第6話 誘惑する男。

 どんよりと暗い顔になったのを案じたのか、高邑たかむらは「けいさんをお呼びしましょうか?」と言った。

「いえ、大丈夫です。これは俺が解決するべき問題なので」

 けいはそう言って冷めてしまった紅茶を口にする。

 温くなってしまったが、香りもよく舌触りも良い美味しい紅茶だった。

「美味しい……」

 熱いうちに口にしていればもっと美味しかっただろう。

 物事にはなんにでも旬と言うものがあって、慎重になりすぎて躊躇っていればそれを逃しかねない。

いばらの道だってわかってるのに、そっちに行っちゃうのは性癖だからなんですかね?」

 Mだからしんどい方を選んでしまうのか?

 高邑は言葉に苦笑する。

「私たちは苦痛を快感と捉える認知の歪みがあるかもしれませんが、その歪みに従わなくても快感を得られることは知っています。だから、選ばないことも許されているのです。――とはいえ、そう自由にならないのもまた事実。身体の反応に振り回されないように調教を受ける前ならば、なおさらです」

「高邑さんは振り回されない?」

「恵さんに躾けていただいたので」

 精神的に安定したMを作り出すのは並み大抵の事ではない。

 信頼できるパートナーになる事は一朝一夕で出来るものではない。

 ましてもや、螢が立っているのはその手前。まだスタートラインにもついていない。

 スタートラインに立つことを躊躇っている螢だが、もうそれは何時立つかという差でしかないのかもしれない。

(俺は、スタートラインに立ちたいのか……)

 だから躊躇っているんだ。

「難敵だなぁ……」

 螢は思わずつぶやいてしまった。

「そうでしょうか?」

 それに対する高邑の答えは意外なものだった。

「最初から出来上がっているSはいません。性的サディズム障害という診断がついたからと言ってSMのSになれるわけではないのです」

「それは……」

「可能性があるとすれば、蓮川はすかわさんは性的サディズム障害かもしれませんが、それをSになってコントロールしようとしている」

 放っておけば快楽を求めて殺してしまうが、殺さないように性的なプレイとして加減し、最後は性交渉で殺意を紛らわす。

「その手助けであれば、きっと彼との関係の継続も見込めるのでは?」


 Mである螢が蓮川をSに育てる。


 SMではままあることだ。良きSが良きMを育てるだけではない。逆もまた然り。

「俺に出来るでしょうか……」

「そうではありません」

「っ!」

 そうだ、そんなに生半可なことではない。

 螢は姿勢を正してもう一度言った。

「俺が調教します」

「頑張ってください」

 高邑は唇の端を少しだけ上げて微笑んだ。



 高邑と話をして、とりあえずの覚悟は決まった。

 今までパートナーらしいパートナーを持ったこともないのに、いきなりS調教など出来るのだろうかとも思ったが、こういうことは意志の強さとブレないことが重要だ。

(とりあえず、どこから始めよう……)

 スタートラインに立つと決めた以上、どこに立つかが重要になる。

 多分、蓮川とお近づきになるのは難しくない。関係を持つのも簡単だろう。

 だけど、それでは駄目だ。そこで終わってしまう。

 螢には何もない。

 蓮川を取り巻く女たちのように魅力も、恵や高邑のように優れた技能も。

(でも、この身体は気に入っていたようだった)

