五話 前へ進む(2)
「あの・・これでは距離が遠すぎやしませぬか」
首をまっすぐピンと伸ばした苦しい状態で声を発し、目線の先に居る彼に投げかける。
「遠くない」
彼はピシャリと告げると、座っている木の枝の上でふんと鼻を鳴らした。
・・まるで、木の上で寝そべりながら人間を威嚇する猫を見ている様だわ。
私は垂直にしていた首を戻してから、小さくため息を吐き出す。
単に人目を気にしてなのか、大っぴらに鬼の手を引く巫女の私を慮ってなのかは分からないけれど。彼が私を攫う様にして抱きかかえ、この森の中にひとっ飛びしてくれた所までは良かったのに・・。
大空を舞った高揚感と共に、もぞもぞとくすぐったい様な気持ちで満たされていたのに・・。
森に着くや否や、私を太い木の根に下ろすと、彼は逃げる様にバッとその木の枝に飛び乗ってしまったのだ。
ようやく一歩を踏み出す事を許されたと舞い上がった喜びが、泡沫に消えていった。
その哀しさたるや、虚しさたるや・・。
私はのしかかる落胆に再び嘆息してしまうが。その息を誤魔化す様にぶんぶんと軽く頭を振った。
いえいえ、でもこうして面と向かえる様になったのよ。つまり少しは許された、と言う事じゃないの?今までの拒絶と比べたら、この状況は奇跡に近いものね。
そうよ、そうよ。落ち込む事ないわ。今はこれだけの距離でも、その距離を少しずつ縮めて行けば良いのよ。焦らず、逸らず、着実に歩いていけば、きっと深淵に近づく事が出来るわ。
私は「よし」と己を鼓舞してから、首を垂直にして見上げる。
「では、このままで良いので話を聞いて下さりますか?」
艶然と問いかけると、木の上の彼は不遜に鼻を鳴らし「俺に何の話があると言うのだ」と言った。
「お前が言葉を交したいのは、青狸の方だろうよ。毎日毎日言葉を交し続け、下らん事を聞いているではないか」
渋面を作りながらぶっきらぼうに吐き出すいばなの前で、私は「青狸・・?」ときょとんとしてしまう。
「あの、青狸と言うのは。まさか、とは思いますが・・天影様の事、ですか?」
まさかと言う思いを強く抱きながら訊ねると、すぐに「奴以外に誰がいる」と憮然と吐き捨てられた。
あの、崇高で麗しい青鬼の天影様を青狸呼びなんて・・とんでもないわね。
立場的には彼が頭目で、天影様が副頭目だから不敬でも何でもないのかもしれないけれど。天影様を蔑称で呼んだ方が不敬で、重罪な感じがするのよね・・。
「お前、俺に喧嘩を売っているのか」
頭上からの物々しい突っ込みで、私はハッと我に帰った。
そして急いで固まっていた表情を繕って「いいえ、そんな事は」と答えるが。見上げた先のいばなは「嘘をつけ」と、ピキピキと苛立ちを放っていた。
「心の中でだらだらと、天影の方が良いとか何とか述べていただろ」
「・・いいえ、そんな事は」
「詰まってるじゃねぇか!」
激しい突っ込みに、私は「良い悪い云々を述べていた訳ではありません」と宥めてから「天影様の話ではなくて」と強引に話題を変えた。
そして奪われかけていた自分の流れを取り戻し「私が話をしたいのは、貴方の事ですよ」と、その流れに相手をぐいっと無理やり乗せる。
いばなは私の目を見てから、「だから」とため息交じりに言葉を吐き出した。
「俺について話す事は何もないし、聞く事もないだろう。あの青」
「いいえ、沢山ありますとも」
私はうんざり口調で続く言葉を遮り、ニコリと上に居る彼に笑顔を向ける。
「天影様からでは知った事にはなりませぬ。故に、貴方を知るには貴方から、と言う事です」
「・・は」
予想だにしなかった言葉だったからか、それとも単に返す言葉が見つからなかったのか。
彼は一言発すると、もごもごと口ごもり、返答を詰まらせていた。
そして二、三度目をぐるりと回してから「意味が分からん」と吐き出す。
「何故、そうまでする必要があるのだ」
