Chapter201.イウルフ史概略

(思い出したら順次,書き足していきます)


〈双瑞帝国〉 

 央歴1018年現在,双瑞帝国の領土はユーデア大陸とを繋ぐ双瑞地峡の他に,

リスバーン川以北のヒル&ポース扇状地とザクロス山脈の一部に加え,

ショイル国の首都ヒートポースより手前までの南到本線と,ネクスト・ディオルート本線の鉄道用地で構成され,イウルフ諸国で一番,領土が国家となっている。

 だが帝国の首都瑞歯ずいは市は,ユーデア諸国との貿易の中継地として現在でも繁栄していると同時に,500年以上も前の,帝国の覇業の出発点となった地である。


 瑞歯市があるガフミ平原を治める伯爵でしかなかったエグベルトが,「古い帝国」

からの圧迫(重い租税や,古い帝国の軍兵士による住民への襲撃が,その身分と関係無く行われるなど,末期はかなり腐敗していた)を目の当たりにして反発,やがて自立を検討し始めたというのが,双瑞帝国が建国されるきっかけだったという伝説がある。

 エグベルトは央歴488年の段階では王を名乗っていたものの,ガフミ平原・蓋見ふたみ湾を取り囲んでいるザクロス山脈という,双瑞地峡の地形に着目して,長距離の交易による利益を背景に自ら皇帝を名乗った上で血縁に囚われる事無く,古い帝国へ取って代わるべきと考え始めた。他の貴族や有力な平民と提携し,古い帝国をさんだつした時は13年が経過しており,エグベルト1世は既に病没,息子のアルフレッド1世が後を継いでいた。

 古い帝国の最後の皇帝を含めた皇室や,最後まで従った者に対して,厚遇するという措置をとりながらも,少しずつ政治から遠ざけるという方針を立てていた。国号は最初のエグベルトの領地にちなんだ「双瑞帝国」と定められた。

 ※帝室は,エグベルトの名前から「エグベルソン朝」とも呼ばれている。


 建国者エグベルトと,初代皇帝のアルフレッド1世(央歴501年に即位・戴冠した)へ仕え,双瑞帝国の誕生へ貢献した人材の中には,いわゆる“シルクウェイ”を通って,ユーデア大陸東部やじゅ扶桑ふそうのくにからはるばる移住してきた者達も含まれている。その樹扶桑人の家系のひとつとして, ‐〈ハイフン〉の一族,と呼ばれるつら家が登場したのであった。当主(うじのかみ)がドクダミ庁大臣の官職を世襲して,皇帝直轄領の警とその指揮を執るのが,双瑞帝国成立後の彼らとその子孫の役割になった。


 古い帝国はイウルフ大陸の北半分を支配していたので,その版図はんとを双瑞帝国の帝室が引き継ぐ事になる。アルフレッド1世と後継者達は,古い帝国から手に入れた土地の生産を回復させてから領,土を拡大させる事を選択した。60年が経った央歴560年代まで周辺国との戦争が少なかったのはこの政策による。そして対外的な積極策に移ってから80年ほどで,イウルフ大陸の4分の3を支配下に置いた。エゼルウルフの治世,央歴640年から始まる双瑞帝国の最盛期は,100年ほど続く。イウルフ大陸だけで無く,古い帝国よりも古くから続くロマヴィアなどのユーデア大陸にある国,さらにはアラビアやガナー,天竺,中国大陸,そして樹扶桑国との貿易を展開した。

 しかし,「繁栄とは衰退の直前」という歴史の進み方は,古代ロマヴィアと古い帝国がそうであったように,双瑞帝国も例外ではなかった。





〈ショイル国〉

 こちらは,イウルフ大陸南部のドラー海に面したヒートポースを首都とする,央歴1018年現在のイウルフ諸国で最大の国土を持つ国家だ。中央政府は儀礼的大統領制・議院内閣制をとった民主共和制を敷いているのに対し,ようこくである「特別県」のほうは全て,貴族制度が残った王政のままで,共和制と君主制の折衷のような体制。


 もとは央歴580年代に,ロマヴィア(東ローマ帝国)の属州だったショイル市で発生した徴税に対する反乱の指導者達が,勢力を拡大してロマヴィア軍より優位になったと見て,支配地の独立を宣言した事で誕生した国。その後のロマヴィアは混乱の時代へ入っていき,ショイルの再征服は何回も計画されながら,実行はされなかった。


 当時あった国々,特に古い帝国の残党は,新たに出現したショイル国と征服し合い,

ショイル国の計略などで数を減らしていった。この方法で拡大していたショイル国は,やがて双瑞帝国と接するようになる。交易や文化の輸出入を行わないつつ,アルビオン=スティッシュ(英島)の議会制を,かつてのヘッラス諸国や古代ロマヴィアの共和制と合わせて発展させた形として,民主共和制・大統領制が成立した後の央歴760年代から,双瑞帝国の内政が皇位を巡る対立などで不安定になっていたのに乗じ,イウルフを全て民主共和制か立憲君主制にするという目標を掲げて,帝国領への侵攻を開始。

 

 帝国各地の領主や都市の商人へ調略と,応じなければ取り潰しという二通りの戦略を続け,央歴810年代までに,双瑞帝国のザクロス山脈以南の領土を切り崩した。

 貴族が,ディオルート公爵家と後述のシスリバー県辺境伯マクペレドゥル家および両家の分家と儀礼称号,その下は騎士階級しかいないが,これは攻防の過程でほとんどの貴族はショイル国に滅ぼされるか寝返るか,降伏した為。


 ここでアルフレッド2世が央歴821年に即位し,新皇帝や当時のドクダミ庁大臣らの指揮のもとで,『暫定和約』の停戦交渉を開始,帝国は発祥の地,双瑞地峡まで入りこまれるのを阻止した。この後『暫定和約』の取り決めを履行しながらも,リスバーン川の左岸だけを奪還し,その状態で国境を確定という反攻作戦が立案され,長期にわたる戦争で疲弊した帝国の,国会で承認された。央歴830年からイザヤ峠に陣取った,双瑞帝国軍が当時のディオルート公爵キーガン家当主の指揮で,7月に裾野のショイル軍へ奇襲をかけ,そこから何と2ヶ月でリスバーン川左岸のヒル&ポース扇状地を奪回。

 この戦闘は,平野部での戦場となった場所にちなみ,アイロンフォレストの攻防と呼ばれる。


 アルフレッド2世は,同年10月1日付けで“シスリバー(川のこちら側)県”を新設し,

ディオルート公爵の推薦で,彼を騎士として補佐したデイモン・マクグレー男爵バロンへ,

マクル(MapPereval,「渓谷を駆け抜ける者の息子」)という新たな姓を与え,シスリバー県辺境伯 “Count of March∶the Cisriver prefectuer”に叙爵し,その功績をたたえて,さらに復興の指揮を託した。


 これ以降は小競り合いを繰り返された後,ショイル国は帝国の討伐を中断しており,そのまま170年以上の時が流れた。





•リスバーン子爵領について

 連味 堅朋の領地であるリスバーンは,行政上は西方特別県に属している。


 本来は双瑞帝国の時代に,ザクロス山脈を迂回するドラー海航路のイウルフ大陸側拠点の一つである,港町のドックシャーと周辺を任せる為に新設された爵位だ。

 リスバーン川の川幅は上流・下流とも狭く,内陸水運に向かない。そもそもドラー湾へ注ぐ河口のすぐ手前にカットォフォールズという落差9mの滝があり,船が海から入れない。その為,海路と陸路の接続点を治めると共に水害対策を行わせる為,双瑞人の貴族に下賜する子爵位ヴァイカウント,とされた。ただし,双瑞帝国の貴族は『最初に叙爵された家の分家に当たるのなら,樹扶桑人など他の民族でも継承できる』と定めた規定が既にあり,リスバーン子爵にも適用される事になっていた。


 ショイル国の北進に対し当時のリスバーン子爵は,双瑞帝国軍のドックシャー手前の城壁とリスバーン川を防衛ラインと設定し,リスバーン橋も砦として活用する作戦の指揮を執り,子爵領を包囲するショイル軍と対峙,暫定和約まで持ちこたえた。

 その為,停戦時にショイル軍側は彼に敬意を表すべく,安全な退去と地位の保障を上層部へ持ちかけると約束し,そして履行した。

 シスリバー県設置後に,『暫定和約』の正式化が行われ,リスバーン川の右岸は,全てショイル国へ割譲された。リスバーン子爵家については,ショイル民である樹扶桑人の分家かつ,包囲戦に関わっていないのを理由に,西方特別県の王都セレン市に住んでいた騎士の連味家が,双瑞人としての最後の子爵が没すれば爵位を継承する事と,領地を安堵する代わりに,和約の発効と同時に西方特別県へと編入する事が決められた。


 このような経緯で,双瑞帝国とショイル国が和訳を締結した事により,

周辺をショイル国のライトバンク州とドラー海,北方だけ双瑞帝国との国境線に取り囲まれたリスバーン子爵領は,王都セレンや他の貴族の領地とは切り離されて孤立し,イウルフ大陸の東端近くに位置する,西方県の飛び地という形になり,現在に至っている。

 

 


 

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