第11話 狂気の男。
「
低く柔らかい声が名前を呼んでいる。
「ん……」
うっすらと意識が戻っているようだった。
名前を呼んだ人物が自分の傍にいるのはわかったが、どうにも目が開かない。
どうしてこんなに頭も体も重いのかと思ったあたりで、自分の身に起こったことを思い出した。
(俺は刺されて……)
少し思い出すと一気に意識が覚醒する。
蓮川はぎゅっと瞼に力を入れて、重い瞼をこじ開けるようにして目を開いた。
蓮川の顔を覗き込んでいる男の顔が見える。
「……君は?」
蓮川の記憶に異常がなければ、女に刺されて搬送された病院のはずだ。
「晴山です。警察から連絡を貰って来ました」
なぜ君がと問う前に螢は「詳細は後ほど説明します。とりあえず看護師さんに知らせないと」と言ってナースコールを押した。
暗い病室で枕元の間接照明にぼんやりと照らされた螢を見ていると、不意に、あのショーで見つけた時を思い出した。
ステージの照明の外で、ひっそりと、けど、じっとこちらを見ていた螢。
(どうして……)
螢の事はこんなに覚えているのだろう。
セックスしたわけでもなんでもない。BARで時々すれ違うだけの男。
(ショーで縛ったか)
それだけは少し特別だった。
セックスもせずに、縄で縛って散々打って、首を絞めて殺しかけて、慌ててキスした。
蓮川が呼んで、螢がその声に応えた。
伸ばした手を取り、蓮川の前に跪き、すべてを蓮川に差し出した。
その時の高揚感を思い出すとヤバい。今すぐにも螢を引き寄せてベッドに押し倒し、首を絞めて、その痙攣を直接感じたい。
この男を縛るのは縄ではなく自分の手だ。
あの時も最初は鞭を使ったが、途中からすでに切り替えた。
体を震わせ、痛みに耐える螢を思い出すだけで、快楽がよみがえってくるようだ。
そんなことを考えていた所為で、うわの空で医者の説明を聞いていた所為か、心配そうにこちらを見ている螢が再び目に入る。
(どうして……)
疑問は尽きなかったが、蓮川はとりあえずその先を考えることはやめた。
今ここで考えても無駄なことだ。
「……大丈夫ですか?」
医師の事情説明を受け、近いうちに警察の聴取もあるだろうと言う話を聞いてうんざりしていると、螢が心配そうに訊ねてきた。
蓮川に電話をしただけなのに、訳も分からず急ぎ駆けつけてくれた。その上、親族に頼ることが難しい蓮川の入院の保証人になるとまで言ってくれたのだ。
ほかに頼む友人がいないわけでもなかったが、その厚意はありがたく受け取った。
「保証人の件、ありがとう」
「いいえ、俺が蓮川さんに電話したら、電話に警察が出て、ケガで搬送されたって聞いて慌てて来ました」
「そうか。正直に助かったよ。恵に連絡することになったら、また怒られただろうし」
「あっ」
「ん? どうした?」
「いや、
「ああ、彼女から聞いたのか」
蓮川の連絡先なんて、どこでばらまかれているかわからないものだ。
蓮川を知っている女を捕まえて聞いたら奴らも教えるだろう。
それを、蓮川のあずかり知らぬところで聞いたことを、申し訳なさそうに告げる螢には好感を感じる。
(思えば、控えめな子だな)
いつも少し離れたところに居て、じっとこちらを見ているイメージだ。
とは言え、気が弱そうと言う感じはない。意志は強く、きちんと人と話している。
弱いと言う言葉はあてはまらない。
「もしかして、俺に用があった?」
恵に聞いてわざわざ電話してきたと言う事は何かあったのだろう。
入院騒ぎで後回しにしてしまった感はあるが、螢の要件は叶えてやりたいと思った。
「はい。連絡しようと思ってたんですけど、とりあえずメイさん捕まったみたいだし……」
「え? メイがどうしたんだ?」
メイの名前がいきなり出てきて驚く。
「え? 蓮川さんを刺したのってメイさんじゃ……」
「いや、彼女じゃない。昔、ちょっと知ってた女だ」
名前も思えだせない女だったが、メイではないことは確かだ。
