第115話 新入
武田秋子が勤める研究所は正式には加藤貴子研究所と言う、文字通り所長である加藤貴子を研究する施設だ。
基本的に科学者という者は自分の専門分野でテーマを決めて生涯をかけて研究する人物が多い、だが加藤貴子はそれを鼻で笑う、とにかく幅広く何でも開発し作ってしまう万能の天才だ。
まさしく爪楊枝からロケットまで、悪く言えば節操がない。その中でも化学、薬学、機械工学分野では世界でも貴子を超える者はいないと断言出来るだろう、ただし思いついた物をかたっぱしから作る為にガラクタや役に立たない理論も多いのも事実だ。
「私としては足ツボを押す健康サンダルがお気に入りです、所長はどうでもいいと言っていたので今度どこかの業者にアイデアを売ろうかと思っています」
おっと話しが逸れました、そんな天才の所長が考えた事や作った物を実証、検証するのが私たち所員のお仕事です。
私は薬学部門でここに採用されたのですが、毎日正解を先に見せられてその効果を実証、量産する作業をしています、最初に仕事内容を説明された時は「何それ?つまらなそう」と思いましたが所長が次から次へと新しいレシピを持ち込んでくるので、退屈を感じる暇もありませんね。
「おい、牛子。この前お前が言っていた漢方からのアプローチだが、やっぱこの方法じゃ駄目だな、細胞を活性化させるパンチが全然足らん」
「あ、そうなんですか?」
「ああ、でも途中で面白い結果もあった、記録渡すから検証しとけ、多分癌細胞の抑制には使えるはずだ」
調合作業をしていると所長からいきなり分厚い紙束を渡される、どうやら私が何か言って閃いたらしいのだが突然の事で何がなにやらさっぱりだ、勝手に自己完結するのは所長の悪い癖です、もうちょっと説明する努力をしてもらいたいものです。
後、人のおっぱい見て牛扱いはやめて欲しい、そりゃ所長はすっごくスレンダーで肩もこらなさそうですけど。(怒)
カタカタカタカタカタカタ、パチッ
「それにしても所長の作った演算装置は便利ですね、32ビットが何か知らないけどこんなに簡単にデータ管理出来るなら近い将来世界中で使われるんじゃないかな」
渡された紙束をデータにして行く、凄いなこのレシピなら本当に癌に効くんじゃないだろうか、この発想力、あの人の頭の中はどうなっているんだろう、私達凡人には理解出来ないアプローチで正解を引き当てる、実は未来から来た宇宙人なんじゃないかと密かに疑っている。
「武田先輩」
「ん、児島ちゃん、どうしたの」
打ち込み作業をしていると所長の助手をしている児島ちゃんが話しかけてきた、去年の終わりに入社したばかりの娘だが、その優秀さから所長の助手と言う大役に抜擢された期待の星だ、感情表現が乏しいのが欠点といえる、笑えば可愛い顔しているのにもったいない。
「実は本社(パトロン)から新人を2名ばかり入れる事になりまして、武田先輩に一人教育を頼めないかと思いまして」
「いいよ、確かに今の人数だと所長のアイデアに作業が追いつかないからね、補充はありがたいかな」
「そう言ってもらえると助かります」
景気のいい話だ、どうやら新入社員が来る事になったようだ、だがこの出来事が世界の歴史を変えるほど重大な事件であるなどと、この時一介の薬学者である私にわかろう筈もなかった。
2日後の朝、新入社員の紹介も兼ねる朝礼のため所員が集められた、研究の切りが良かったのか面倒くさがりの所長も珍しく顔を出していた、でも目の下の隈がひどいし髪も跳ねている、あれは徹夜明けだな。
「所長、徹夜明けですか、随分と疲れた顔してますよ」
「おう、牛子。新型の超伝導モーターの小型化に思いの外時間がかかってな、朝まで考えてた。新入りの顔を見たらもう寝ることにする」
そう言うと所長は机につっぷした、徹夜はお肌に良くないですよ。
「それはご苦労様です、私が作った栄養ドリンク入ります?」
「やだよ、牛子は妖し気な材料使うからな」
「イモリは変な材料じゃないですよ、ん、新人さんが来たようですよ」
廊下の向こうに気配を感じて扉の方を見れば、児島ちゃんが二人の新入りさんを連れて部屋に入ってきた、どうやら今回は二人とも男性のようだ。
一人は20歳くらいの若い男の子、短髪でキリッとした目をした結構可愛い子、もう一人は20台半ばの眼鏡をかけ長髪を後ろでしばってる真面目そうな人だった。
この研究所は柔軟な発想が無いとついていけないので結構若い子が連れてこられる、自分の考えがすでに固まっちゃてるおじさんやおばさんは所長のアイデアを否定し、理解しようとしないので必要としないのです。
短髪の子が一歩前に出て元気な声で挨拶を始める、新品の白衣がとても初々しい。
「川崎
良いですね、熱意ある後輩は好感が持てます、キラキラした瞳が眩しいですね、薬学専攻と言う事はこの子が私の下に付く事になるのかな。
「船橋
続いて長髪の人が挨拶する、さっきの子に比べて大人しい感じだけど出来るオーラを感じるね、機械工学は人員が特に必要なので是非とも頑張ってもらいたい。
「所長、良かったですね機械工学の補充人員ですよ、これで納期が楽に……って所長?」
隣の所長に話しかけるが所長の様子が少しおかしい、さっきまで眠そうにしていたのに大きく目を見開いて二人の新人を凝視している、何か問題でもあっただろうか?