 あのショーのステージで、螢は蓮川の劣情を引きずり出している。

 ならば餌はこの身体に決まりだ。

 あとはどうやって餌を取られずに、蓮川を調教するか――。

 そんなことを考えて、次に蓮川に会った時どうするかを繰り返しシミュレートしていたが、その次がなかなか訪れなかった。


 あれだけ頻繁に行き会っていた蓮川の姿を見かけなくなってから10日ほどたったころ、螢は不穏な噂を耳にした。

「メイさんって、メイさん?」

 clownでメイの噂を聞いた。

 店から飛んで、手配がかかっているらしい。

「行方不明だそうです。見かけたら知らせてほしいという人たちが言ってました」

 バーテンが少し声を潜めて言う。

 暗にメイに関わるなと言う警告だ。

 借金を残して逃げるのは一番筋が悪い。

 しかもメイは店の看板だった嬢だ。面子も立たない。

「そんな感じの人じゃなさそうだったけど……」

 蓮川の隣にいたメイは奇麗に着飾っていて金回りもよさそうだった。

 それがなぜ急に。

晴山はるやまさんは蓮川さんと仲が良さそうでしたので――」

「え?」

 急に蓮川の名が出て、ギョッとしてバーテンの顔を見てしまった。

「ああ、いえ。メイさんが最後に会っていたのが蓮川さんだという事で、聞きに言った人間がいたようなんですよ」

「あー……そうなんだ」

 螢はこの店とは別の店で蓮川とメイがトラブっているのも見た。

 あれだけ派手にやりあっていれば、誰の目に留まったかもわからない。

「俺、蓮川さんと仲良いって言っても、ちょっと面識がある程度なんで、多分、俺までは来ないんじゃないかな。そもそもメイさんと面識がないし」

「そうですね。でも、用心に越したことはないという事で」

 バーテンはそう言うと螢の前に新しいグラスを置いた。

 きゅうりのスライスを浮かべたジントニックは螢の好きなメニューだが、まだ頼んではいない。

「これって……?」

「この間、怒らせて帰らせてしまったから、もし店に来たらこれを一杯出してほしいと――蓮川さんから」

「あ……」

 首に残していた痕を見られて、Mなんだねと言われたあの日。

 蓮川を放り出して逃げた日。

(あの人、本当に人たらしなんだな……)

 天然なのか偽装なのかわからないが、蓮川は人の心の柔らかいところに触れるのが上手いと思う。

 鞭で与える痛みと解放の甘さのバランスのように、緩急をつけて接触されると心が戸惑う。

「蓮川さんがモテるの、わかる気がします」

 螢がそう言うと、バーテンは軽く微笑むだけで何も言わなかった。

(ちょっと面識がある程度とか言っちゃったけど、もう傍で見てる人にもバレるレベルで俺は近づいちゃってたんだな)

 おろおろと躊躇っていた自分が馬鹿らしく感じる。

(しかし、しばらく蓮川さんには会えそうにもないな……)

 メイを探す連中が蓮川を探しているという話が耳に入れば、トラブルを避けてしばらくこの街に来るのは控えるかもしれない。

 メイ自身ともトラブっていたようだし、それもあって避けているのかもしれない。

 蓮川の二度目はないと言う自己ルール。多分、メイも最初はそれを承諾したから関係が持てたのかもしれない。

 けれど、メイはその約束を破って関係の継続を望んだ。

 拒んだ蓮川と諦められないメイ。

(あれだけの美人だ、振られるなんて許せないのかも)

 店の人気S嬢だったメイはセックスにも自信があったかもしれない。

 そんな女のプライドを蓮川は一刀両断してしまったのではなかろうか。

(目に浮かぶ……)

 恵や高邑から聞いた限り、蓮川の乱行らんぎょうは魅力には依存しない。

(蓮川さんが求めているのは「自身の平穏」のはず)

 逆のパターンだが螢自身にも経験はある。

 通常な性行為ではなく、窒息しかけないと快感が得られないようになってその異常さに悩んだ。

 螢自身は去勢願望が強く、自分で性器を切り落としたい衝動に駆られることがある。

 その度に衝動と戦い続けてきた。

 SMプレイを覚えて、色々なプレイに分散させることで気持ちを保てているが、保てなくなったらどうなるのかわからない。

(この間は久々にヤバかったんだよな……)

 ショーの時に、蓮川に股間を握りしめられて、あの時、あのまま引きちぎられたいと感じていた。

 その後に首を絞められてキスして、完全に螢の体に快感が植え付けられた。

(俺も死にたいわけじゃない、蓮川さんだって殺したいわけじゃない)

 ただ、それでしか満足が得られないのだ。

 そこにぎりぎりまで近づけること。そして、それをしても大丈夫なこと。

(俺はそれに耐えきって、殺されないように、死にたくならないように自分をコントロールする)

 SもMもその衝動は激しい。

 それをきちんと制御して行くためにも、蓮川のような対処療法ではいつか破綻する。

(あの人に必要なのは多分――だ)

 螢の脳裏にいろいろな単語が思い浮かぶ。

 支え、献身、感情、心――はっきりとこれと言う言葉が思いつかないが、きっと内部の柔らかい所に触れるようなこと。

(慎重にいかなきゃな……)

 センシティブな部分に足を踏み入れることは難しい。

 独りよがりではいけない。

(とは言え……どこから始めるべきか……)

