですか?」
「はい、ご存知のように、李徴は詩作を愛しておりました。詩家としての名を死後百年残すことを夢見ておりました。でも残念ながら、認められることなく時が過ぎ、私や子どもをいつまでも貧しい暮らしもさせられないと申しまして、官吏の職を奉じることになりました。かつての同輩は、とうに出世して、その下命を拝しながら、詩作も思うようにならず、苦しんでいるのはわかっていたのですが、どうすることも出来ずにいました。ですから、一年前、旅先で失踪したと聞いたときは、震え上がりました。もしかして、自ら命を、とも思いましたが、それはありえないと」
「どうして、そう思うんです?」
「あの人は、一見、高慢にも見えますが、それは、実は臆病なだけで、根はとてもやさしい人なんです。苦しい思いをしながら下級官吏に甘んじておりましたのも、すべて、私たちのためです。自ら命を絶ったら、私たちがどんなに困るか知っていますから、どんなに思い詰めても、自ら、命を絶つことはない、そういう人です。突然、外へ飛び出したという噂も聞いておりまして、もしや気を乱したのではないかと心配しておりました」
なるほど、かなり真相に近い推理だ。だがまさか、今の李徴の姿はさすがに想像もつくまいが……と袁傪は考える。どうする。本当のことを伝えてしまうか?
李徴には口止めされているが。
「ですから、どこかで、自分が誰かさえわからずに山の中をさまよっているか、あるいは、もしかして別人としてどこかで暮らしているか、とあれこれ考えておりました。もちろん山中で命をなくしている可能性もありますが……」
「あ、それは……」
思わず言いかけてやめる。妻は、袁傪をちらっと見て、続ける。
「どこでどうしていようと、たとえば自分が誰であるかを忘れてしまって、誰かと所帯を持っていようとも、私としては生きていてくれさえすれば、と願っております。ただ、あれこれ考えると、もうここに帰ることは難しいかもしれないとも思わないわけにはいきません。もちろん、帰ってくることを信じておりますが ……」
妻はうつむいて、それから、机の上の書に、軽く手を置いた。
「どちらにしても、あの人が命をかけて作った詩が、今、いくつか手元に残されておりますので、それをせめて清書して、いつかは人様に読んでもらえる形にしようかと、少しずつ清書しているところです。時間のあるときに書いているのですが、書いていると、あの人の声が聞こえるような気がして寂しさも和らぎます。いずれ、きちんとまとめて、わずかな数でも世に出して、あの人の生きた証として人様に見てもらえれば、あの人もきっと喜ぶだろうと思いまして、少しずつ書いているところです」
静かに、少し沈んだ口調で、李徴の妻がそう語るのを聞いて、袁傪は思わず心の中で言った。
「この女性(ひと)は何という女性(ひと)だ」
普通の妻だったら、夫が詩作にふけっているのを見たら、「そんなつまらないことをやめて、しっかり働け」としか思うまい。夫の望みにこれほど理解のある妻がいるとは……李徴はなんという果報者だ。いや……、
そこまで考えて、袁傪は心の中で首を振った。
逆に、李徴の妻なればこそ、なのかもしれぬ……
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