第23話 徒労なる帰宅
どうやって帰宅したのか、秀は全く覚えていなかった。自宅に居ると自覚したのは二日経った朝、普段と同じ朝食を摂った時である。
六枚切りのローストパンの舌触りでもって、彼は日常へと帰還した。
事件は大々的に報じられている。【ジェネラル・ノアショック】と呼称される一連の出来事は、先ず日本における一年ぶりの大規模テロ攻撃と認められた。
犠牲者は民間人だけでも五十人はくだらない数を記録し、尚増え続けている。数には秀の同級生も数多く含まれており、生存者の方が確認し易かった。
それでも日常は動いている。
「どうにもなぁ。面倒だよまったく。なぁ母さん」
「ええ、そうね。最近だと休みを取らせてれるのが当たり前だとばかり」
「そこはな。出社するタイミングを逃すのは理解できる。会社判断は妥当だよ」
オレンジジュースを飲みながら、秀は後十何分後の行動を決めかねた。彼が勤める工場でも、今回の騒動で被害者は多数出ている。研修に参加しただけでなく、何故だか営業の打ち合わせで訪れた人も居たそうだ。
騒動後の問診を終えて自宅待機を命じられてはいたものの、問題は秀の肉体的健康状態はすこぶる良好な点だ。
「秀、どうする?」
「うーん。行こうかな……」
「無理しなくても良いのよ」
「でも行かないのも気持ち悪いし。健康面に問題なかったら出社しろって言われてるし」
「なら行け」
「まぁ、そうねぇ」
「父さんからしたら、出社する以外ないな。出勤出来るのなら、出ない理由がない」
「うん……」
プロジェクターがリビングの白壁にマップを投影した。秀の自宅から工場に至るまでの経路が、三色の矢印によって示されている。
「あー、お勧めは?」
『Aルートを推奨』
「あまり人と会いたく無いんだけど。特にまぁ、同僚には」
【Bルートを推奨。現在時刻における通勤・通学者の推移から推測】
「じゃぁ、Bルートにしようかな。残りは」
【Cルートの判断基準は、通勤時における人気鑑賞地域。近隣にある緑黄資源と河川を探索可能】
「BルートB」
【カウントダウン開始。残り時間25:00】
無機質なストップウォッチがマップに追加された。
「これ、何もイジってないんだよね?」
「ねぇ。こんなに流暢なAI、秀のメンタルサポートAIではあり得ないわ」
「だが警察の人は何も言ってこなかったぞ。何かあったら壊しはしないだろうが、返しもしないんじゃないか」
「そうだとしても、ねぇ」
【返答。私は彼に従う、謂わば従者。意図も意志もなく、彼に付き従うのみ』 】
「ねぇ……。悪い子?ではないんだろうけど……」
メンタルサポートAIにあるまじき流暢な音声が、八代家を困惑させる。事件から帰宅した秀が驚かされた一番の出来事は、この身近な機械の突然変異であった。
名称も形式番号だけだった以前と違い、【PDR】なる単語を与えられている。無論秀は全く関与しておらず、PDR本体も由来については知り得ていなかった。
【歯のブラッシングの促進を推奨。一ヶ月間の統計推測に基づき、予定時刻を2分超過する可能性80%計測】
「あー、分かりました分かりましたようるさいな」
【円滑なる就労生活の支援を目的とした、根拠ある提案。拒否反応を示す論理的推論は困難と断定】
「やりますっての。ったく母さんよりうるさい母さんだ」
口を濯いだ彼がタオルで顔を拭くと、洗面鏡の下部に映るカウントダウンが、かなり限界に近かった。
近代的装置の有り難みを嫌というほど体感した秀が、呆れ返った顔つきで薄い紺色の制服シャツを着た、正にその時だった。
「はい、八代ですが。はい?」
玄関口で来客の応対をしていた母親の声が、少しばかり困惑している。秀は絶滅危惧種の押しかけ訪問か自動配達ロボの誤配達だと気にも留めず、並べてある革靴を履こうとした。
「ええ、秀は息子です。はい、今家にはいますが。あの、ええ出社する」
いざ玄関に向かってみると、玄関先には来客がいる。スーツ姿の男女は母親越しに秀を見つけると、目を一瞬見開いた。
「八代秀君ですかな」
「はぁ……」
「出社するつもりでしたかな」
「はぁ……まぁ……」
「残念ながら今日も休日になります」
初め声を掛けてきた男性を無視して、女性が畳み掛ける。呆気に囚われる八代家の面々を前にして、彼女は堂々と玄関に立っていた。
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