第122話 ミス
夜中の11時、研究所の一角にまだ明かりの灯る1室がある、自分のラボからこっそり抜け出した貴子は長い廊下をコツコツとヒールを鳴らしてその部屋を目指す、履き始めた頃はヨタヨタとした歩みだったが今ではヒールのある靴にも随分と慣れたものだった。
部屋の前でしゃがみ込むとそぉ〜っと中を覗き、本日のターゲットを確認する。
カチャ
「あ、加藤博士、どうされました、ラボに籠ってらっしゃると川崎が言っていましたが」
「な、な〜んだ、君ひとりか? こんな遅くまで一人で、何か問題でもあったのか」
「いえ、加藤博士の設計したアクチュエーターがあまりにも素晴らしいので試作品を作っているとつい時間を忘れます、少し夢中になり過ぎました」
貴子は眼鏡をかけ長髪を後ろでしばってる男に声をかける、お忘れかもしれないがこの男、船橋
「そうか、あまり無理はするなよ、ホレ、差し入れだ」
そう言って貴子は机の上にコンと1本の栄養ドリンクらしき瓶を置いた。
「あ、ありがとうございます加藤博士、私のような凡人にまでこんな気配りをいただけるとは……」
何か感極まったように大事に瓶を握りしめる船橋、蓋を開けお神酒でも飲むようにゴクリと喉奥に流し込んだ。
その様子をジッと見つめていた貴子。
「ど、どうだ、味は悪くないか?」
「美味いです、それに一口飲んだだけでこう力が
「お、おう、(牛子の栄養ドリンクにちょ〜っと手を加えたものだがな)」
「流石ですね、機械工学だけでなく薬学にも精通なさってる加藤博士らしい、まさに才能の塊ですね」
「ん、ま、まあな、それで他に何か感想は」
「ええ、加藤博士の設計したアクチュエーターは本当に素晴らしい、形状記憶合金と電磁石による小型化とサーボモータの高出力化、これはロボット工学を一気に進化させられますよ!これを使えば人型ロボットも人工義手、義足だって思うがままです!」
「あれ?(どう言う事だ、ホレ薬が効いてないのか、なんか反応が想定と違うな)」
目の前で熱く貴子が設計したアクチュエーターを語り出した船橋に首を傾げる貴子、ホレ薬の検証のために飲ませたはいいが期待した反応が返ってこない、失敗の二文字が頭に浮かんだ。
こんな夜中に突然貴子が差し出した、ラベルも貼ってない妖し気な色のドリンク、それを何の疑いもなく飲んだ時点で気付くべきだった、この男根っからのエンジニアで、入所した次の日に貴子に渡された設計図のあまりの革新的なことに衝撃を受ける、以来寝る間も惜しんで試作品を作る事に没頭していた、自分では到底たどり着けない天才を前にした時、大抵の者は距離を置いて近づかないようにするか、心酔して崇めるかの二つに分かれる、そして船橋は後者を選んだ。
尊敬、崇拝、それは船橋の中では愛にも似た感情として脳の中で処理されている、つまり何が言いたいかと言うと、貴子がホレ薬を使うまでもなくすでに船橋は科学者として貴子に惚れ込んでいたのだ、秋子とずっと一緒に働いている川崎と違い会えない時間が愛育てる状態で船橋にとって貴子は神として崇める存在にまで昇華していた。ようは薬を試す人選に失敗していたのだ。
「加藤博士、貴女の素晴らしい発明は私が全て形にして見せます、博士の才能を世界中に知らしめてやりましょう!!」
「船橋、お前……案外良いヤツだな……」
「あ、ありがたきお言葉、これからも一層の努力に励みます!」
「あ、ああ、よろしく頼む、じゃ、じゃあ私はこれで失礼する、ちゃんと睡眠はとれよ」
そそくさと踵を返す貴子に深々と頭を下げる船橋、この男は将来ナインエンタープライズに入社し貴子が発明した数々の機械を制作する、しかし20年後グリーンノアの建設中の事故で死亡する事となる、享年46歳、生涯独身であった。