そう言えば、最近はメイに声をかけられなくなった。
一時期あんなにしつこく付きまとっていたのに。
「そんな……」
螢は何故か絶句しているようだ。顔色もひどく悪い。
「大丈夫か? 君の方が顔色が悪いんじゃないか?」
蓮川が問うと、螢は少し躊躇う素振りを見せてから、一つ息を吐いて話し始めた。
「実は……」
螢の話では、メイが暴走しているようだ。
螢の元に得体の知れない合成写真を送りつけ脅迫まがいの事をしているそうだ。
蓮川と螢の接点なんてほとんどない――あるとすれば、ショーで螢を縛ったこと、店で話しているところを見られたのだろうか。
(それだけで……)
それだけと思うが、それだけで十分なことも理解している。
今まで何度も繰り返された、嫉妬と妬みの行動。
今日、女に刺されたように蓮川に向くこともある。
だが、ほとんどは蓮川の周囲にいる人間に向く。
周囲の人間をすべて消せば自分が選ばれると信じ込んでいるかのように。
(面倒臭い……)
幾度目のため息だろう。
たった一度寝ただけの女、それ以降は一切関係を持っていない。
電話も受けず、話しかけられても拒否し続けた。
それはもう二度と関係するつもりがないからだ。
「それは、悪いことをしたね……」
話を聞き終わって、蓮川は脱力した。
一度寝るだけだと約束したのに、大多数の人間がそう言うものだとお互いに理解して発散するだけのものなのに。
時折、それが理解できない人間がいる。
蓮川とて嘘をついているわけではない。最初からその気がないことは十分話して関係を持っている。
蓮川は女の事をオナホと同じだと思っているので、女も蓮川をディルドか大人のおもちゃだと思えばいいのだ。
(無茶なことはわかっているが、俺が求めているのはそれだけなのに)
ぐったりとしたのを体調が悪いと感じたのか、再び螢が心配そうな顔をする。
「メイが店を飛んでいたのも知らなかった」
螢の話を一通り聞いて、蓮川はため息をついて言った。
「彼女とはもう終わっているし、完全に興味の対象外だった」
「メイさんはそう思ってなかったんですね……」
「ああ、そうだな……君も巻き込んでしまってすまない」
謝って済むようなことではないが、今の蓮川にはそれ以上の言葉は出せない。
ただひたすらに、蓮川を案じてあれこれしてくれる螢に申し訳ないばかりだ。
「保証人は俺がしますけど、他に連絡を取った方がいい人とかいますか?」
そんな蓮川に、本当に螢は丁寧に接してくれる。
「ああ、職場に連絡しないとならないんだけど、俺の荷物ってどうなっただろう」
「あ、それはこっちにあるみたいです」
螢が個室の入り口近くの棚の中からビジネスバッグを取り出して見せた。
「着替えとか、要るものがあったら言ってください」
「本当に助かる。前に入院した時は職場が保証人になってくれたんだけど、それ以外は全部自分でしないとならなかったから……」
「前……」
「あ、ああ、前も刺されてね」
苦笑交じりに蓮川が言った。呆れられただろう。
螢には情けない所ばかりを見せている。
「知ってます」
螢も苦笑交じりに返してきた。
「そうだよな……恵から聞いてるだろう?」
「ええ、まぁ」
恵の話を聞いているなら、蓮川の行動もすべて聞いているだろうなと思おう。
恵は出来れば蓮川と螢を近づけたくはないだろう。それならば注意喚起として話していても不思議ではない。
長く付き合いがある分、蓮川の面倒臭さを一番知っているのも恵だからだ。
「あと腐れなくと思うんだが……」
少し言葉を濁したが、帰ってきた返事を聞いてそれは確信した。
「人間ですからね」
螢は真面目な顔で返してきた。
「好きになったら、どうしようもないんだそうですよ」
「……君もそんな感じ?」
どうしてそんなことを聞いてしまったのか、聞いてしまってから少し不味いことを聞いたなと思ったが、螢はそれに対してもきちんと答えてきた。
「俺は――ときめかないんです。自分の性癖があるから、Sの人と付き合うことも考えたけど、ただプレイがしたいだけの人とは上手くいかなくて」
