第16話 Slaveー従属者。
救急車と警察はほぼ同時に到着し、すぐに
(蓮川さん……)
ストレッチャーに横たわり補助ベルトで固定されているが、救命士が止血のためにさらに上から押さえつけられている。
搬送が始まってからはあっという間であったが、螢はその間ほぼ放心状態で記憶も定かでない。
何もできず、蓮川の隣に座って、じっと彼を見つめるしかできない。
「この後は看護師さんの指示に従ってください。多分、この後警察が来ると思うので、病院から出ないようにお願いします」
「はい……」
病院について、ストレッチャーで走るように連れられてゆく蓮川の後について行くと、処置室と書かれたプレートの部屋の前にいた看護師に、こちらでお待ちくださいと別の部屋に連れて行かれた。
その時に蓮川の止血の際についた血を洗い流す様にと洗い場にも案内された。
言われるがままに手と腕を洗い、待合室のような部屋に行くと、螢はとりあえず近くにあった椅子に腰かけるとため息を吐いた。
すると、不意にジャケットのポケットの中が震え始める。
「え?」
慌ててポケットを探るとスマホが出て来た。咄嗟に持ってきた蓮川のスマホに着信が来ていた。
「
着信画面を見ると恵の名前が表示されている。
恵ならばと、螢も通話をオンにした。
「もしもし、恵さん?」
『え? 螢?』
恵は蓮川のスマホにいきなり螢が出たことで驚いたようだが、螢の様子がいつもと違うのにすぐに気がついたようだ。
『どうした? 蓮川は?』
「あ、あの、蓮川さんが刺されて、今、病院で」
螢がたどたどしく答えて行くのをじっと聞いていたが、こんな単語伝えでも恵は状況を把握したらしく、螢から病院名を聞き出すと『
『螢っ! 下がれ!』
それは蓮川の螢への命令だった。
その言葉の強さに螢は怯んでしまった。
咄嗟に体が止まり、メイの凶行を止められなかった。
「蓮川さん……」
泣くのは卑怯だと思う。泣いても何も解決しない。
でも涙がこぼれる。
ああしていれば、こうしていれば、たらればの話を延々と頭の中で繰り返すが答えなんか出ない。
いきつく先は、蓮川の命令と動けなかった螢。
(あんな言葉、どうして振り切れなかったのか)
螢にとって命令は絶対だった。
もちろん、ただの知り合い程度の連中の命令なんかは聞くつもりも必要もない。
だが、大切な人であればあるほど、自分が信頼を得たい相手であればあるほど、その命令は絶対になる。
命令に従う事でしか、螢は相手に気持ちを伝えられない。
どんな言葉も簡単に裏切れる、簡単に嘘になる。でも、命令に従う事だけは、絶対に裏切らないし嘘にならない。
螢が自分を証立てるには、それしか手段がないとすら思っている。
(でも、でも、だからと言って……)
蓮川の命がかかっていた。
あの場では蓮川の命令を聞くべきじゃなかった。
螢は命令を振り切って、蓮川を庇うべきだった。
螢がするべきことは、信頼なんかかなぐり捨てても蓮川を守る事だったはずだ。
自分のことを責めて責めて、何も考えられなくなっても自分を責め続けた。
「……俺……」
蓮川の怪我の処置はすぐに終わった。螢は病室に運ばれる蓮川と一緒に病室へきて、ずっとベッドの隣に座り込んでいる。
内臓に届くような傷ではなかったため命に別状はないと言われたが、かなり力任せに切りつけていたので傷が大きく出血量が多かったようだ。傷の処置が終わっても意識がまだ戻っていない。
螢は再び、血の気のない顔色で眠っている蓮川を見ていた。
呼吸は落ち着いているが、顔色は紙のように白い。
「
病室のドアが開いて、薄暗い病室に背の高い男の影が落ちた。
「……高邑さん」
その顔を見て名前を返すが、それ以上言葉は出ない。
「警察は?」
「まだ、です」
高邑は螢の隣まで来て、蓮川の顔を見た。
「呼吸は落ち着いているようですね。今回も助かったのは運が良かった」
浴衣のように前を合わせるタイプの術着を着せられているが、その下は厚く包帯を巻かれ盛り上がっている。
前回見た時より怪我の範囲が広い。しかも前の傷も治ったばかり。
「状況は?」
端的に問うてくる高邑に、螢もわかる範囲で答えた。
店にいて、メイがやってきた事。
蓮川がメイに刺された事。
「ナイフは刺さらず、切り裂いた感じでした。でも、出血がひどくて……」
傷の状況を思い出すと声が震える。
こんなにも自分は弱かっただろうか。
どんな時でも冷静に動くことこそが必要だと思っていたのに。
堪えていた涙が、再び込み上げてくる。
高邑もいるのに、ぐるぐると自責のループに陥ってしまう。
その瞬間、パシッという乾いた音と共に頬に鋭い痛みが走った。
「しっかりしなさい、晴山 螢」
「は、はいっ!」
高邑が晴山の頬を打ったのだ。
「起きてしまったことを考えても何にもなりません。これから先を考えなさい」
「……はい」
螢が絞り出すように返事をすると、高邑は厳しい表情を崩さずに言った。
「あなたがパニックになっても、事態は何も変わりません」
「はい」
高邑に頬を打たれて、何とかパニックは治まったように感じる。
(落ち着かなきゃ……)
深呼吸する。
大きく息を吸い込むと、ほんの少し鼓動がおさまった気がする。
不安が消えたわけではない。でも、頬の痛みが少しだけ頭をクリアにしてくれるようだ。
「酷い格好ですね。これを」
高邑は螢の格好を上から下までじろりと見ると、持っていた紙袋を渡してきた。
