第15話 事件。

 螢が仕事からホテルに戻ると、蓮川が息抜きに飲みに出ようと言い出した。


「正気ですか? 狙われてるのに?」

 思わずアホかとストレートに返しそうになったがそこは堪えた。

 しかし、自ら危険な目に会いに行くのは、螢としてはお勧めできない。

「狙われてるが、いつも行くclownなら大丈夫だろう。あの辺りはメイの在籍していた店関係の連中が多いから」

 蓮川は自分を探している人間のところにわざわざ出てこないだろうと言う。

 だが、それは正気の人間ならばと言う話だ。

(どう考えても……メイはもう正常な判断できてないよな……)

 店の金を持ち逃げ、螢に脅迫めいた写真を渡し、蓮川を狙ってまで来た。

 好きだった男の態度にメイの気持ちは完全にアンチに反転していると思われる。

 自分が探されているとか関係なく、蓮川をひたすら狙う可能性は高い。

(ホテルにいれば、とりあえずは安心なんだけどな……)

 蓮川の言う息抜きが分からなくもない。

 男二人のホテル暮らしは、それなりに広めの部屋を押さえているのでそこまで閉塞感はないが、元々夜は出歩くことの多い二人だ、外出できないことがストレスなのもわかる。

(それに……)

 良くないとは思うが、考えてしまう事がある。

(俺が出歩いて囮になれば、メイは姿を現すんじゃないだろうか?)

 狙われているのは蓮川だけではない。

 蓮川の相手だと思い込まれている螢も狙われているのだ。

 油断さえしなければ、螢にはメイを制圧することが可能だろう。

 今日、恵からも連絡があったのだが、メイを見つけ次第、メイを探していた連中に差し出す準備は整えてあると言っていた。

 だから、余計なことはするなと言う釘刺しだったのだが、それはメイを捕まえさえすれば事態は解決すると言う事にもなる。

 戦う必要も、傷つける必要もない。

 嫌な話かもしれないが、落とし前は探している連中が付ける。

 蓮川も螢ももう関わり合いにならなければいいのだ。

「さすがに一人で行くのは問題だってわかってるんだ。螢くんと二人なら、男二人だ。何かあっても対処ができるだろうと思うんだけど」

 蓮川は飲みに行くのは相当に乗り気のようだ。

「まぁ、それはそう思いますけど……」

 最悪、二人で居れば螢が庇うこともできる。

 螢としても早くこの事態を終わらせて、ゆっくりと蓮川と向かい合いたかったのだ。

 じっくり話をするためには、これを終わらせずにいるわけにはいかない。

 少し、欲が出た。

「そうですね。しばらく飲みに行ってないし、蓮川さんの退院祝いをしてないですしね」

 そう言って螢は飲みに行くことを承諾した。


 螢は後にこの時の判断を後悔することになるのだが――。



「お久しぶりです。……それに珍しい組み合わせですね」

 clownに行くとカウンターの中に入っていたのはオーナーの黒井くろいだった。

 蓮川も螢もここの常連だが、店で会う事はあっても一緒に店に来ることはなかった。

「まぁ、この間からさせてもらっててね」

 蓮川がそう言ってカウンターのスツールに腰かける。少し意味深に聞こえるのは螢の考え過ぎだろうか?

 黒井はそんな言葉も深くは受けとめず、いつものようにオーダーを聞いてきた。

 二人はそれぞれ自分たちの飲み物を頼む。

 メイの事があるので、今日はあまり飲み過ぎないようにしないとと軽めのものを頼んだつもりだったが、来たグラスを受け取って一口飲むと思ったより濃く感じる。

(久しぶりのお酒だからかな?)

 思い返せば蓮川が入院してからは、螢も蓮川の見舞いに通っていたので飲みに出てはいない。

 元々、螢はそんなに強い方でもないので、酔わないように二杯目はノンアルにするかと思っていた。

 そんなことを気を付けながらも、しばらくは蓮川と他愛のない話をした。

 目の前にはバーテンの黒川もいるので、あまり踏み込んだ話はできないが、それでも雑談に興じるのは楽しかった。

(頭いいんだよなぁ、この人)

 女性と一緒にいる蓮川は常にけだるげで無気力な感じがあったが、実際にこうして話してみると話題は豊富で飽きさせない。

 そして、実によく周囲のことに目を配っている。

(理想的なS……)

 SはサービスのSなんて言われることはあるが、Sは事細かく相手の状態に気を配るのが常だ。

 チヤホヤともてはやしたり、世話を焼くと言うようなこととは違う。

 緊縛もスパンキングも、対象者のバイタルの観測は非常に重要なのだ。

 縄で縛り上げることで、血流を圧迫し、血圧と体温を上げることで性的快感を脳に誤解させる。

 だが、加減が過ぎれば、神経を圧迫したり、血流が滞ることで酸欠になったりと、命を脅かすこともある。

 緊縛師は緊縛するとき、縄を持つのと同時に大きな裁ちバサミを持っていることが多い。それは何かあったときに縄をほどいていては間に合わず、鋏で一気に切って開放するのが必要だからだ。

 それだけ、人体に対してぎりぎりを攻めるのがSMであり、だからこそそれに依存するものも多い。

 そのSの観察眼を蓮川は、人に対してこんな風に発揮できるのかと少し以外にも思った。

 グラスの中身がなくなりかけると、次は何を呑むかと聞いてくるのだが、そのタイミングが絶妙で、空のグラスが螢の前に置かれることはない有様だ。

 飲み過ぎないようにと気を付けているのも察しているのか、アルコールの柔らかいもの、酔いが回りにくいものを勧めてきたりもする。

 そして、しっかりチェイサーを用意して、タイミングを見て勧めてくるのだ。

 おかげで螢はあまり酔わずに楽しく会話ができている。

 飲んだ量を思えばもうとっくに酔いが回っていても不思議ではないのだが、今日はちゃんとチェイサーもとっているせいか気分よく飲めているのだ。

 そんな感じでどれくらい飲んだだろう。

 店に入って1時間くらいたったころ、背後でドアが開く音が聞こえた。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの中から黒井が声をかける。

 その声に螢は顔を上げて振り返ると、一人の女が目に入って悲鳴を上げそうになった。

「メイっ!?」

 黒のカットソーにワークパンツという男のような黒ずくめだが、喉元に光るピアスは間違いなくメイだった。

「メイ?」

 蓮川もその姿を見つけて眉を顰める。

 ピアスでメイとわかるが、風貌はだいぶ変わってしまっている。

 美しく巻いていた髪はぼさぼさで、化粧っ気もなく、やつれて落ちくぼんだ目だけがぎらぎらとしていて、夜の蝶だったとはとても思えない。

よる、どうしてその男といるの?」

 メイは甲高い声で叫ぶように言った。

 蓮川はメイの問いには答えない。

「螢くん、下がれ」

 蓮川が立ち上がり、メイの方へ向き直る。

 駄目だと引き留めたいが、下手に今、螢が声をかけたらメイを刺激しかねない。

(蓮川さん……)

 螢はメイが蓮川に気を取られているすきに、恵に連絡しようとカウンターに置いていたスマホに手を伸ばした――が。

(え?)

 スマホがない。

 ついさっき、時間を確認するのにポケットから取り出し、そのままカウンターに置いていたはずだ。

(そうだ、黒井さんっ)

 せめて、黒井に警察に連絡してもらおうとカウンターを見ると、黒井の姿もない。

 メイを刺激しないようにそっと店内を見渡すが、黒井の気配がない。

 今日は他に客がなかったので、この店の中には蓮川と螢とメイの三人だけとなっている。

(どうしてっ!?)

 予想外の状態にパニックになりかけたが、今はメイだと気を取り直し、二人の方に意識を戻す。

 メイは蓮川に一言二言話しかけては口を噤む。

 それは殆どひとり言のようで「あなたの所為で」とか「許せない」とか短く恨み言を繰り返している。

(好きな男だったんだろうに)

 メイは両手を下に下ろした棒立ちの格好のままでブルブルと体を震わせている。

 目だけがギラギラしているが、それ以外は驚くほど質素だ。

 ずっと追われてきたのだと分かる疲労が見える。

(どうするか……)

 今は静かに蓮川が語り掛けているため、場は拮抗している。

 だが、少し蓮川の様子がおかしい――。

(酔ってる?)