本当に真面目な子なんだなと思う。
「俺が欲しいのは狂気だから」
「狂気……」
意外な答えだった。だけど、すぐにそうかと納得した。
螢はMなのだ。
蓮川とベクトルは違うが、同じように歪んだものを奥底に抱えている。
そう思ったら、すうっと熱が冷めた気がする。
それは興味が失せたと言うのではなくて、自分と同じものと向かい合うために冷静になったと言う感じ。
「俺は相手を狂わせてばかりだ」
狂気を求めるのは、自分の中に会う狂気が呼び合うから。
螢の中にもあるように、蓮川の中にも狂気がある。
蓮川の狂気は、相手の狂気と呼び合わず、相手が勝手に染まるばかり。
自嘲の笑みを浮かべ、自業自得を嚙みしめる。
「……しばらくは自重してくださいね。もっとも入院中なら何もできないと思いますが」
少し明るく螢が言って、その時の会話は終わりとなった。
腹の探り合いをするようなことは望んではいないのだから。
蓮川は入院中は大人しく過ごそうと思ったが、見舞いに来た女がいきなり跨ってきたのを受け入れて以来、いつものルーチンに戻ってしまった。
どこから聞きつけたのか見舞いに来る女、その女との行為を覗いていた看護師、病院スタッフ――個室の病室で、シャワー室で、深夜のトイレで、女が通り過ぎて行くのを蓮川はいつものように眺めていた。
こまめに見舞いに通ってくれている螢にも呆れられている。
「……あんまりやんちゃしないでくださいね。病院から追い出されても知りませんよ」
飽きれた響きを隠しもせずに言われてしまった。
「はははっ、そうだな。ここなら刺されてもすぐに手当てしてもらえそうだけど」
蓮川も笑って返すが、実際にはあまり笑えない。
女に刺されて入院するのはこれで二回目。しかも次がないとは言い切れない。
「蓮川さん、自分のモテっぷり自覚した方がいいですよ」
多分、何気なく言われた言葉。
モテるとはよく言われる。
だが、蓮川は自分がモテるとは思っていない。
「あれは、俺がモテてるんじゃなくて、都合のいい男を手に入れるために争ってるんだよ」
利用されているとまでは言わないが、女たちには女たちの目的があり、それに蓮川の意志は関係ない。
私を愛して、私を選んで、私のそばにいて、私だけのものになって。
そんな欲望の上澄みを利用しているのは承知している。
しかし、蓮川には自分を涸らし尽くすような存在が必要だった。
「あなたは――そこから脱出する気、あるんですか?」
螢が少し悲し気な顔で問うてきた。
蓮川のはまり込んでいる沼は深くてしつこい。
「……俺は沼の中が一番安全なんだよ」
狂ったルーチンワークを作り上げている自覚はあるが、狂気を手放したらそこにあるのはただの地獄。
「お互い、頭おかしいですよね」
螢が何故か同意するような言葉を返してきた。
「どこから狂っちゃったんですかね。俺、ときどき考えるんですけど、もう最初から何もかもおかしかったようにも思えて」
螢はMだ。蓮川のように誰かを加害するようなことはないが、自分への加害が抑えられないと病んでいる人間は多い。
そんなことはないとか、慰めは気軽には言えない。
「俺は――自分の根源を探ろうとは思わない。今をうまく生きて、死ぬまでの時間を乗り切るしかないと思っている」
過去のことを振り返り自分が何処で狂ったのか気になるのは、それを何とかして踏み外した道に戻りたいと思うからだ。
蓮川は狂ってしまった自分が元に戻るとは思っていない。
割れてしまったコップが元には戻らないように、蓮川の中の何かはすでに壊れていて、その破片をかき集めても、もうどうにもならない。
「いつか……」
螢は言いかけて、それ以上の言葉を紡がなかった。
気休めも希望もない。それ以上の言葉はないのだ。
―― 続
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます