第10話 愉快な男。
「ねぇ、聞いてるの?」
隣に座った女が
「あ? 悪い、聞いてない」
「もうっ、大事な話してるのに!」
大切な話とは言うが、女はその話をもう一度することもなく別の話題に移っていった。
(面倒臭いな)
セックスするだけなのに、どうしてこんな時間を事前に過ごさないとならないのか。
風俗ならばこんな面倒もないのだが、風俗は好き勝手出来ないのであまり行かない。
「でね、――が、すごく良かったの」
女は一人で勝手に何かを話している。
蓮川は、時折、手にしたグラスの中の温い水割りで喉を湿らせながら、愛想の良い笑みを浮かべて黙っている。
不毛な時間、不毛な行為、自分の衝動を抑えるためだけの行為。
「ちょっと、貴女、人の男に何してんのよ!」
女の話をBGMにしていたら、金切り声が割って入った。
顔を上げると見知った女がいた。
(なんだっけ、どっかの嬢だった気がする……)
名前は思い出せないが、数日前に関係を持った女だと思う。
「あら、メイさん、振られたって聞きましたけど? 未練がましく付きまとうなんて……」
「うるさいわね。さっさとどきなさい!」
「ちょっと!」
蓮川は、あぁ、この女の名前はメイだったかとぼんやりと思う。
メイが蓮川の隣に座っていた女の胸ぐらをつかみ、引きずりあげるように立たせた。
「――なのを、オーナーに話してもいいのよ」
そして、低い声で耳元で何か言うと、女はびくっと体を震わせて、顔色を変えた。
「わかったら、出て行きなさい」
メイが勝ち誇った声で命じると、女はカウンターに置かれたバッグを掴んで店を出て行った。
(さらに面倒臭くなった)
メイはこの辺りではそこそこ有名なS嬢だ。
店のトップランカーで、この界隈に顔が効く。
蓮川は面倒ごとに巻き込まれたくなくて、バーテンにチェックを頼んで店を出ようとした。
「待ってよ、
メイが蓮川の腕に縋りついてくる。
「離せ」
蓮川は取り付く島もない。
縋り付かれた腕を振り払い店を出る。
「待って!」
メイは諦めずに蓮川の隣に並んで歩きだす。
なんだかごちゃごちゃと話しているが、蓮川の頭には何一つ入ってこない。
(どうするかな……)
路地を歩いていると見知ったBARの看板が目に入った。
今日はもう興が削がれたので女は諦めたが、このまま帰るのも気が滅入る。
メイの事は完全に無視して、蓮川はBARの入り口をくぐった。
「ねぇ、夜!」
「俺、お前に名前で呼ばれる筋合いねぇんだけど」
そう言った途端、バシッと頬を打たれた。
夜、夜としつこく呼んでくるのにイラついて返した一言だったが、メイの気に障ったのだろう。
悔しそうに唇をかみしめて、それ以上は言葉もなく、メイは踵を返した。
その背後を見送って、思わずため息がこぼれた。
何がしたいのかよくわからない。
(何しに来たんだ?)
ちらりとそんなことを考えたが、次の瞬間にはメイの事は頭から消え去り、カウンターに座った。
「大丈夫ですか?」
バーテンから冷たいおしぼりを受け取る。
それを広げて頬にあてると、ひんやりとして痛みが和らいだ。
「すみません、騒がせて」
「いえ、うちは大丈夫ですよ。お気になさらず」
そう言って愛想笑いを浮かべるバーテンに、詫びの気持ちで少し高めのスコッチを注文した。
「こんばんは、蓮川さん。これ……」
背後からおずおずと声をかけられた。
振り返ると、この間、首を絞めてキスした
「君は……こんばんは。これ?」
螢は包みを差しだしてきた。
(湿布?)
