第17話 Masterー支配者。

 蓮川はすかわけいに下がれと命じたのは咄嗟のことだった。


 メイがすでに正気ではないことは顔を見てすぐに気がついた。

 自慢ではないが、過去に2度女に刺されて、そう言うときの追い詰められた人間の気配はよくわかっている。

 目をギラつかせ、やや口早に話してくる様子はまさにそれだった。

(ヤバいな……)

 思っていたより追い詰められている。

 蓮川の事以外にも金と店の事がある。もう逃げ場はなく、メイの憎しみは全部蓮川に上乗せされて向けられている。

 それに入ってきた時からずっと右手を上着のポケットに入れたままなのもヤバい。

(持ってるな)

 ナイフであればポケットに入る程度だからそこまでの刃渡りはないかもしれないが、アイスピックのようなものだと面倒だ。あれで突かれたらナイフの比ではなく深く刃が入ってしまう。

(せめて、ナイフであれ……)

 どう祈っても無駄なのであれば、最悪を避けたい。

 そんなことを考えても、現実は変わりはしないのだが、これが祈ると言う気持ちかと心のどこかで思った。

 そんなことを思いながらも蓮川は腹をくくっていた。

 今ここで、螢を危険な目に合わせるわけにはいかない。メイのターゲットを螢に移らないようにしないとならない。

 しかし、一歩前に踏み出そうとした蓮川は自分の身体に異変を感じた。

(え?)

 ぐらっと足がふらつく。

 咄嗟にスツールの背もたれに手をついて支えたが、体の動きが粘るように重い。

(くそっ! なんで……)

 その時、すっと視界の端をバーテンの黒井くろいがバックヤードに入って行くのが見えた。

(黒井……)

 頭の中ですべてがつながった気がしたけれど、それを言葉にする時間はなかった。

 メイの方へ進み出ようとした螢の方へメイの視線が動く。

「螢っ! 下がれ!」

 本当に咄嗟のことだった。

 螢を下がらせてどうしようとか、蓮川が代わりになろうとか、そういうことは全く頭になかった。

 メイが次に動いたら、必ずポケットの中の凶器を出す。

 それがどちらに向くかは、その時メイの視界に入ったものになる。

 蓮川の命令に螢がびくっと身体を竦ませたのを確認して、蓮川は覚悟を決めた。

 蓮川の言葉がメイの意識を螢に向けてしまった。

「メイっ!」

 メイは躊躇いもせずポケットからナイフを引き抜くと、体ごと螢に突っ込んでいこうとした。

 蓮川はそれを逃がさないようにメイの服を掴んだ。

 その瞬間、焼けるような熱さが身体を走る。

 ナイフが自分の身体に刺さったのかどうかわからないが、その熱を感じた瞬間に全身が脱力した。

 メイと一緒にもつれるように倒れこみ、それでもメイを螢の方へ向かせないために逃すまいとグッとつかんだ服を握りこんだ。

「貴様っ!」

 螢の怒号と同時に、身体がふっと軽くなる。

 ガッとかゴツッとか音がしているが、蓮川はもう目を開くこともできない。

 ただひたすらに腹が熱い。

(螢……)

 螢が無事なら良かった。



 そもそも、蓮川は何故こんなにも螢を庇おうと思ったのか。

 その理由が蓮川にもわからない。

 メイから逃れるために隠れている日々は、蓮川には何ともなかったが、螢の負担になっていることは感じていた。

 螢が先走る前に、蓮川が動くしかないとも思っていた。

 だが、そうではなくて、今思えば蓮川が焦っていたのだ。

 螢との関係を悪化させたくなくて、早く終わらせようと焦った。

 螢に怪我をさせたくなくて、自分の身体を盾にした。

(螢……)

 螢に拒絶されるまで、誰彼構わず関係を持つことに疑問を感じたことはなかった。

 蓮川の中にはルールがあって、それを承諾した相手と関係を持っているのだから、それが適応しない相手とは関係を持たなければいいだけだった。

 螢は蓮川のルールから何もかも外れていた。

(恋愛感情……)