「貴方を知りたいからと言う事の他に理由はありませぬ」
「・・答えになっておらんぞ」
憮然として答えられるけれど。私は「そう言うものです」と、あっけらかんとしていた。
「今、貴方が何故と知りたい様に、私も貴方を知りたいだけなのですよ」
そう。これは間者として、ではなく、千代としての話。だからただ単純に、彼の事が知りたいのだ。
一体いつからこんな考えになってしまったのかは、自分では分からないけれど・・。
私は顔を綻ばせながら泰然と告げると、「では、こうするのはどうでしょう」とパチンと両手を合わせた。
「毎日一つずつ、互いに質問をしあって答えるのです。さすれば、私は貴方を知る事が出来るし、貴方も私を知る事が出来ますでしょう?」
「・・俺は別に。お前の事なぞ知りたくない」
秒で提案を無下にする酷薄な言葉が上から飛んでくるが。私は貼り付けた笑みを崩さずに「では、貴方はこういう理由で質問なさったらよろしいです」と、泰然と言葉を継いだ。
「私が紫苑と言う女性ではない。と、より思い知る為に」
紫苑と言う名で彼が分かりやすい程にピキリと強張る。
そこで私は「やはり」と分かってしまった。
まだ私の事を紫苑として見ているのだ、と。
少し膨らんだ袖の中でキュッと拳が作られる。
けれど、私の顔は柔らかな笑みを称えたままだった。
・・本当に、間者としての訓練を受けていて良かったわ。痛みだけではなく、心ですらも完璧に隠せる事が出来るのだから。
私はそのまま「どう転んでも、互いに利がありましょう?」と、言葉を続けた。
「ですから、私が百鬼軍の方に赴いた時に質問を交し合いましょう」
有無を言わさぬ笑みで告げる。
すると上から「良かろう」と尊大な言葉が降ってきた。
思いがけない答えに、細めていた目が大きく開かれる。
彼は立てている片膝に頬杖を突いて、私をまっすぐ射抜いていた。
「面倒だが、乗ってやろう」
これで満足か。と、彼はぶっきらぼうに告げる。
はぁと呆れ交じりに上がった白旗に、私は「はい」と笑顔で答えた。
そうしてその日から、私はいばなと面と向かって言葉を交わせる様になった。
始めは本当にぎこちなくて、すぐに沈黙が降りてしまっていた。それに、お互いすぐに食ってかかる性格のせいで、自然と喧嘩に発展する事もしばしば・・。
それだから天影様が間に入ってくれて、私達の場を上手い事回してくれていた。
けれど、ある日。いばなが「お前がいると憤懣とさせられるだけだ!お前は消えろ、天影!」と怒髪天を衝いて、天影様を場から弾いてしまった。
私は怒るいばなを宥め、天影様に「居て下さい」と頼み込んだのだけれど。天影様は飄々と「分かったよ」と素直に下がってしまい、以降、本当に私達の間に居なくなってしまった。(正直、私としては「味方且つ救いの存在が・・!」と、実に惜しく思ったのだけれど)
そうして天影様なしで二人だけで言葉を交すと、やはり始めは激しく衝突したものだけれど。時間を共に重ねる度に、少しずつ互いの事が分かってきて、少しずつ衝突も減っていった。
だが、私達の間の変化は、それだけではない。
二人の間の距離が、一番変わっていった。勿論、良い方向に。
始めは、私が彼を見上げていた形だったけれど。徐々にその形が緩やかに変わって行って、今では地に足がついた状態で、人二人分程空いた距離で、言葉を交す事が出来ているのだ。
でも・・まだ「心」の距離は遠いと思う。
未だに彼は私の事を千代と呼ばないし、その瞼裏に紫苑が居て、紫苑を見ているのが分かるもの。
いつだって、歩いて距離を縮めるのはこちら側。
彼は頑としてその場から動いていないから、これでは互いに距離が縮まっているとは言えないわよね・・。
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