死線誘導

小狸

短編

 *


 抱月ほうげつ朔哉さくやにとって、他人とは、己を莫迦ばかにする要素以外の何物でもなかった。


 怖い。


 怖い。


 怖い、のである。


 どうしても、怖いのだ。


 こちらを窃視せっしするような視線を、どうしても感じてしまう。


 いや、分かっている。


 これは自分の勘違いであり、筋違いであり、ただの被害妄想でしかない。


 他人がいちいち自分のことを気にしているなどという勘違いほど、羞恥的なものはないのだ。


 しかし、それでも。


 分かっていてもなお、怖い、と思ってしまう。


 それは、視線である。


 それは、目である。


 それは、眼球である。


 本来は球体をしているが、すぽりと眼窩がんかに収まり、まぶたによって開閉することで、半月の楕円状であるように見えている。


 それがこちらに向いた瞬間。


 ぶくりと。


 満杯に溜まった水槽の栓を抜いた瞬間のように。


 思考に巨大なあぶくが生じる。


 莫迦にされる。


 莫迦にしている。


 そう、思ってしまうのだ。


 水槽の水が渦を巻き始めれば、それはもう始まったも同じである。


 人がこちらを見て、自分のことを莫迦にしているかどうかを、窺ってしまうのだ。


 虎視眈々こしたんたんという視線が向かぬように、抱月は努めた。

 

 ゆえに抱月は、極力人から「浮かぬ」ように、精進してきた。

 

 というか、生涯のほとんどを、そのために消費してきた。

 

 見えぬように。

 

 見つからぬように。

 

 しかしなかなかどうして、人間とは不思議なものである。

 

 に、緊張が生まれ、人から「浮いて」ゆく。


 齟齬そごが生じ、差異ズレが芽生え、そしてそれらは積載して――異常となる。


 結果、抱月の涙ぐましい努力とは裏腹に、彼は社会から、集団から浮き彫りとなった。


 最近良く言われる「自意識過剰」という言葉が、どれだけ彼を傷付けたか、想像するのも難くない。


 視線が怖くて、目が恐ろしくて、眼球におののいて。


 抱月はついに、会社に行くことができなくなった。


 電車通勤であった。


 日本の電車事情については、日々電車通勤している方々ならば、言わずもがなかだろう。


 満員電車である。


 視線と視線と視線と視線が錯雑さくざつするそんな場所になど、行けるはずもなかった。


 それに抱月は、視線が合うと、挙動不審前後不覚に陥ってしまう、結果、人々の視線を余計に集めることになる。会社に辞表を出す日には、電車内で卒倒してしまったほどであった。


 ここに来てようやく抱月は、気付いた。


 これは、、と。


 そう思ったけれど、誰にも相談することができなかった。


 何故なぜなら周囲の人々は、そんな視線など、目など、眼球など気にせずに生きているからである。


 自分の苦悶を理解してくれるとは思えなかったのである。


 そもそも抱月は、他人は自分を莫迦にしていると思っていた――、人を信用することができなかった。


 家で頭を抱えながら、毛布をかぶりながら、毎日を過ごした。


 しかしそんな生活にも、限界が来た。


 大して貯金をしていた訳でもない。


 まず公共料金の引き落としができなくなり、税金や国民年金を払うことが、ままならなくなった。


 その内市税の未納のために貯金が差し押さえられ、残金が零になった。


 家の近くに市役所があったことが幸いした。


 人の少ない昼下がりを狙って、生活福祉課へと赴き、生活保護の受給の申請をした。


 ケースワーカーの女性からは、心療内科に通うことを勧められた。


 駅の向こう側にある病院である。


 行きたくはなかった。


 どう行こうにも、駅前にあるを通らねばならなくなる。


 最早人そのものが、怖くなっていた。


 ただ、そんな心中を吐露することはできなかった。


 市役所職員は、彼を鬱病に近い何らかだろうと思っていた。まあ、その者を責めることはできまい。彼女にとっては、数多くいる生活保護受給者の一人でしかないのだ。


 診察の日は、あっさりとやって来た。


 交差点は、歩車分離式であった。


 そこに一歩、足を踏み入れた。


 その時のことである。


 


 


 


 一斉に一律に、を向いて。


 桁桁ケタケタと笑っている。


 嘲笑ちょうしょうしている。


 莫迦にしている。


 それを見て。


 否。


 


 抱月は、その場で。


 自分というものが、瓦解がかいする瞬間が分かった。


 世界が、内側にもぐり込んで来た。



 *


 抱月朔哉が、宮城みやぎ県のさる交差点の中心で、おのが両目を潰して死亡したのは。


 令和れいわ5年の、10月17日のことである。




(了)

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死線誘導 小狸 @segen_gen

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