 立って話していた蓮川が、メイに悟られないようにそっと椅子の背もたれに手をついた。

(ヤバいな……)

 酔いが回ってきているのだとしたら、時間が経てば経つほど事態は悪化する。

 メイの様子を見ても怒りで爆発寸前に思える。

 これはこの拮抗した状態を崩してでも、何とか事態の解決を図るべきだ。

 螢はメイを抑え込むべく、そっとメイの方へと足を踏み出す。

(いざとなったら、俺が盾になって……)

 蓮川に害を及ばせないために、蓮川とメイの間に割って入るようにしてから抑え込まないと。

 ところが、螢の行動に気がついたのか、蓮川がいきなり声をあげた。

「螢っ! 下がれ!」

 その一声が、螢に隙を作ってしまった。

「お前ぇっ!」

 メイが叫びながらポケットに入れていたらしいナイフを取り出し、そのまま螢の方へ突進してくる。

 螢はそれを受けるべく、身体を低く身構えようとしたが、その前に、目の前に影が飛び込んできた。

「ひっ!」

 影は蓮川だった。

 蓮川は完全に螢を庇うようにして、メイの身体を全身で受け止める。

 どんっと体がぶつかり合う低い音がする。

「蓮川さんっ!?」

 螢が悲鳴を上げると同時に、蓮川の身体がゆっくりと崩れ落ちていった。



 どうして、躊躇ってしまったのか。

 蓮川が店の床に倒れこむのを見て、螢は頭の中が真っ白になった。

 様々な感情が凄まじい勢いで脳内を駆け巡るが、それを認識することは出来ずに、激情に背を押されて弾ける様に動いた。

貴様きさまッ!」

 蓮川を刺しただけでなく、さらに倒れた体に殴りかかろうとしているメイを、螢は掬い上げるように蹴り上げた。

 蹴られて後ろに吹っ飛んだメイにすかさず伸し掛かり、着ている服の胸ぐらをつかみ、床に圧しつける。

 その掴む腕は交差されており、圧しつけることで首を締め上げている。

「はっ、……ひ、ひっ……」

 メイは言葉を発することもできずに、バタバタと動いていたが、さらに螢がぐっと圧すと首を絞められることによる酸欠で落ちた。

 螢はそのまま10秒数えて、メイが完全に動かないことを確認すると、メイの上から飛びのき、すぐに蓮川の方へ向かう。

「蓮川さんっ!」

 蓮川は腹を押さえるように蹲っている。そしてその床には血が黒く溜まり始めていた。

 螢はパニックになりそうな自分を気力で抑え込み、蓮川の傷の様子を見るためにそっと仰向けに横たえると、カランとナイフが床に落ちた。

 刺されたのは右脇腹、多分、ナイフは肋骨で逸れて腹を薙いだのだろう。服が大きく裂け、傷口が露出している。

螢はすぐに自分の着ていたカットソーを脱ぐと出血している傷口に当て、さらに自分のベルトを抜いて、カットソーを強く傷口に押し当てるようにしたままベルトで蓮川の胴を縛り上げた。

簡易的な圧迫出血だが、やらないよりはましだ。

こうして手当てした後に、蓮川のポケットにスマホが入っているのに気がついて、それを取り出してエマージェンシーモードで救急要請をする。

「事件です。負傷者あり、ナイフによる切創、圧迫止血していますが、出血がひどいです……早く……」

 情けないことに声が震える。

 通話は繋いだままでと指示されて、螢はスマホをスピーカーモードにすると床に置いた。

 そして、蓮川の傷を縛った上からさらに全力で押さえつける。

(血を……血を止めないと……)

 雑菌だの汚れだのの心配は二の次だ。

 とにかく出血を止めないと、人間は死ぬ。

「はすか、わ、さん……」

 必死に傷を押さえながら、蓮川の名を呼ぶ。

 蓮川の顔色は紙のように白く、出血量が多いことを示している。

 意識もなく、言葉もないが、かろうじて細く息はしていた。

「はすかわ……さん……」

 早く、早く、早く。

 気は急くが、螢にできることは少ない。

「早く……」

 震える声でそう言うと、蓮川の傷を押さえる手の上に螢の涙がぽたぽたと落ちた。


―― 続

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