第5話 救われない男。
あのショーの後、次に
バシッと乾いた音がして、思わずその音の方を見ると蓮川がメイから平手打ちをくらっていた。
(あー……痛そう)
蓮川はドア近くに立っていて、螢はカウンターの奥の方に座っていた。
そこまであの音が届くと言うのは、相当勢いよく殴った証拠だった。
「大丈夫ですか?」
カウンターに座った蓮川にバーテンがおしぼりを渡す。
「すみません、騒がせて」
「いえ、うちは大丈夫ですよ。お気になさらず」
そんな会話が聞こえて、蓮川は何か飲み物を頼んだようだった。
おしぼりを頬にあてているが、あれは後で腫れるかもしれない。
螢は自分が冷湿布を持っていることを思い出した。
蓮川に打たれた尻に貼るために買った残りがバッグの中にあるはずだ。
ごそごそと鞄を漁ると、まだ開封していないパックが一つはこの中に残っている。
思いきって蓮川に声をかけることにした。
「こんばんは、蓮川さん。これ……」
「君は……こんばんは。これ?」
「冷湿布です。早く貼った方が治りが早いから」
そう言って、軽く自分の頬を指さした。
「ありがとう。貰います」
蓮川はおしぼりを外して、頭を下げて礼を言った。
「貼りましょうか?」
「大丈夫です。場所はわかるから」
螢が湿布のパックを渡すと、蓮川は封を切って一枚取り出す。
そして自分の頬に一枚あてると皴もなくきれいに貼り付けた。
「……内出血してますね」
蓮川の頬骨の辺りにスッと横に線が入るように赤い跡が見えた。
「彼女、指輪をしていたんで、それが当たったんだと思う」
「あー、痛いですね、それ」
「俺は痛みには鈍い方なんで、大丈夫です」
Sは自分の痛みに鈍い者も多い。
だからSになるのだとは言わないが、痛みへの探求心のきっかけくらいにはなっているのかもしれない。
「でも、痛いもんは痛いでしょう? 俺だって好きだけど、痛いものは痛いです」
好きだけどという言葉に蓮川がくすっと笑った。
この店では自分がMであることは公言していないが、蓮川は個人的にそれを知っているので気にせず話す。
「君にはみっともないところを見せてばかりだ」
「噂の激モテ男が振られるところは確かに珍しいですね」
揶揄うように返すと、蓮川はさらに笑った。
(こんな風に笑うんだ)
今まで一度も見たことがない顔だ。
気だるげでもない、無関心でもない、話に楽しそうに笑っている。
「蓮川さん、笑うんですね」
「……楽しければね」
バーテンがそっと蓮川の前にグラスを置くのと一緒に、螢の分のグラスも移動してくれた。
それでやっと立ち話をしていたことに気がつく。
「すみません」
今度は螢が謝って、蓮川の隣に座った。
今日は店も空いているので、隣席とは程よく離れている。
「どうぞ、今日は君に会えてよかった。礼を言わなくちゃと思ってたんだ」
「礼? 湿布の?」
「いや、先日の店で――」
「あ、ああっ、この間の」
お互い言葉にはせずにごまかした。
「あははっ、別にお礼を言われるようなことはないです。むしろ俺にとってはご褒美? みたいなもんだし」
「……首、跡が残っちゃったね」
「あっ」
するっと自然に首筋に触れられた。
その柔らかな感触に、螢は色々と思い出してしまった。
「ごめん」
「い、いやっ、そのっ、謝らないでくださいっ!」
わたわたと目の前で手を振って、大丈夫と繰り返したが、蓮川はじっと首元から視線を逸らさない。
鏡で毎日見ているが、まだ指の跡が分かる程度には跡が残っている。
「ここも湿布貼っとけばよかった……」
螢は恥ずかしさで顔が真っ赤になるのを感じた。
蓮川はSだ。この程度の傷がどのくらいの時間で消えるのか熟知している。
もちろん、治療をした時と無治療の時の差も。
螢が何もせずにこの後を楽しんでいたこともバレている。
「そうかなとは思っていたけど――」
蓮川が耳元で小さな声で囁いた。
「君、Mなんだね」
ぞわっとした。
体中の毛が総毛立つような強烈な刺激。
頭の中にも鮮明に記憶がよみがえる。
ステージの上で囁かれた声と同じ。
バックステージで触れられた手を同じ体温。
「あ……」
蓮川の顔が近くにある。
「綺麗な体をしていた」
あの時みたいに声が近い。
こめかみが脈打つ。
体温が上がる。
(これは……やばい)
螢は蓮川の首絞めを繰り返し思い出していたことを悔やんだ。
あの時を繰り返し思い出すことで、それが染みついてしまった。
(これじゃ、犬だ)
蓮川にはそんなこともバレている。
でなければ、こんな近くであの時を思い出させるような声で囁きはしないだろう。
(このままじゃ――)
二度目のない男。不毛な男。
どんなにテクニックがあっても、螢はそれだけでは我慢が出来ない。
自分のものにならない男に溺れることほど哀れなことはない。
「ご、ごめんなさいっ、俺、帰ります」
螢はそう言うと同時に立ち上がり、バーテンに一万円札を渡した。
「これっ、俺と蓮川さんの分。お釣りはいいから」
慌ててドアへと向かう。
放り出された蓮川がどんな顔をしているか一瞬気になったが、それを見返す勇気はなかった。
逃げるように店を出て、足早に駅の方へと向かう途中、見知った顔に呼び止められた。
「
足を止めると、人ごみの中に頭一つ飛び出た黒い男がこちらを見ていた。
「
恵のパートナーの高邑だった。
近くに恵がいる様子はなく、聞けば仕事帰りと言う事だった。
「少しお時間はありますか?」
高邑から誘われた。
高邑は恵の傍にいて、すべてを恵に捧げているような人だと思っていたので、彼女の居ないところで声をかけられたことすら意外だった。
「あ、はい。大丈夫です。時間あります」
螢が慌てて返事をすると、高邑は少しだけ微笑んで「では、こちらへ」とだけ言って歩き始めた。
高邑に連れられて来たのは少し奥まった雑居ビルの地下にある喫茶店だった。
「こんなところにお店があったんですね」
地下にあるのに陰鬱な感じはなく、程よく落ち着いた薄暗さに包まれて上品な感じの店内だ。
シートはすべて革張りのソファで座り心地も良い。
メニューはシンプルでコーヒーと紅茶が数種類ずつあるだけで、他にはフードもソフトドリンクもない。
高邑はマンデリンを頼み、螢はウバのミルクティーを頼む。
「飲み物の香りを十分に楽しむために他のメニューは何も置いてないそうです」
高邑がおしぼりで手を拭きながらそう言った。
その顔を見ても何を考えているのかはわからない。
恵の隣にいるときもそうだが、高邑は人形のように自分というものを全く見せない。
(どうして、俺を誘ったんだろう)
声をかけられたのも驚きだった。
恵以外に興味が無いのだと思っていた。
それか、螢が恵の友人であるから、恵への延長線上で声をかけたのか。
机の上に湯気の立つカップが2脚置かれる。
テーブルも程よく距離があり、互いの飲み物の香りは干渉しない。
(すごく凝った店だな……なんだか高邑さんらしい)
螢も高邑と言う男をよく知るわけではないが、恵と出会った頃からなのでそこそこの面識はある。
姿勢正しく、美しい所作で、いつも恵の一歩後ろにいる。
今、目の前でコーヒーを飲む姿も絵になっている。
恵の好みだと言うテーラーで仕立てた細身のスーツに、髪は軽く後ろに撫でつけ、メガネは銀色のスクエア。
彫が深く、一見ハーフのようにも見えるが、生粋の日本人だと言う。
(この人もMなんだよな)
実は高邑は螢の憧れのMだ。
整い均等のとれた身体に、美しい所作、恵がショーに出た時に縛られた所を見たが、苦痛に顔を歪める姿も美しいと思った。
そんな風になりたいと螢は思っている。
高邑のようにだけでなく、恵のような一人だけを見てくれるパートナーも欲しい。
「晴山さん」
「は、はいっ」
ぼんやりと考え込んでしまったようで、高邑に声をかけられてハッと我に返る。
「すみません、ぼんやりしてしまって」
「……蓮川さんの事ですか?」
「え?」
カチャンと小さな音を立てて、カップがソーサーに戻される。
高邑は真っ直ぐに螢を見つめて言った。
「蓮川さんを助けたいですか?」
「助ける?」
「はい」
どういう意味だろう。
確かに蓮川の事は気になっていたが、助けるとかそう言う感じではないと思う――多分。
「私も蓮川さんのことは存じ上げていますが、彼は悪人ではないが歪みがひどすぎる」
歪みがひどいという言葉を聞いて、なんだかしっくりときた。
悪人ではない。悪い人ではない。でも良い人でもない。不健康な精神の歪みがある。
「Sとしての手腕は確かですが、それは彼が相手を思い行う事ではなく、自分を救済するためだけに制御し続けているだけの事」
「…………」
「彼はとても危険です」
「彼は……蓮川さんは、高邑さんから見て救えると思いますか?」