「おかしい、失敗なのか? いきなり襲われても良いようにスタンガンと解毒剤まで用意していたのに」
自分のラボに戻ってきた貴子は頭を抱える、好き好きーっと迫ってこられる事を想定していたのだが (発想が小学生並み)、船橋にこれと言った変化は無かった。
むしろあまり目を合わせようとしなかった感じまである (恐れ多くてまともに見れなかった模様)、自分の計算に絶対の自信を持っていただけに貴子は悩みだす。
「どうする、このまま川崎きゅんにこの薬を飲ませていいものだろうか? もし効果がなかったら……いや大丈夫、自分を信じて、たまたま船橋の奴が鈍感なのだ、だがしかし」
これだけ自分の発明に悩む貴子も珍しい、それだけこのホレ薬に賭ける想いと期待は大きかったのだ。
トラタタタタタ
明けて早朝8時、川崎は通勤用のスーパーカブで研究所に出社する、定時は9時の研究所だが川崎はいつも1時間前には来て調剤室の掃除をしていた。
「良し、秋子先輩のバイクはまだ無しと」
川崎はガレージのバイクで秋子がまだ来てない事を確認すると、いそいそと仕事場である調剤室に足を向ける、前に一度秋子より早く来て部屋の掃除をしていたのを褒められて以来、誰よりも早く出社するのを日課としているのだ。
今日使う予定の機材を準備しレシピを見ながら薬剤を整理していた時だった、扉の小窓からチラチラと人影が映るのが見えた、安物のカシオの腕時計を確認すれば時刻は8時25分、そろそろ秋子が出社する頃ではある、しかしまだバイクの音は聞こえて来ない(秋子のホンダRC162は貴子お手製の直管マフラーなのでかなり音が大きい)、首を傾げながら扉に近づけばガラリと扉が開いた。
「や、やあ、川崎きゅん、は、早い出社だね、感心、感心、き、君のそう言う実直な所はすすす、好きだぞ」
「加藤所長、い、一週間ぶりですね、研究の方は上手く行ったんですか」
扉が開くとそこにはラボに籠っていたはずの所長である貴子が立っていて少し吃驚する、そう言えば張り紙に書かれていた一週間が過ぎていた事を思い出し声をかけた。
「ま、まあ、私にかかればお茶の子さいさいだ、で、新しい栄養ドリンクを作ってみたのだが、か、川崎きゅんに試飲して欲しくてな」
シュバと目の前に差し出される茶色い小瓶、所長に目を移せばいつも通りの派手目の衣裳に化粧、だがよく見れば肌は少し荒れているし目の下にはくっきりと
実際、貴子は昨日は徹夜で薬の成分の見直しをしていたので、その推測はあながち間違っていない、女としてその努力の仕方はどうかと思うが。
「栄養ドリンクですか?」
「う、うん! 安全は保証する、昨日も船橋の奴に投薬したが精神に異常は見られなかった!」
「投薬? 精神? えっと、船橋さんも飲んだんですか?」
「ああ、とても力が漲ると言っていた、だから川崎きゅんにも是非飲んでもらいたいのだ」
「は、はぁ、そういう事であれば飲まさせてもらいますが」
川崎はそう言って蓋を開け、ゆっくりと小瓶を口元に持って行く、その時貴子は緊張と不安でとても直視出来ずにクルリと川崎に背を向けてしまった。
祈るように手を合わせ目をつむる。
「だ、大丈夫、私の理論に間違いは無かった、後は投薬後に最初に目にした異性を大好きになるはず」
ゴクリ
「良し、飲んだ!」
貴子が振り向こうとしたした瞬間だった、開いたままの扉から一人の女性がひょっこりと顔を出した。
「川崎くん、おっはよー!今日も早いですね。って、あれ? 所長?」
「秋子先輩……」
「なっ、う、牛子!!」
ギギギと錆び付いたように緩慢な動きで振り向く貴子、川崎を見た瞬間、貴子は時が止まった気がした。
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