二章 三話 決死の証明

 もう一度百鬼軍に会うべく、険しい山道に入ると。早くも、予想外が起きた。


「あぁ、やはり来ましたね。待っていた甲斐がありました」


 その鬼はニコリと私に笑みを向けると、背を預けていた木からゆっくりと離れる。


 サラリと美しく流れる金青色の長い髪、額の左側からニュッと伸びた一本角。右目が前髪で隠れてはいるものの、蠱惑的な相貌をしている。そして今の世では見られなくなった、白色に老松の紋が入った直垂姿。

 あまりにも艶めかしく、麗しい容貌に、私は目を奪われてしまう。


 目の前の人は鬼で、私達人間からすれば恐ろしい存在のはずなのに。恐ろしさは一切感じない、神聖な精霊だと思ってしまう。


「・・私の顔に何か?」


 微笑混じりの艶やかな声に、私はハッと我に帰った。


「いっ、いえ!何でもございませぬ!」


 慌てて取り繕い、見惚れてしまっていた事を誤魔化すけれど。そう答える声はくるりとひっくり返り、何とも素っ頓狂だった。それがまた、自分の羞恥をツンツンと刺激する。

 かあっと頬が熱くなり、次の言葉が羞恥に邪魔されて奥に引っ込んでしまった。


 するとそんな私を見透かしてか、慮ってか。目の前の鬼は「こちらへどうぞ」と、艶然と事を前に進ませた。


「我らの頭に会いに来たのでしょう?」


 蠱惑的な笑みを称えたまま問う鬼に、私の目がじわじわと大きく見開かれる。覆われていた羞恥も一気に引き、冷静がすーっと戻って来た。


「・・案内あないをしてくれるのですか」


 信じられないと言わんばかりに言葉を返すと、目の前の鬼は「ええ」とすんなりと首肯する。


「一人で赴くより私と共に赴いた方が確実ですし、安全だと思いますよ。私は、百鬼軍の副頭目ですからね」


 ふわりと金青の髪をたなびかせ、肩越しに告げる姿に、私は「副頭目・・」と唖然としてしまった。


 人も喰わない様な清廉な雰囲気で、優しげな鬼なのに。その正体は、百鬼軍の副頭目だなんて・・。


 見た目からは想像も付かない恐ろしさに気がついてしまうと、崩されていた警戒心が瞬時に積み上げられていく。


 すると目の前の鬼はフフと蠱惑的な笑みを零し「安心なさい」と、面白そうに言った。


「私は人を喰わない主義ですからね。貴女を喰いもしないし、喰おうとも思いませんよ」


「人を喰わない主義・・?」


 そんな妖怪が居るなんて。と言う驚きを露わにすると、彼は「全ての妖怪が人を喰う訳ではないのですよ」と朗らかに笑う。


「私の様に人を喰わない者や、もいるのですよ。まぁしかし、これから向かう百鬼軍の面々のほとんどが人を喰う者共ですからね。一人でそんな所に飛び込んで行くのは、飛んで火に入る夏の虫と言うもの」

 幾ら霊力が高い貴女でも危険ですよ。と、彼は蠱惑的な笑みを向けてから、颯爽と歩き出した。


 飄々と先を進む背を数秒見つめてから、私はその背を追う様に歩き出す。


 そして彼に追いついた時、「あの」と後ろからおずおずと声をかけた。


「何故・・副頭目の」


「私は天影てんえいと申します。天影、と呼び捨てしてもらって構いませんよ」

 ニコリと打ち明けられた名に、私はゴホンと咳払いをしてから「・・では、天影様。(彼の艶やかな雰囲気が呼び捨てを憚らせた)」と、改めて声をかける。


「百鬼軍の副頭目ともあろうお方が、この様な事をなさって良いのですか?貴方様は私の訪れを待っていたばかりか、頭目様の元に案内しようとしていらっしゃる・・一体、何故です?」


