第16話
海は広い。
この世界は陸地と海ならば陸地の方が少しだけ広いけれど、それでも海は世界をぐるりと覆う。
修復した”世界地図”。エマが担当したのはそんな、世界の隅々まで行き渡る海。
「さあさあ。始めましょうね」
エマが針を取り出す。今からやろうとしている事には釣り合わない、不安になるくらい細い針。レース針十四号。そこから垂れた糸もまた細い。糸はしゅるりと降ろされて、先がふと見えなくなった。部屋の中にある"世界地図"へと繋げたのだろう。
「はい」
「ああ」
かぎ針をしっかりと握ったエマの手を、一回り大きな神の手が覆う。右手と右手。神は残った左手で、エマを後ろから抱き込んだ。
「んん……これは必要?」
「なんだ、照れてんのか」
「動きにくいのよ。意地悪だわ」
「…………衝撃で吹き飛ばされたくなけりゃ大人しくしてろ」
神が手に魔力を込める。
それはエマの手を、針を、糸を伝って地図へと、そして海へと流れ込む。するりと何の抵抗もない。あっという間に広がって、海のすべてに編み込まれた魔法の下地に神の力が浸透する。
凄いな、と神は感心する。口には出さないけれど。
本物の海に魔法を組み込むなど、到底できることではない。途方もない時間と魔力が必要で、どんな凄腕の魔女でも無理だろう。
それを、エマは”世界地図”という媒介を使って、やってのけた。”世界地図”は世界の縮図。相互作用し、干渉し合う。地図の海に魔法を施せば現実の海に反映される。
けれどもそれは理論上の話。
地図にしては大きい、一辺が何メートルもある地図の約半分を占める海を編みながら、そのすべてに寸分違わぬ緻密さをもって魔法を編み込んでいくなど。
「お前、とんでもねぇな」
「あらあら。それは褒めてるのかしら」
「まァな」
そうこうしている間にも、神の力は世界に行き渡っていく。
海のすべてへ。そして、川を伝って陸地まで。
長く長く生きて、たくさんの魔女たちをみてきた神ですら、ここまでの凄腕は初めてだった。
滞りも、抜けも漏れもどこにもなく、なにも破綻していない、完璧な下地。しかも、まっさらかと思えば所々に魔力の
これなら。
エマの編んだ下地に、神が魔法を入れ込む。反射のついた防護魔法。単純なぶん、強力にできる。
海が光った。
二人の真下から、四方へ光が広がってゆく。走る光は模様を浮かべ、それは宙へと転写される。
緻密で繊細で、けれど世界をまるごと覆ってしまう、巨大な巨大な
「……綺麗だな」
「あらあら。うふふ」
思わず漏れた神の言葉に、エマは満足だった。
自分が編んだレースが、編み入れた魔法が。美しく仕上がってそして誰かに、この口の悪い神に綺麗だと言ってもらえた。
満足で、嬉しくて、幸せ。
さぁ、仕上げましょう。
「――――いくぞ」
神がぎゅ、と手に力を込める。針と手を包んだ右手に、細い腰に回した左手に。
エマもまた、神の腕に左手を添えた。
「三、二、一、」
発動。
すぐそこにある異世界は、すでに天蓋の半分以上を破ってしまっていた。そこに向かって魔方陣そのものをぶつける。あんな大きい的、当たらないはずがない。
凄まじい衝撃。
世界がひっくり返ったような揺れと衝撃波が二人を襲った。足元が、世界の裏側の屋根が崩れる。一瞬で宙に投げ出された身体。手を離さなかったのは奇跡に近い。
二人一緒に、真っ逆さまに落ちてゆく。
「エマ!」
「ええ、ええ! わかっているわ!」
左手で針を取り出す。一番太い、二十ミリ。
くるりと回す。目も開けられないような風の中、感覚だけで編んでいく。出来上がったのは。
ぼすん。
大きな大きなクッションに二人揃って着地した。
「……あらあら、やっぱり駄目ね。目がガタガタだわ。模様もきちんと出ていないし」
「お前なぁ……」
二人はそれぞれため息をついてから空を見上げた。
相変わらずそこにある異世界。けれど、その大きさもその距離も、先程までとは違っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます