第27話 蝋の翼
「っう、ぐぅ、ゔぅ」
何度目か数える事は諦めた。茶色であった吐瀉物は今や何もない液体と化し、地面に溶け込んでいく。
コクピットの内部でも盛大にぶちかました秀は、ラーマやその他の整備班の助けを得られなかったら、永遠に閉鎖空間に閉じこもっていたかもしれなかった。
しかしプロメテオの脚元で頭を上げられない彼に対し、現実は容赦ない。
「女将さん。撤収します」
「構わないのかい」
「サイバー班総出でハッキングを試みましたが、成果は芳しくないようです。搭乗者云々は関係ないかと」
「……ま、いいさね。私としてはもう少し踏ん張って欲しかった。これでは稼働データもクソもありゃしない」
「暫くは我々が保管する事は、確約済みです。急ぎの補修も改修もないのだから、じっくり検証してみてはどうです」
「そうするさ。ラーマは置いていくかい」
「ええ」
「あいよ。よーし、撤収だ!トレーラー回せ、コクピットは開けたままにしておけ!臭いがこもって後始末が面倒になるよ!」
「女将さん、おっさんは構わんのですかい?」
「構わないんだと。まぁ、千恵の奴がやる事なんか知るか。あたしらにはあたしらの仕事があるだろ」
「アイサー!トレーラー移動しろ。バックオーライバックオーライ」
大型のトレーラーが隆起した舗装路に入ってきた。整備班の面々が息のあったコンビネーションでプロメテオの両肩にハンガーを引っかけていく中、千恵は秀の頭上まで近づく。
「出すだけ出しておいた方がいいでしょうね
。パトカーの車内にやったら、流石に清掃代を請求しなくてはいけませんから」
何気ない一言であったが、当人の心をくすぐるには十分だったのかもしれなかった。目を見開いた秀が顔を上げると、脚を僅かに開いて立つ、美麗の女性警官がそこにはいる。
「……」
「何でしょうか?その目は」
「……」
「勘違いなさらないように。この手の体験は、警察限らず消防や自衛隊、人命を扱うあらゆる業界で敢行されます」
「……」
「多いからですよ。己が他人よりも抜きん出ていると自惚れる、自意識過剰なヒーロー様はね。本人は無意識を被っているが、腹の奥底では英雄譚が語り継がれている」
秀の目の前の砂地が、陽炎のようにゆらめき出した。
「GDMに乗るから、親子の監視を減らしてくれーーですか。いいですね、そのお年で優しい親御さんをお待ちになって。息子の無自覚な自慰の為に使われても、何も文句は言わないのだから」
「じ、自慰って何ですか」
「自慰は自慰でしょう。マスターベーション、ご存じありません事?」
「警官が言って良いセリフじゃない」
「公然猥褻だと宣いますか。言われれば確かに卑猥な言葉でしょうが、しかし意味合いとしてこれ以上相応しい表現は無いと、私は考えますね」
「バカにして」
「馬鹿にはしていませんよ。ですが貴方の行為そのものは、貴方自らの錯覚が後押ししている点は事実でしょう。つまり公共ないしは大多数の要望無しに、勝手な自主的活動を選択した訳ですからね」
「それは、そう……」
「ならばマスターベーションに他なりません。需要を無視した一方的な供給など、身勝手の言葉通り」
「な、な……」
反論したい。だが千恵の言葉に対処できる知恵も討論術も持ち合わせていない秀は、彼女の残した台詞が頭に残って離れなかった。
「あのGDMは、検査の段階にあるから保全しているだけです。事件の事が済み次第解体し、処分される程度の価値ですよ」
「そんな……」
「そんな?貴方が甘い態度を示すからです。自分から言い出したなら、せめて腹を括った姿を偽りでも良いから表せば良いものの、現実は子供の癇癪に等しい」
「あ、な……」
「今日はもうお帰り下さい。貴方の要望である監視の度合いについては、おって連絡を送ります」
「まってください、あの、おれ」
「警察はヒーローでは無い。ましてや、ヒーローに憧れる者は邪魔です」
千恵は振り向かずに、その場を離れた。茫然自失とする秀は、膝をついたまま動く事すら出来ない。
整備班の面々が心配そうな視線を彼に向けるが、彼等を統括する野村美智子整備課長の命令が飛び、各々トレーラーに乗り込んだ。
「あたしらは行くよ」
「私はラーマと遅れて帰舎します。お先に」
「ああそうかい、千恵。でもね、手心は加えてやりな」
「彼次第ですよ」
香草煙草を指で弄ぶ千恵に溜息をついて、美智子が運転席に姿を消す。エンジン音と共に跡地から連れ去られるプロメテオを、秀は手を伸ばすことも無く見ているだけだった。
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