「いいえ」
高邑の返事は即答だった。
「抑々、私は彼を救うつもりも関わるつもりもない。恵さんを傷つけるなら許さないと警戒しているだけの相手です」
「……ですよね」
その答えには納得だ。
恵は蓮川のような男を相手にしないだろうが、居ればそれに巻き込まれる危険もある。
「前の事ですが、恵さんがショーを辞めてすぐくらいの時に、彼が
高邑は再びカップに口をつけて一口喉を湿らす。
「彼女のパートナーは私ですが、その時は先方の要望もあり店の女の子たちを相手にしなくてはならなかった」
それは恵はすごく嫌がっただろう。
恵は高邑以外の相手にプレイをしたくなくて年々も続けてきたショーをやめたのだ。
海外にも呼ばれて人気の緊縛師だった恵が辞めた時は惜しむ声も多かった。
高邑をパートナーにしてショーを続けてはという話もあったが、恵は「私以外の人間に見せたくない」と言って断った。
そんな恵が自分のパートナーでもない女を相手にステージに上がったのだと言う。
「……しんどいですね」
「恵さんが苦しむようなことは私もしたくありませんが、出ると判断したのは恵さんなので、私はそれに従いました」
そして、ステージに上がる恵をずっとステージ裏で待ち続けたのだと言う。
彼女の声と音で何をしているのかはわかるが、決して互いの姿が見えない場所で。
(それは恵さんの気づかいだ)
恵は高邑をステージに伴わずに来ることもできた。きっとステージを見に来るなと命じれば高邑はそれを守っただろう。
だが、恵はそれをしなかった。
疚しいところはないのだと証明するために伴い、しかし疑似的であれその姿を見て高邑が苦しまないように裏で見えないようにした。
恵は常にパートナーの安定と安らぎを第一に考える。
彼女が高邑に与える苦痛はすべて、それを望む彼のために与えるものだ。
美しい所作や綺麗な姿勢を保たせているのも、常に恵を高邑に意識させるためだ。
恵という主に常に添われているのだと感じさせるために。
「……いいな」
思わず本音がこぼれた。
そんな風に日常の隅々まで縛られて、それに尽くしたらどんなに幸せだろう。
「私はパートナーに恵まれました」
「はい……」
「ですが、蓮川さんは違う」
その通りだ。彼の与える痛みはすべて彼の快楽のためのものだ。
「彼はここに居て辛くないのかと私に聞いた」
「…………」
「私はいいえと答えましたが、彼はよくわかってはいないようでした」
螢もきっと蓮川にはわからないだろうと思う。
女の子たちの隣に座って無表情無関心な彼を何度も見てきた。
蓮川は相手の女の子たちのためになんてことは考えない。そもそも興味がない。
その日に彼の欲求が満たせる、ストレスを解消できる相手でいてくれればいいだけ。
「だから、二度目はないと言うルール」
「そうです」
高邑は空になったカップをソーサーに戻した。
チンと澄んだ音が軽く響く。
それはすべて高邑が話し終わった合図のようにも聞こえた。
そして、対照的に中身が全く減らずに冷めきってしまった螢のカップは今の螢の状態を表しているようにも見えた。
あの日、蓮川といて熱く滾っていたものが、時間が経って冷めて見ると、心の中に重く淀んでいる。
螢の心に引っかかり続けているものはそれだ。
自分のために、自分の事しか眼中にない男。
「恵さんは……」
「はい?」
「晴山さんならば助けられるかもしれないと言っていました」
「え?」
予想外の言葉に、螢は目を
蓮川を螢が助ける?
そんなことが可能なのだろうか?
彼の周りにいる女性たちはみな華やかで魅力的で自信にあふれている。
そんな彼女たちですら太刀打ちできないのに?
「……俺は……」
それに人を助けるなんて
そんな風に逃げ腰にもなる。
今のままでもいいんじゃないか? 欲を出さなければこのままでいられる。
今の状態はそんなに悪い関係じゃない。
clownで螢の話を聞いて笑っていた蓮川の笑顔を思い出す。
今のまま、少しだけ近くて、ときどき気持ちをときめかせるだけの存在。
手を出してしまったら、二度目は無いのだから。
(ああ……そうか)
螢は蓮川を失うのが怖いと思っている。
(俺、蓮川さんの事、好きなのか……)
それは少し絶望的な気分だった。
―― 続
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