死線誘導
小狸
短編
*
怖い。
怖い。
怖い、のである。
どうしても、怖いのだ。
こちらを
いや、分かっている。
これは自分の勘違いであり、筋違いであり、
他人がいちいち自分のことを気にしているなどという勘違いほど、羞恥的なものはないのだ。
しかし、それでも。
分かっていても
それは、視線である。
それは、目である。
それは、眼球である。
本来は球体をしているが、すぽりと
それがこちらに向いた瞬間。
ぶくりと。
満杯に溜まった水槽の栓を抜いた瞬間のように。
思考に巨大な
莫迦にされる。
莫迦にしている。
そう、思ってしまうのだ。
水槽の水が渦を巻き始めれば、それはもう始まったも同じである。
人がこちらを見て、自分のことを莫迦にしているかどうかを、窺ってしまうのだ。
というか、生涯のほとんどを、そのために消費してきた。
見えぬように。
見つからぬように。
しかしなかなかどうして、人間とは不思議なものである。
そう意識しようとすればするほどに、緊張が生まれ、人から「浮いて」ゆく。
結果、抱月の涙ぐましい努力とは裏腹に、彼は社会から、集団から浮き彫りとなった。
最近良く言われる「自意識過剰」という言葉が、どれだけ彼を傷付けたか、想像するのも難くない。
視線が怖くて、目が恐ろしくて、眼球に
抱月はついに、会社に行くことができなくなった。
電車通勤であった。
日本の電車事情については、日々電車通勤している方々ならば、言わずもがなかだろう。
満員電車である。
視線と視線と視線と視線が
それに抱月は、視線が合うと、挙動不審前後不覚に陥ってしまう、結果、人々の視線を余計に集めることになる。会社に辞表を出す日には、電車内で卒倒してしまったほどであった。
ここに来てようやく抱月は、気付いた。
これは、おかしい、と。
そう思ったけれど、誰にも相談することができなかった。
自分の苦悶を理解してくれるとは思えなかったのである。
そもそも抱月は、他人は自分を莫迦にしていると思っていた――だからこそ、人を信用することができなかった。
家で頭を抱えながら、毛布を
しかしそんな生活にも、限界が来た。
大して貯金をしていた訳でもない。
まず公共料金の引き落としができなくなり、税金や国民年金を払うことが、ままならなくなった。
その内市税の未納のために貯金が差し押さえられ、残金が零になった。
家の近くに市役所があったことが幸いした。
人の少ない昼下がりを狙って、生活福祉課へと赴き、生活保護の受給の申請をした。
ケースワーカーの女性からは、心療内科に通うことを勧められた。
駅の向こう側にある病院である。
行きたくはなかった。
どう行こうにも、駅前にある大きな交差点を通らねばならなくなる。
最早人そのものが、怖くなっていた。
ただ、そんな心中を吐露することはできなかった。
市役所職員は、彼を鬱病に近い何らかだろうと思っていた。まあ、その者を責めることはできまい。彼女にとっては、数多くいる生活保護受給者の一人でしかないのだ。
診察の日は、あっさりとやって来た。
交差点は、歩車分離式であった。
そこに一歩、足を踏み入れた。
その時のことである。
視線が、視線が、視線が、視線が、視線が。
目が、目が、目が、目が、目が。
眼球が、眼球が、眼球が、眼球が、眼球が。
一斉に一律に、こちらを向いて。
莫迦にしている。
それを見て。
否。
見られて。
抱月は、その場で。
自分というものが、
世界が、内側に
*
抱月朔哉が、
(了)
死線誘導 小狸 @segen_gen
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