 螢だって過去に恋人やパートナーがいなかったわけではない。乏しいながらも経験はある。

 だが、それがすべてうまくいかなかったから、今こうして一人でいるのだ。

 すべてが螢の失敗だったわけではないけれど、勢いや情熱だけで何とかなるものではないことも知っている。

「頑張らなきゃなぁ……」

 思わず言葉が口からこぼれてしまった。

 慌てて、ここが店であることを思い出し、バーテンの方を見たが、いきなりのつぶやきにもバーテンは聞こえないふりをしてくれていたのだった。



 脳内シミュレーションだけでは現実は何も進まない。

 まずは蓮川と接触して関係性を持つことだと、螢は蓮川の行きそうな店を毎夜通い歩いた。

 しかし、先日のメイの一件もあってか、蓮川の姿を見かけることはなかった。

 恵に聞けば蓮川の連絡先くらいすぐにわかるのだが、螢はあまりこの件で恵を頼りたくなかった。

 今、蓮川が微妙な立場にあるという事もあるが、多分、恵は螢が蓮川に近づくことには反対なのではないかと思ったからだ。

 高邑は背を押してくれたが、そもそも、恵は蓮川を「ヤリチン男」と呼んで快くは思っていない。

 蓮川に関わることは恵の迷惑になるかもしれない。

 恵は大切な友人だ。こんなことで迷惑はかけられない。

 なので、螢は単身で動き回ることしかできなかった。

 これがトラブルのもとになってしまうとは思いもよらなかったのだが――。


 そんな風にうろうろとしていたら、螢の自宅マンションのポストに一通の手紙が投函されていた。

「誰?」

 ありふれた白封筒、あて先はKEI HARUYAMAとなっている。

 住所も消印もリターンアドレスもない。ここへ直接投函したようだ。

(嫌な予感がする)

 こんなものは見る義理はない。すぐに捨ててしまうべきだ。

 しかし見ないで捨てると言うのは不安も残る。

(何か重要なことが書かれていたら?)

 開いてみてただのDMならそれでいい。

 螢はその場で封を切った。

「何、これ……」

 中には一枚の写真。

 半裸で縛られた螢の写真。

 先日のショーの写真だった。

「マジかよ……」

 ハプバーの中では撮影など一切禁止だ。

 荷物はすべてクロークに預けられ、スマホなども持ち込めない。

 カメラに関してはかなり神経質にチェックしているはずだから、こんな写真が撮られるはずがない。

 螢は自室に戻り、写真をスキャナーで取り込むと、写真加工アプリでその写真を解析してみた。

「やっぱり、合成」

 よくできているが、調べればわかる程度の合成だった。

 服装も色はあっているが、よく見ると細かなところが違う。

 しかし、これだけに似せているところを見ると、あの日店にいた人間には違いないだろう。

 あの日、あの店にいた人間で螢と面識があったのは蓮川だけだった。

 という事は、螢の知らない人間が、この写真を作り、住所を調べ、わざわざ投函しに来たという事。

「……脅迫?」

 封筒にはこの写真以外何も入っていなかった。

 犯人の意図は正確にはわからないが、ポジティブな意味ではないだろう。

「何かをしたら、この写真をお前の周囲にばらまく的な?」

 何か螢にされたくないこと。

 あの日の写真を選んだこと。

「蓮川さん絡み……だよなぁ……」

 大方、蓮川に近づくな。などではないだろうか。

 そうなると、これを送ってきた人物は、過去、もしくは今、蓮川と関係のある者。

「……メイさん」

 メイは蓮川と螢があの店以外でも会っていることを知っている。

 ショーで迷わず螢を呼んだところを見たのではないだろうか?

 今の相手は螢だと思っているかもしれない。

 メイの目的は、ライバル(?)を蹴落とすことだろう。

「なんか……ヤバいかも?」

 螢のことはではないだろうか?

 店を飛んだメイは、螢の後を付け回していたのではなく、蓮川を付け回しているうちに螢のことを知ったのではないだろうか。

 多分、メイは店から逃げて、ずっと蓮川を追いかけているのだろう。

「ストーカー……」

 螢に写真を送ると言う行動をしている以上、メイは相当追い詰められていると思われる。

 ただ黙って付きまとう人間と、付きまといで得た情報をもとに動いてしまう人間の差は大きい。

 後者は何かあれば行動を起こすことへのハードルが低い。

 例えばストーカー殺人のようなことを起こすのは後者だ。

「これって、もう、ヤバいかも」

 螢はスマホを取り出すと、ある人に電話をかけ始めた。


―― 続

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