2-1 過去の夢


 これは夢だという自覚がある。


 フワフワした感覚に、覚束おぼつかない足元。

 思考が定まらず、風景がぼんやりと歪む。


 だが、目の前に立つ人間ばかりがハッキリとした輪郭りんかくを持ち、異常に際立って見えた。


「あなたが木之瀬大福くん? 今日からお隣さんよ。よろしくね」

「あ、はい」


 気の良さそうな女性が、隣に引っ越してきたあの日。

 大福は小学二年に上がったばかりであった。


 当時は祖父母も元気で、よく大福の面倒を見てくれたのだが、それでもやはり老体に育児は重労働だったのだろう。


「これからは私が家事とかサポートするからね。……ウチの娘とも仲良くしてやってね?」

「はぁ……」


 なんとなく頷いたのだが、当の娘とやらは女性の陰に隠れて出てこようとしない。


「ほら、青葉! ちゃんと挨拶するの!」


 母親の女性に背中を押され、青葉と呼ばれた少女が大福の前に立つ。

 小さくて、かわいい。


 生意気そうな釣り目も大きく見開かれ、大福を強い光で射貫いている。


「わ、わたし、あおば」

「おれはだいふく。よろしく」

「だいふくって……おかしのなまえ」


 大福が握手のために差し出した手を、少女は無視してコロコロと笑う。


「へんなの! にんげんなのに、おかしのなまえ!」

「こら、青葉! へ、変じゃないでしょ! 気にしないでね、大福くん」


 母親がなんとか取り繕っていたが、大福にとってはこの程度のイジりはすでに慣れっこであった。


 同学年の人間からも揶揄やゆされるのに、年下の女の子から笑われても、大したダメージではない。


「あおばだってはっぱじゃん」

「え?」


「おれがおかしなら、おまえはしょくぶつじゃん」

「ち、ちがうよ! わたし、にんげんだもん!」


 違った。気にしていないようで、めっちゃ気にしてた。


 大福は自分の名前がイジられたことに対する腹いせとして、青葉の名前をここぞとばかりにイジる。


「やーい! はっぱ! はっぱ!」

「ちーがーうー!! うーうぅー!!」


 やいのやいのと騒ぎ立てる二人の真ん中で、母親は疲れたような笑みを浮かべた。




 その時からである。

 大福と森本母娘の縁が出来たのは。




 今になって考えれば、真澄は大福を探して、近くに引っ越してきたのだろう。


 自分が仕事を引き継いだ先輩が凄惨せいさんな最期を迎え、その忘れ形見である子供がどうなっているのか、気になって見に来てくれたのだ。


 律儀、というよりは、面倒を背負いこむタイプであると言えた。


 真澄だって大福を探し当てるまでに旦那を亡くし、女手一人で青葉を育てなくてはならない状況であったのに、大福の事も気にかけてくれて、近くに引っ越してきてくれたのだ。


 ありがたいを通り越して、最早申し訳ない。


 しかし、真澄はそんな事を感じさせないよう、大福には細心の注意を払っていた。

 大福が気負わないように、全くの偶然で隣に引っ越してきたと装ったのである。


 その甲斐あってか、大福も自分の母親の死に際などの話を聞かなければ、真澄の優しさに気付かないままで終わった可能性すらある。


 真澄には頭が上がらなかった。

 そんな森本母娘との付き合いは、五年ほど続く。




 大福が中学生に上がる頃、森本家の急な引っ越しが決まった。


「ごめんね、大福くん。私たち、ちょっと遠いところに引っ越すことになって」

「どうして真澄さんが謝るんですか。これまで大変お世話になってきて、ありがたく思う事こそあれど、恨む気持ちなど湧きようもありません」


 この時すでに、妙な喋り口が醸成じょうせいされてきており、今の大福の片鱗が見え隠れしていた。


 そんな様子のおかしい大福にも慣れていた真澄は、重ねて『ごめんね』と謝る。


 これもおそらく、亡くなった大福の母親の代わりに面倒を見るつもりだった真澄が、最後まで見届けられない事への申し訳なさだったのだろう。


 そして、この時の引っ越し先が奈園だったのだ。

 これから三年間、大福と森本母娘の交流は断たれる。


「ほら、青葉もちゃんと挨拶しな」


 真澄が青葉に声をかける。


 今度は真澄の陰ではなく、ちょっと離れたところでツンとそっぽを向いている青葉は、しかし挨拶をしようともしない。


 そんな彼女を見て、大福は大仰おおぎょうに手を広げ、空をあおぐ。


「おお、わかるぞ、我が愛しき妹分よ! この俺と別れるのが辛くて、明確なる言語化をするのをいとう気持ちは痛いほどわかる!」

「バカじゃないの」


 芝居じみた大福の言葉に、青葉はバッサリと言葉の刃を浴びせた。


「あたしは別に、別れを惜しんでるわけじゃないの。……別に、今生こんじょうの別れってわけでもないでしょ。大げさにする方が恥ずかしいわ」

「でも、よく知らん島に引っ越すんだろ? ワンチャン、もう会えないかも」


「アンタがその気になれば、観光ぐらい来れるんじゃない?」

「……そうかもな」


 青葉の言葉に、大福は少し遅れた反応を返す。


 この時、すでに祖父母はよわい九十を数え、おそらく老い先も短い事が窺えた。


 そんな祖父母を置いて、大福だけで旅行なんかする気も起きず、もしも二人に何かあれば、日々の生活すらままならなくなる。


 何にせよ、大福が自ら能動的に森本母娘に会いに行くような事は出来ない事が、この時の大福にもわかっていたのである。


 だが、それでも『絶対にありえない』とは言わない。


 青葉もおそらく、そこまで深く考えて喋っているわけでもないだろう。


 小学六年生の娘が、大福の複雑な家庭環境にまで気を遣うというのは、難しい話だ。


 そんな二人の間に入り、真澄が手を叩く。


「さて、そろそろ行くわよ、青葉。……大福くん、元気で」

「はい。真澄さんも。……青葉もな」

「アンタに言われるまでもないわよ」


 最後の時までいつも通りの調子で。

 それが、最大の餞別せんべつになるだろうと信じて。


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