第7話 <仕事をしない公務員 例2>

小林多喜二((1903~1933)「蟹工船」の作者。官憲の拷問によって虐殺された。広辞苑)のように、警察署で虐殺された人間は、明治・大正・昭和の時代に何万人もいました。私が京都の僧堂で雲水をしている時、太平洋戦争中に警察官をやっていたという方から聞いた話です。


「日本人と朝鮮人、私一人で何人殺したかわかりません、ははは」 「私だけじゃない.日本中の警察官がそんなんだった。」なんて笑ってましたが、その為、この人ばかりか多くの警察官が、1945年8月の終戦時、すぐにどこかへ逃げ、しばらく隠れていたということです。


終戦時、日本人は茫然自失・虚無状態でしたが、朝鮮人(韓国・北朝鮮)は「オレたちは戦勝国だ」と、突然元気になり、戦争中に好き放題をしていた警察官を襲い始めたのです。

日本国中、多くの警察署が朝鮮人によって乗っ取られ、警察署内にため込んでいた膨大な量の食料、金銀、現金、武器が奪われたのですが、警察官全員がこの京都の警官のように後ろめたいことをしていたので、警察官全員が逃げ去ってしまい、進駐軍(アメリカ兵士)が町内レベルに入るまで、日本中が朝鮮人の好き放題にされたそうです。

「今に至るも、警察が朝鮮人(韓国・北朝鮮)に弱い」というのは、「1945年8月15日」以来のことです。


1945年8月という時期は、元気な男子は全員戦地へ送られ、日本本土には女子供と年寄りばかりだったので、進駐軍が取り締まるまでの3ヶ月間は、虐殺・強姦の嵐だった。

日本人(の土地所有者)を殺し全国の国鉄(JR)駅前の土地を占拠し強奪されました。日本全国、駅前には必ずパチンコ屋がある(韓国人や朝鮮人の所有)のは、そういう理由です。 1945年8月15日からわずかの間に、朝鮮人によって殺された3千人の死体が荒川の河原に並んだそうです(最近、ネットで見た記事)。米軍の空襲ではありません。戦争は終わっていたのですから。


日本人の女子供の戦争は8月15日から始まりました。 飢えと、強姦・略奪・殺人の恐怖との戦い。 全国の警察署や軍隊(基地)には、金も食料もふんだんにあった。それを知っていた朝鮮人は、先ず武装解除されて無抵抗の警察や軍隊を襲い、食料・武器・金品を強奪した。何しろ、朝鮮は戦勝国であり、アメリカと同じなのですから、日本の警察も軍隊も手が出せない。

普段、あれほど威張り散らしていた警察官は、みんな逃げてしまったという。


当時、私の母は10歳くらいで、若い母親と荒川区の隣の北区に住んでいましたが、まだ徴兵に引っかからない15・6歳のやんちゃ坊主・悪ガキ・不良少年、そして復員したヤクザたちが朝鮮人(韓国・北朝鮮人)の襲撃から守ってくれたのでした。


母と祖母は、奇跡的に空襲で焼けなかった着物(昭和40年頃の話では数百万円相当)を、茨城の古河の辺りへ持っていき、お米に替えてもらい生き延びたのだそうです。

終戦直後の1年間くらいは、日本人は田舎へ行って着物や家財道具を売り、わずかな食料を手に入れた。一方、韓国人や北朝鮮人は戦勝国だと言って「仲間」の進駐軍(アメリカ軍)から肉やチーズ等の豊富な食料を支給されていたのです。



終戦を朝鮮で迎えた、父方の伯母の話では、やはり、日本人の警察官と軍人は、1945年8月15日になる直前に「とんずら」していたそうです。

伯母の父(私の祖父)は、朝鮮のある町で靴工場の工場長をしていたのですが「朝鮮人を日本人と同じに扱うことがけしからん」ということで、殺されはしなかったのですが、警察署内で小林多喜二のように拷問を受け、寝たきりに近い状態でした。しかし、 敗戦(日本の敗北)の時、これが幸いし、伯母たちは地元の朝鮮人に守られ、釜山から日本行きの船に乗ったのです。


東京の浅草辺りでも、終戦時には在日朝鮮人の土地占拠や乗っ取りが行なわれようとしていたのですが、そこは浅草という土地柄、戦争に取られなかった年寄りヤクザ(任侠}が中心になって、街を守ったのです。


60年前、祖父に連れられて浅草の銭湯へ行くと、全身に入れ墨を入れた「恐いお兄さん」が沢山いらっしゃいましたが、浅草の人たちは「頼りにならない警官」よりも、そんな「恐いお兄さん」たちを信頼していました。

実際、子供の私から見て、彼らはジェントルマンで、(今にして思えば)警察官と違い「嘘のない笑顔」をしていました。


私が祖父の背中を流していると、隣の入れ墨のお兄さんが「坊や、おじさんの背中も洗ってくれるかい ?」なんて言う。背中を流しながら「あれ、絵が落ちないよ」と言うと、大きな声で楽しそうに笑う。 お兄さんは「ありがとよ」なんて言って、さっさと洗うと先に出て行ってしまう。

私たちはゆっくり熱い風呂に浸かり、いつものように脱衣所でコーヒー牛乳を飲む。祖父が番台でお金を払うとすると『坊やと旦那さんの好きなものを飲ませてあげて』と、○○さん(入れ墨のお兄さん)から言われてます。」と、おばちゃんが笑顔で言う。

私たちは池の鯉を眺め、塀の外の喧噪(笛や太鼓の音)を聞きながら、ヤクザ屋さんにおごってもらったコーヒー牛乳を飲んでいました。

本物のヤクザ(任侠)というのは、警察官なんかと違い、嘘くささがない。

警察社会と違い、へまをやったら指を詰める、腹を切る、という真剣勝負の世界ですから、人間としての重みがある反面、透明感がありました。

カラッとして、スカッとしている。

日本人のヤクザ(任侠)が街を守っていてくれた60年前というのは、本当に気持ちのいい、安心して住める時代でした。


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