止血に使ってしまったのでシャツはなく、裸の上にジャケットだけ羽織っている状態で、その服にもあちこちに血が付いている。
袋の中には少しサイズは大きかったが新品のジーンズとカットソーが入っていた。
「ありがとうございます」
「蓮川さんの分はお任せしてもよろしいですか?」
「はい。それは大丈夫です」
着替えはホテルにあるし、必要なものも揃っている。
それ以外にも必要なことはすべて螢がするつもりだ。
まずは全力で蓮川を支える。
高邑の言う通り、蓮川は助かったのだ。だから汚名を雪ぐのはそれからだ。
そんな会話をしていると、病室の扉が静かにノックされた。
「はい」
返答をしたのは高邑だった。
高邑は入ってきた人たちを見ると真っ直ぐに見つめ返している。
「蓮川さんのご家族の方ですか?」
入ってきた男は二人いて、そのうちの一人が高邑に聞いた。
「いいえ、私はこちらの蓮川さんと晴山さんの代理人になります。高邑法律事務所の高邑です」
高邑がそう言って慣れた手つきで名刺を渡す。
男はそれを受け取り、自分の名刺も出しながら「――署刑事課の
高邑が弁護士であると名乗ったため、刑事たちの態度は始終丁寧で、螢に対しても無茶な質問などはなかった。
最も、螢は自分が被害者だと思っているので、それは当たり前だと思っていたが、螢時からの質問で一瞬肝を冷やした。
「目撃者から晴山さんが加害者を取り押さえる時に、殴りつけるようなそぶりがあったと話があったのですが……」
殴ってはいないが、思いきり蹴り飛ばしているので過剰防衛という言葉が頭をよぎった。
「あのっ、咄嗟に蹴ってしまったというか、とりあえず蓮川さんから引き離さないとって思って思わず……」
「たとえ相手が女性であっても、ナイフを持って襲い掛かってくるような人に対しての咄嗟の行動ですよね?」
高邑がフォローするように言葉を挟む。
「はい」
螢はその言葉に肯いた。
「現に男性である蓮川さんは、そのナイフを持った女性に襲われて重傷だ。それを制圧するためには仕方のないことでは?」
「あー、まぁ、そうですね。一応、形式上お伺いしています。詳細は後日改めてお伺いすることになりますが……」
主に質問をしているのは西山と名乗った年配の刑事だったが、西山は、高邑の言葉に、螢を揺さぶって証言を取るようなこともできずに素直に引いた。
ここで起訴できるかどうかも怪しい過剰防衛を引き出しても得はあまりない。
「あとは蓮川さんの意識が戻られてから、少しお話をお伺いすることになります」
「入院中にですか?」
「はい。こればかりは申し訳ないですが」
「わかりました。その時も事前にご連絡をお願いいたします。当職も立ち会わせていただきます」
高邑の言葉に若い方の刑事――木下はむっとした顔をしたが、西山はそれを軽くいなすと「わかりました」と承諾した。
刑事たちは事件の流れを一通り聞くと、連絡先を確認して退室していった。
「繁華街での刃傷沙汰なんて彼らにはありふれた事件でしょうが、それを気軽に思われたくはありません。恵さんから力添えするように言われています。正式にかかわらせていただきます」
高邑はそう言うと、螢にも名刺を渡した。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いいたします。でも、俺、弁護士さんにお願いすることって初めてで、どうしたらいいのかもわからないんですが……」
被害者側だからと弁護士という考えすらなかったのだが、先ほどの刑事との会話の間だけでも高邑がいることで助かったことは多い。
弁護士として正式にお願いすることは螢にもありがたかったが、初めてのことで勝手がわからない。
「契約等は一応後日ご説明しますが、蓮川さんと晴山さんの件は報酬は恵さんが受け持つからと言われています。ですので、必要なこと、不安なことがあれば私までご連絡ください」
「え、それは悪いです。報酬は自分で支払います!」
流石に螢でもそれが安くはないことはわかる。
なので、慌ててそう言ったが、高邑は薄く微笑んで断った。
「『私が損をすることはないから、気にするな』と恵さんから言われていますので、お気になさらなくていいかと」
「そ、そうですか……すみません、ありがとうございます」
とりあえず言葉に甘えさせてもらって、後日、恵に会った時にもう一度聞いてみればいいかと螢は高邑に礼を言った。
「……これは、私の個人的な意見になりますが……」
高邑は少し言い淀んでから言葉を続けた。
「正直なところ状況を聞いて、もっとやりようがあっただろうとか、焦って仕損じたのだと思わなくもないのですが――」
「……はい」
「ですが、『下がれと言われて、思わず立ち止まってしまった』というあなたの気持ちはよくわかります。私も恵さんにそう言われて、それを振り切れる自信はありません。――因果な性質だなと思いますが、蓮川さんはあなたが躊躇ったことを聞けば喜ぶと思いますよ」
「…………」
「あなたが
「……はい」
別の意味で涙が浮かんだ。
言葉に逆らわないことの意味。逆らえないことの意味。
(それを理解してもらえる人――)
蓮川に理解してもらえるだろうか?
螢の中ではまだ自信のないことだったが、高邑の言葉は暗く落ち込んだ中に仄かに明るく光をさしたのだった。
―― 続
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