「さぁ、何故でしょうかね。私にも分かりません」


 彼は飄々と答えると、わざとらしく肩を竦めた。


「貴女を連れて行けば、いばなが私を殺す勢いでぶち切れる事は見えているのに。あぁ、その姿を思い浮かべるだけで恐ろしい」


 恐ろしいと言っているものの、彼の口調は依然飄々としたまま。本心で言っているのかどうなのか、分からないわ。


 彼の返答に少し眉根を寄せていると、麗しい微笑が軽くこちらに向いた。


「では、逆に問いましょう。たった一人で、妖怪の巣窟に赴こうとしていたのは何故ですか?何の訳があって、貴女はこんな所まで足を運ぶのでしょう?」


 彼の目が、私の心中を図る様にスッと細められる。


 私はキュッと袖の中で拳を作ってから、蠱惑的な眼差しを受け止めた。


「昨日、私は彼に命を救われました。その礼を・・遮られて伝えられなかった礼を述べる為にございます」


 彼は私の毅然とした答えに目を少し丸くしてから、フッと小さく笑みを零した。


「礼を述べる為だけに、妖怪の巣窟に一人で赴こうとするとは・・。相変わらず優しいと言うべきか、愚直と言うべきか」


 フフと面白げに言われるけれど。私はある一言に引っかかり「あの」と、声をあげた。


「相変わらず、とはどういう事でしょう。天影様も私を紫苑と言う女性だとお思いなのですか?」


 少々剣呑に訊ねた瞬間、彼の足がピタリと止まる。丁度、渓谷にかかる吊り橋の前で。


 そして彼はゆっくりと振り返ると「お気になさらず」と、言った。


「ただの失言です。そう気にされる事ではありませんよ」


 彼は弱々しい微笑を零してから、ふいと前を向いて吊り橋に進んで行く。


 彼からも、下から唸る様に聞こえる川の音からも、うまいこと濁された気がする・・。

 私はむうっと小さく唸ってから、大きく一歩を踏み出した。吊り橋の木板がギシリと鳴り、橋が僅かにゆらりと揺れる。


「私は千代と申しまして、紫苑と言う女性ではありませぬ」


 追いついた彼の背に向かって声をかけると、「申し訳ありませんね」と朗らかに返された。


「つい見違えてしまうのです。貴女があまりにも紫苑に似ているものですから」


「・・そんなに似ているのですか、私とその紫苑と言う女性は」


 訥々と問いかけると、天影様は肩越しに私を一瞥して「えぇ、とても」と答える。


 依然として口調は朗らかで、相貌も柔らなものだけれど・・どこか苦しい哀情を纏っている様に感じた。


 頭目の鬼だけではなく、きっと天影様にも、紫苑と言う女性と何か因縁があるのだわ。


 ・・片方からは憎悪と怒りを抱かれ、もう片方からは哀情を抱かれる。

 一体、紫苑と言う女性は二人の鬼に何をしたのかしら。


 私は木板に目を落としてから、ふいと視線を上げて彼の背に向かって問いかけた。


「紫苑と言う女性と、何があったのです?」


 そう問いかけた瞬間、彼の背からピリッと雷が迸る。


 そうして足を止めて振り返ると、私をまっすぐ見据えた。その瞳に・・初めてゾクリと肌が粟立ち、ヒュッと小さく息が零れる。


「貴女には教える必要がありませんし、貴女が知る必要もない」


 彼は淡々と告げると、一転して相好を崩した。放っていたもの全て収め、ガラリと空気を朗らかなものに変える。


「教える事も出来ますが、これは知らぬが仏と言う話なのですよ。如何せん、気持ちの良い話ではありませんし、いばなにとっては逆鱗に当たりますからね」

 問いかけた相手が私で良かったですね、いばなであったらこうはいきませんよ。と、彼はわざとらしく肩を竦めた。


 朗らかに言ってはいるものの「この先は踏み込んでくれるなよ」と言う、物々しい脅しが明らかに込められている。


 目の前で踏み込もうとしていた場所が崩れ落ち、私はその先へ渡れなくなった。一歩二歩と安全な場所に後退し、そこからその先を眺めるしかない。


 並々ならぬ恐ろしい線引きに、私がゴクリと唾を飲み込むと。彼は「さぁ」と徐に声を張り上げてから、くるりと背を向けた。


「もう少しで着きますよ。あと少し、頑張って歩いてくださいね」


 肩越しに柔らかな笑みをくれてから、彼は飄々と進んで行く。


 私はキュッと唇を結んでから、止まっていた足を前に動かした。

 とんとんと板の上を歩む度、カランコロンと下駄に付けた鈴が音を奏で続ける。


 けれど、その音は轟々と流れる川の音にかき消されていった。

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