包みには冷湿布と記載がある。
「冷湿布です。早く貼った方が治りが早いから」
そう言って、螢は軽く自分の頬を指さした。
「ありがとう。貰います」
ふっと心が和らいだ気がした。
蓮川は螢に礼を言って湿布を受け取る。
それから少し他愛ない話をした。
こうして見ていると、可愛い顔はしているが男で、特にこれと言って何かをかきたてるようなものは無い
(この子はMなんだな)
先日のショーと今の様子を見てそう確信する。
それに、多分、ゲイなのだろう。
本人は隠しているようだが、蓮川に対して仄かな好意を持っているのも感じる。
(これは食えるな)
そう思わせるものも感じる。
どちらにしろ好意を持たれているのだ。
(面倒臭い)
心のどこかでそう思う。
蓮川はゲイではないし、SとしてのプレイはMに応えてやるためのものではない。
だが、わざわざ冷湿布を持ってきて、何も求めずこうして雑談に応じている螢を素気無く拒否する必要までは感じない。
蓮川にだって性的な関係のない友人くらいいる。非常に少なくはあるが。
螢といるのはそう感じ悪くもないし、そう言うのは悪くないなと少し思った。
ただ、好意を示して恋人や肉体関係を望んだら、いつものように切り捨てればいいだけのことだから。
そんなことを考えていたら、蓮川に少し悪戯心のようなものが湧いた。
試してみようと言う気も少しあったかもしれない
縄をかけた時に肌が綺麗だったことを思い出し、不意にその頬に触れて見たくなったのもある。
「そうかなとは思っていたけど――」
蓮川は隣に座る螢に顔を寄せ、少し近すぎるくらいの距離で囁いた。
「君、Mなんだね」
一瞬、螢の身体が硬直した。
顔を覗き込むと血の気が引いて青褪めている。
「あ……」
声も震えている。
「綺麗な体をしていた」
首筋に残る蓮川の手形。首を絞めた時の名残。
蒸しタオルや手当によっては早く消えるソレが数日たっても残っている意味。
(それを問い詰めて虐めたら、いい声で鳴くんだろうか)
もう一歩踏み込んでみようかと思った、その時――。
「ご、ごめんなさいっ、俺、帰ります」
螢は慌てた様子で立ち上がり、店を足早に出て行ってしまった。
蓮川は呆然とその様子を見送ったのだが、自分の手から逃げて行くその鮮やかな様に思わず笑いがこぼれてしまった。
「はははっ、振られちゃったか」
「蓮川さんが振られるなんて珍しいですね」
あまりに楽し気に笑っていた所為か、普段はあまり声をかけてこないバーテンにまで声をかけられた。
「そうだね、振られちゃったなぁ」
嫌な気分はしていない。
そもそも、蓮川の場合は相手は誰でもいいので、次に連絡が取れそうな奴にシフトすればいいだけだ。女たちは蓮川を体のいい時間つぶしの相手程度にしか思っていない。面倒なことさえ言いださなければ、お互い相手は誰でもいいのだ。
だから、振られたところで何を思う事もないのだが、螢との違いは何だろうか?
愉快で、少し気分の良くなった蓮川は、もう一杯バーテンに注文して、その日は誰と会う約束もせずに帰途についたのだった。
蓮川はそんな良い気分を数日引きずって、何もない日々を過ごしていたらトラブルにあった。
昔、関わりのあった女にいきなり刺されたのだ。
「夜!」
いきなり名前を呼ばれた。
蓮川の名前は名前としては珍しいので呼ばれればすぐにわかる。
だから、ほぼ無条件で振り返ってしまった。
振り返ると、少し離れたところに女が立っていて、蓮川の顔を見るなり満面の笑顔になった。
「夜、会いたかったわ……」
会いたかったと言われたが、女が誰か思い出せない。
多分、過去に付き合いのあった誰かだろうが、そんな女は多すぎていちいち覚えていなかった。
「電話しても出てくれないし、すごく会いたかったのよ」
女はふらふらとした足取りで蓮川の方へ歩み寄ってくる。
電話をしても出ないと言う事は、しつこく電話されて着信拒否にしている誰かだろう。
(面倒臭い)
蓮川に会いたいと言う事は、蓮川に何か要求があると言う事だ。
それに応える義理もない。
「お前、誰? 何の用だ?」
顔に見覚えはあるけど、名前も何も覚えていない女。
そう突き付けた途端に、女は変貌した。
「夜っ!」
悲鳴のような叫び声をあげて女が突進してきた。
ドンッと体ごとぶつかられて、蓮川はよろける。
転ばないように踏みとどまろうとして、踏みとどまれなかった。
(え……?)
スローモーションのように女が手を振り上げ、もう一度ドンッと鈍い衝撃が走る。
(殴られたのか……?)
そう思ったが、そのまま体中から力が抜けて、蓮川は路上に倒れこんでしまった。
遠くで悲鳴が聞こえる。
誰かが蓮川の顔を覗き込んでいる。
(あ、刺されたのか……)
女の名前は最後まで思い出せなかった。
―― 続
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