 そう呼ばれるものなのかもしれない。

 螢を大切に思う気持ち。

 だが、それと関係を持ちたいと望む気持ちがつながらない。

 蓮川の中で性欲は破壊衝動と同時に湧き上がるものだ。

 螢の身体を見て、螢を縛り上げて、螢が貞操帯をつけていることを知って、めちゃくちゃにしたいと思った。

 それは明らかに破壊衝動と欲情だった。

 縛り上げて、鞭で打って、苦しめて苦しめて、螢を支配したい。

 心が折れて、蓮川に従順になる螢を見たいのと同時に、抱きしめてそのまま眠りたいと言う気持ちがわき上がる。

 大切にしたい、守りたい、共にあって共に生きたい。

 相反する気持ちが同時に存在する。

 気持ちが悪いことに、それがすべて蓮川の中では両立する。

 だから混乱した。

 それぞれの気持ちが濁り、壊したいのか守りたいのか、どちらなのかもわからなくなる。

 蓮川はそんな気持ちの混乱の中で目を覚ました。


「はす、かわ……さん……」

 目を開くと、螢が蓮川の顔を覗きこんでいた。

 泣きたいのか笑いたいのかよくわからない顔をしている。

「けい……」

 蓮川が掠れる声で呼ぶと、わっと微笑んで、顔を寄せてくる。

「よく、俺の命令オーダーを守ったな……」

 蓮川の言葉に、螢が息をのむ。

 不安そうな顔、蓮川から離れてしまった顔がさみしくて、蓮川は手を伸ばした。

「螢……」

「……はい」

 螢は伸ばされた手をしっかりと握り締める。

 蓮川が咄嗟に命じた時、螢はそれを拒否することもできた。

 螢程の正義感ならば、蓮川の言葉など聞かずに、蓮川の代わりに飛び出す方が螢らしいとすら言える。

 それでも、そんな螢は、一瞬身を竦めて、「下がれ」という命令オーダーのまま踏みとどまった。

 それは螢が蓮川を尊重したと言う事だ。

 螢が蓮川を信じたからこそ、その言葉に従ったのだ。

「いい子だ……」

「はいっ……」

 螢の瞳から大粒の涙があふれる。

 女たちに泣かれても何も思う所がなかった。それどころか鬱陶しいとすら思っていた。

 どんなに機嫌を取られても、媚びを売られても、それに心動かされることはなかった。破壊衝動すら起こらず、ただ冷めた目で無視をした。

 あえて傷つけるまでもない。ただそこに居るだけの、もう終わった女。

 それなのに螢が蓮川を見て泣いているだけで、心が揺り動かされた。

(この子が欲しいんだ……)

 強い独占欲。支配欲。

 衝動的に沸いてきたのはそれだった。

 その命を奪って、その姿を破壊しつくして、甘美に震える喜びも、苦痛に呻く悲鳴も、何もかも自分のものにして、螢にすら螢を自由にさせたくない。

 蓮川だけのものにしたい。

 その感覚が異常なのはわかっている。

 蓮川の性欲は暴力衝動と結びついてしまっている。これはどうにもならなかった。上手くごまかす術を覚えたが、それでも攻撃的なことを思うと劣情が刺激された。そして同じように性欲が刺激されれば破壊衝動が湧く。

だから、性欲だけではなく性欲を内包する恋愛感情がわいた時、どうなるのかと思っていた。

 同時に存在するのか、欲望が殺し合うのか。

(愛情と殺意は両立する……)

 蓮川にとって何も考えられなくなるまで潰してしまえば、それは完全な支配だ。

 何もできない肉片をすべて食べてしまえば、きっと満足して眠れる。

 あとは、自分と蓮川と同化した螢を愛して、それだけで生きて行ける。満足して。

(狂ってるな……)

 ぽたぽたと蓮川に降り注ぐ螢の涙を見ても、それを厭うことなく、ただ手を握り続ける螢に「いい子だ」と繰り返した。

 仄暗いものを心の奥底に抱きながら、それを温かいと思いながら――。



「無事でよかったです」

 しばらく泣いて、ずっと蓮川の手を握っていた螢だったが、落ち着いたのか赤い目をこすりながらやっと微笑んだ。

「傷はそんなにひどかったのか?」

 体を起こすことができない蓮川は自分の上半身を覆う様につけられているガーゼの白さしか目に入らない。

「刃は骨でそれたので内臓に傷はつかなかったのですが、それなりに深い状態で刃が滑ったので傷が大きかったんです」

「そうか……」

 聞けば出血もひどかったらしい。また治療には時間がかかりそうだ。

「内臓にも筋肉にも大きな傷がつかなかったのは、本当に運が良かったって言われました」

 螢が再び涙ぐみそうになるのを堪えるように付け加えてきた。

「今回も、生き延びちゃったな」

 思わず言葉がこぼれた。

「蓮川さんっ?」

 螢がギョッとした顔で蓮川を見た。

「え?」

「ど、どっか痛いんですかっ!?」

「え? なに……あ」

 螢が慌てて顔を寄せてきて、その時に螢はもう泣いていないのに、蓮川の頬を涙が伝った。

「涙……」

 蓮川は泣いていた。

 そう自覚したら、たまらなくなった。

「お、おれっ……」

 次から次へと涙が溢れ、言葉を紡ごうにも嗚咽が喉を詰まらせる。

「蓮川さん……」

 螢は蓮川の手をもう一度握って言った。

「あなたは助かったんです」

 螢には蓮川の涙の意味がわかったのかもしれない。

「そうか……そうか……」

 次から次へと涙があふれた。

それは安堵の涙だった。

 蓮川はルールを作ってそれに縛られることで何とか生き繋いでいた。

 女の首を絞めて、縄で縛って鞭打つ時だけが生きている瞬間で、それ以外は死体がゆっくりと膿み腐り朽ちて行くように過ごす。

 そして、いつか死ぬのだと思っていた。

 だから、女に刺されてもなんとも思わなかったし、それから逃れようともしなかったし、助かっても死期がのびただけだと思っていた。

 無茶なルールに縛られて生きて、いつかこのルールが蓮川にとどめを刺す。それでよかった。

 良かったのに――。

(俺は助かった)

 助かったと自覚した瞬間、溢れたのは安堵だった。

 死んでいたら、螢を手に入れられなかった。

 螢を傷つけることも、螢を愛することも、守ることも、壊すことも、支配することもできずに失う所だった。

 助かったから、生きているから、まだこの先があるから、やりたいことがやれるのだ。

 傷つけることも、愛することも、守ることも、壊すことも、そして完全に支配することも、生きていれば出来る。

(生きていてよかった……)

 それは多分、生まれて初めて強く思った生への執着だった。

 そしてそれと同時に強く思う事がある。

(この子が欲しい……)

 手を握られる熱を感じながら、涙があふれて歪む視界で螢を見つめた。

 けいと話していた時とはもう比べようのない位、蓮川は螢を欲した。

 蓮川の中の狂気に、螢の存在が共鳴するように響く。

 恋愛感情などと温い言葉で片付くモノより、この方が明らかに蓮川の中で納得がゆく。

(……狂ってると思う。だが、俺は螢が欲しい)

 螢の手をぎゅっと握り返す。

 やっと、手を掴んだ。

 差し伸べても蓮川から握り返すことはなかった手だけれど、握った今、もう放したくない。


―― 続

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