「所長?」
「ん、ああ、新入りの顔も見た事だし、今日はもう家に帰って寝る、後は頼んだぞ牛子」
「あ、ちょっと、彼らに一応紹介だけはさせてくださいよ」
「えっ、ああ、そ、そうか」
そう言うと所長は慌てたように、ボサボサのままだった長い黒髪に手櫛を入れて整えたついでに鉄くずまみれの白衣をパンパンと手で払った、珍しいな所長がそんな身だしなみを気にするなんて。
所長と私が新入りさんに近づくと川崎君が人なつこい笑顔を浮かべる。
「貴女が加藤所長ですか、貴女が作った新薬は画期的でした、僕も頑張ってあれに負けないくらいの新薬を開発してみせます!」
「こ、この研究所の所長の加藤貴子だ、今日から貴様らは私の手足となって尽くし働けばいい、役に立たなければ即刻クビだからな!!」
川崎君と船橋さんの前に立った所長は早口でそれだけ言うと、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
残された二人と私達他の所員はそれをポカ〜ンとした顔で見送る、いつにない所長の態度に児島ちゃんと目を合わせるも、児島ちゃんも首を傾げるばかりだ。う〜ん、とりあえずこの場は私がフォローしなくちゃ駄目だよね。
「しょ、所長は人見知りだから初対面で声をかけるなんて珍しいのよ、それだけ君達に期待してるんだと思うわ、気を悪くしないでね」
「は、はぁ?」
「あれが期待してる態度ですか?」
川崎君はわけがわからずって感じだが、船橋さんは嫌そうに顔をしかめる、科学者としてのプライドを刺激しちゃったかな、まぁ所長の仕事を見てもらえばあの言葉にも納得してくれると思うんだけど、初対面であれじゃあね。
「それにしてもどうしたんだろう所長、よっぽど眠かったのかしら?」
研究所を逃げるように飛び出した貴子は、愛車のメルセデス300SLのガルウイングを乱暴に跳ね上げ乗り込んだ。
普段は勝手に研究所の自室に寝泊まりしている貴子だが、一応近くに自宅は持っている、2ヶ月ぶりに戻った自分の家に着くなりベッドに倒れるようにダイブした、ハウスキーパーは雇っているので研究所の自室よりよっぽど清潔なのが貴子の女子力を表している。
枕に顔を埋めながら貴子はボソリと呟いた。
「何、この気持ち? こんなの知らんぞ」
どうにも自分の心臓がバクバクとうるさい、今までの人生を直感で生きてきた貴子だけに本能が告げている、あれは運命の人だと。
研究漬けの人生で男性との交際経験はない貴子ゆえの一目惚れ、生まれて初めての感情に動揺し対処法を知らない貴子は焦る、こう言う時にどうしたらいいかわからない。
ふと鏡を見ればそこにはよれよれの薄汚れた白衣に、すっぴんの女が一人映っていた、その姿が急に恥ずかしく感じた。
「あっ服って東急で売ってたっけ、それとも丸光、化粧品も買わないと、百貨店なら全部揃うか」
ガバリと起き上がり胸ぐらを掴むように勢いよくドアノブに手をかける、金庫の中の札束を白衣のポケットにねじ込むとそのまま長野市街地に向けて車を走らせた、無駄に行動力はあるのだ。
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