第125話 楽しい香港、愉快な香港

今にも降り出しそうな曇天の空、時折遠くの雲間からパチパチと雷の光が見える。

日本から失踪した貴子が降り立ったのは香港の啓徳空港だった。今でこそ近代化が進む香港だがこの当時、空港の至近にあった九龍地区はまさに魔窟と呼べる街だった。


「加藤!」


空港のロビー、呼ばれた自分の名に振り向くと、年の頃は30歳位か、随分上等そうな黒のスーツを着た強面の男が手を振っていた、チラリと見える手首には金の時計と龍の入れ墨が覗いてる、左手に持つ黒檀の杖はおそらく仕込み杖だ。


ヤン、お前が直々にお出迎えとは、三合会も人手不足か?」


「いきなりご挨拶だな、頭の直々の命令だからな、俺が来るのが妥当だろ、それより聞いてくれよ俺この前結婚したんだぜ、かみさんの写真見るか23でかなり美人だぞ!」


「貴様、殺すぞ」


「な、何怒ってるんだよ、俺なんか悪い事したか?」


「うるさい、それより車は?」


「外で待たせてる、それにしてもしばらく合わないうちに随分と印象が変ったな、凄え綺麗になった、白衣を着てなきゃわかんなかったぜ」


貴子は陽の言葉には興味がないように無視すると、明後日の方向にツカツカと一人歩き出した。


「お、おい、待てよそっちじゃねえ、こっちだこっち」





ズワギャアアアアアア!


ブロロロ


街の上空スレスレに飛ぶジェット機が轟音をたてて通り過ぎるのを見上げながら、車体に九つの星印が付いた黒塗りの縦目のメルセデスが街の奥、九龍城砦に進んで行く。

この車の通行を遮るような馬鹿はこの街では生きて行けない、皆早足で道を空けると頭を下げる者までいた、その光景を貴子がつまらなさそうに後部座席から見つめている。

建築基準法なんてガン無視のつぎはぎだらけのペンシルビルが隙間無くひしめいて乱立している、あまり光が差し込まない所為か薄暗い印象を受ける街には実に多くの人々が集まって生活している、当時九龍城砦には26000㎡の敷地に約4万の人々が暮らしておりその人口密度は半端ない。


車は街の中心、そこだけ別空間のように開けた箱庭のような場所でブレーキを踏んだ、雑多なビルが城壁のように取囲み、中の建物を守ってるようにも見える。

車を降りた貴子と陽が真っ赤な門に近づくと両脇に立っていた男達が深々と一礼して、重そうな扉を開く。


赤を基調とした中華風の屋敷の中は防音がしっかりしているのか驚く程静かだ、街の喧騒と切り離され、貴子と陽の靴音だけが地下に続く長い廊下にカツカツと木霊する。前を歩く陽の足が最奥、龍の彫刻が施された重厚そうな扉の前で止まり、真剣な表情で声をかける。


「李大老、加藤博士をお連れしました」


「入れ」


中からの返事を聞いて陽が扉を開くと同時、中からゆったりとした二胡のが聞こえてくる、二本の弦から奏でられる優しい音色が二人を包み込んで来た。


部屋の中にいたのは二人、一人は丈の長い長袍(チャンパオ)と呼ばれる漢服に身を包んだ中背の老人と、もう一人はその隣で二胡を奏でる長身のチャイナドレスの女性だ、貴子が部屋の中に足を踏み入れると長椅子に座っていた老人が立ち上がって貴子を迎えた。

この老人、現在香港の48ある犯罪組織のトップにいる男である、秘密結社三合会、その影響力は中国大陸やアジア圏だけでなく、欧州、北米、南アフリカ、オーストラリアにまで及び、世界を裏から動かすことが出来る人物の一人だ。



