第119話 牛泥棒

「この泥棒牛!!」


週明け、秋子が研究所の部屋に入るなり罵声と共にブンッと繰り出された貴子の張り手は、虚しく空を切った。

まるで顔をすり抜けたように見える正確な見切り、仮にも武田の娘だ素人の張り手など当たる訳が無い。目の前の貴子はこの結果に非常に不満気にしている。


「なぜ避ける?」


「いや、つい身体が動きまして、と言うかいきなりなんですか吃驚するじゃないですか、あっ、そうそう、これ高崎のお土産のだるまです、どうぞ」


「ど・こ・の・お土産だって〜」


「だから、高崎ですよ群馬県の。このお休みでお馬さん見てきたんですよ、競馬場で」


「ふ〜〜〜ん」


「ちょうどG1が開催されてまして、いや〜ダートで暴れる馬を乗りこなすジョッッキーの姿が凛々しい事、すばらしい1日でした」


ちなみに高崎競馬は2004年に廃止され、現在は場外馬券売場だけとなっている、群馬はその他に伊勢崎オートレースに桐生競艇場と賭け事を嗜む者にとっては充実した土地柄だ、寺と蕎麦しか自慢出来る物がない長野とはえらい違いである。微妙に遠いんだよ桐生競艇場 (桐生のひもかわうどん美味い)。


「ほぉ〜〜高崎ねぇ、で、誰と行ったのかな〜」


「ああ、それは川崎くんと……あっ!」


秋子は二人で群馬に行く為にバイクではなく父親のコスモスポーツまで引っ張り出したのだ間違えようがない。当時の長野は群馬に抜ける上信越自動車道はまだ開通していないので国道18号経由で軽井沢から碓氷峠を抜けた、秋子の峠越えのドライブで川崎君がひどい車酔いを起こし1日中使い物にならなかったのはご愛嬌だ。

しかし、ここにきてようやく秋子は貴子が怒りを見せている理由に思い至る、貴子が川崎くんに懸想している事はここ数日の態度と川崎くんの証言で明らかだ、そこに来て休みの日に意中の男性が他の女と二人で仲良くお出かけしたら直情型の所長の事だ、嫉妬の炎を燃やすに違いない、昨日はあまりにも万馬券を当てまくったので浮かれて油断していた、これは誤解をとかねば。

と言うか、なぜ所長が知ってるのよ?まさか昨日彼のアパートに迎えに行った時に見られていたのか?ここは下手に出てでもしっかり確認せねばなるまい、つまり私はこの瞬間所長の恋敵こいがたきとして認定されたと言う事か、これはまずい、なんとなく命の危機を感じる。


「いや、違うんですよ所長、昨日のあれはドライブデートなんかじゃなくて」


「ほほぉ〜、デートぉ!!」


所長が腰に手を当てながら真っ赤で派手なルージュをひいた口元をひくつかせる。人の話は最後までちゃんと聞きなさいよ。


「ち、ちがっ」


カチャリ


「ふあ〜〜、あ、秋子先輩おはようございます、昨日は楽しかったですね、またデート誘ってくださいね、なんつって」


遅れて出社してきた川崎くんがちょっと眠そうに目をこすりながら後ろから声をかけてくる、若いのに昨日の疲れが残っているのか?この時点でまだ私の前にいる所長には気付いていないようだ、そのタイミングの悪さに思わず振り返って睨みつける。


「川崎ぃ〜〜〜っ、ちょっと空気読めやぁ〜〜!!」


「えっ、なんですか? 僕なんかしました?」


突然の秋子の剣幕に訳がわからずにキョトンとする川崎、背後では俯いてプルプルと震えていた貴子が爆発した。


「や、やっぱりデート……こ、この泥棒牛ぃ〜〜〜っ!!」


怒りにまかせた貴子の真空飛び膝蹴りが秋子を襲うが、秋子はまたもや正確無比な見切りで華麗にそれを避ける、すると避けられた飛び膝蹴りは当然だが秋子の後ろの川崎の顔面を襲う事になる、嫉妬のオーラを纏った貴子の蹴りはムエタイで世界を狙える威力を持つ、川崎がこの時目にしたのは迫り来る膝とその向こうに見える白のレースの布だった。


ドゲシッ


「あべしっ!」


まぬけな断末魔の叫びとともに川崎が鼻血を出しながらゆっくりと床に沈む、それに慌てたのは貴子だ、秋子の顔面を捉えるはずの膝蹴りが気付けば意中の相手である川崎の顔面にめり込んでいるのだ、26歳の恋する乙女回路はショート寸前だ、いやすでに焼き切れているかもしれない。


「か、川崎きゅ〜〜〜ん!! くっ、牛子貴様ぁ、川崎きゅんを盾にするとは卑怯だぞ、それでも人間か!!」


倒れる川崎に駆け寄った貴子がキッと秋子を睨みつける。


「えぇ〜〜、所長の中で私はどれだけ悪女になってるんですか、それに私の所為じゃないですよ〜蹴ったの自分じゃないですか」


「ええいっ、腹立たしい、川崎きゅんは私が先に目をつけたの、だから私のなの、牛子にはあげないの!!」


気を失ってる川崎くんを横目に両手を上下させて癇癪を起こす所長、小学生か。駄目だ、所長の恋愛脳は小学生で成長を止めている、科学では天才的な頭脳なのになぜこう言う時はポンコツなのよ。


「所長、恋愛は先着順じゃないですよ」


「なぬっ、じゃあ先に特許をとれば」


「そんな特許はありません」


「じゃ、じゃあ一体どうすれば……拉致監禁?」


秋子は額に手を当てて考え込むが、どう考えても貴子がどうしてその結論に達したのか理解できない。普通なら冗談ととれる発言でもこの人は本気でやる、それがわかるだけに秋子は焦った、流石に知り合いに犯罪者が出るのは看過出来ない、なんとか穏便な着地点を探しながら説得にはいる。


「そもそも所長は、川崎くんに好きって伝えたんですか?」


「なっ、そ、そんな、知り合ってすぐにそんな事、尻軽女と思われたら、い、いやじゃないか」


「もう充分、重い女ですよ。わかりました、川崎くんが起きたら所長の気持ちをちゃんと伝えてください、話はそれからです」


「えっ、ちょっと待って心の準備が、明日でもいい?」


「駄目です (それにこう言うのは早いほうが色々ダメージが少ないでしょうし)」


「しょ、しょんなぁ〜」


追い込むと途端にオロオロし始める所長、コラコラ下着のチェックはせんでよろしい。



コンコンコン


私達がそうこうしていると、児島ちゃんが部屋に入って来た、倒れてる川崎くんと涙目の所長を見て首を傾げるが、さして気にする事も無く用件を告げる、この娘も大概動じないわね大したもんだわ。


「所長、先程町役場から連絡がありました、この近所で熊が目撃されたので建物の外に出ないようにとの事です」


「「熊!!」」


長野は周りが山だらけなので時折、熊やら鹿やら猪なんかが街に出没することがある、それほど珍しいことではないが熊ともなれば少しは警戒しなければならないだろう、秋子は倒れてる川崎をヒョイと抱き上げると医務室に連れて行こうとする、所謂お姫様だっこと言う奴だ、そして貴子はといえば。


「く、熊か〜、それは大変だ〜、研究所のセキュリティをチェックせねばいかんな〜、しかたないここは所長である私自ら見てこよう〜」


ほとんど棒読みのセリフをしゃべりながら、いそいそと走って部屋を出て行った。


「逃げたな」

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