「おお、よく来てくれたなドクター加藤、ようこそ九龍城へ歓迎するぞ」


老人が深い皺をほころばせ笑顔を見せる、その顔は孫との再会を喜ぶ祖父のようだった。この笑顔を組織の者が見れば驚くこと請け合いのとてもレアな態度である。

そんな李大老に貴子はニヤリとえみを浮かべる。


「やあ、李大老、元気そうでなにより、しばらく厄介になる」


「何を水臭い、だが連絡を受けた時は吃驚したぞ、いきなり日本を離れてこっちで働いてくれるなどと、どう言う風の吹き回しだ、日本で何かあったのか?」


「あら貴方、女性に野暮な事聞くもんじゃありませんよ、ねえ、貴子さん」


李大老と貴子の会話に二胡を奏でていた女性が割り込んで来た、妖艶とも言える切れ長の瞳で貴子を観察するように見つめる。この女性、李花蓮りかれんと言い李大老の妻である、40は過ぎているはずだがその容姿は未だに衰えを知らず、李大老の心をしっかり掴み溺愛されている。


「李太太 (奥さん)」


貴子が声をかけて来た花蓮の方に顔を向けた。


「お久しぶりね貴子さん、しばらく見ないうちに随分お洒落になって、その髪型良く似合っているわよ」


「はっはっはっ、花蓮の言うとおり確かに素材は良かったがドクター加藤はそう言うお洒落には無頓着だったからな、まあ座りたまえ、今酒を用意させよう」


李大老がカチンとヤンに向けて左手の指を鳴らす、金属質な音から義手と思われるがその動きは本物の手となんら遜色はない、よく見れば老人の右足も精巧な義足だった。

貴子は老人の動きを見て満足げに頷いた。


「動作に問題は無いようだな」


「ああ、ドクター加藤の作ってくれた手足のおかげで何不自由なく暮らせているよ」


「李大老、席の用意が出来ました」







「「「乾杯」」」


「20年物の紹興酒だ、ドクター加藤を迎えるにはふさわしい祝い酒だろう」


トロリとした口当たりと独特の甘さに思わず唸る、若い紹興酒ではこの味は出ない、熟成された旨味を感じる、普段はもっと度数の高いウオッカを好む貴子も素直に旨いと感じた。


見事な螺鈿細工の卓を囲んで李夫妻と貴子が酒を酌み交わす、陽は李大老の後ろで直立の姿勢を取って崩さない。

李花蓮が大老と会話する貴子をじっと見つめながら、そっと口の端を釣り上げ笑みを浮かべる。



(何、ちょっと見ないうちになんて変り様、以前会った時も天才独特の奇天烈さはあったけど、今その身体からほとばしる暗い炎はな〜に、嫉妬、怒り、狂おしい程の狂気を感じるわ、なんて美しいのでしょう、この私の心をここまで惹きつけるなんていけない娘だわ、これは夫に渡すわけにはいかないわね)



貴子が李大老の前に1枚の光輝くディスクを置いた、この時代では貴子の開発したPCでないと読む事が出来ない大容量のデータディスクだ。


「李大老、頼まれていた海上施設の設計図が出来たので渡しておくぞ、それにしてもこんな島みたいに巨大な施設どうするんだ?」


「なんと、もう出来たのか!早いな、設計にもう5年はかかると思っていたぞ、これで我が組織も世界に名乗りを上げる計画を繰り上げる事が出来る」


「ふ〜ん、私のラボに1人優秀なエンジニアがいる、そいつにも建設を手伝わせよう」


「ドクター加藤の推薦なら是非も無い、非常に助かる、で、ドクター加藤はこれからどう動くのかね」


「さしあたって、大老の持つ華僑のネットワークを通じて世界中を回りたい、頼めるか」


ここで李花蓮が話に加わって来る。


「貴方、そう言う事なら私の持ってるナイン・エンタープライズで貴子さんをバックアップ致しますわ、貴方の持つ裏組織より色々都合がよいでしょ」


「花蓮、……そうだなお前の会社の方が色々と問題ないか、あの会社なら女性社員が多いしドクター加藤も気が楽だろう」


「だそうよ! これからは私の会社、ナイン・エンタープライズが貴子さんに全面的に協力するわ、貴女の好きに動いて頂戴」



李花蓮が妖しく微笑む、貴子の頭脳を手に入れたナイン・エンタープライズはこれから世界一の大企業に躍進する事になる。

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