心理院生が対人恐怖になりかけた話

店の固定電話が鳴る。カウンター内にいた僕は即座に電話に駆け寄り、受話器を取る。この僅かな瞬間に息を飲む。左手に取った受話器を耳に当て、外線ボタンを押そうとする右手は自身の意思より微妙に遅れている。コールが3回鳴って、ようやく外線ボタンを押す。


「お電話ありがとうございます。○○××店、津島がお受けいたします」


そう言うと、相手はこう返してくる。


「すみません、お宅って何時まで営業していますか?」「はい、当店は夜の9時まで営業しております」「わかりました、ありがとうございます」


そしてツーツーと電話が切れる。僕は誰にも気づかれないようにホッと息をつき、受話器を電話に戻す。


このように、僕は電話対応が苦手である。顔の見えない相手と会話するのが怖いのだ。相手が急に怒鳴りかけてきたらどうしよう。自分の対応しきれない事案だったらどうしよう。そのような不安が電話を取ろうとするたびに僕の頭を駆け巡る。別のカウンターで電話を取ってくれたら、そのときが最も安心する。自分が対応せずに済んでよかった。


コールセンターで働く人たちはとんでもないと思っている。彼らは日常的にクレームを対応し、上手く処理する。僕は心理学を勉強しているわけだが、人の怒り等を鎮める技術は心理職に携わる人々よりもコールセンターで働く人たちのほうが何倍も上なのではないだろうか。


ところで、電話を取ることに苦手を覚えることは、しばしば社交不安症の症状として挙げられる。社交不安症とは、他者の注視を浴びる可能性のある社交場面に対する著しい恐怖または不安を特徴とし、自身の振る舞いや不安症状を見せることで、恥をかいたり恥ずかしい思いをしたり、拒絶されたり、他者の迷惑になったりして否定的な評価を受けることを恐れる病態とされている(朝倉, 2015)。つまり、他人に否定的に評価されることを極度に恐れるために、自分の行動や外見が他人にどう映るかを過度に心配し、社交的な状況を避ける行動につながるという精神障害である。おそらく、僕は社交不安症には該当しないだろう。しかし、確かに僕は、特に電話の場面では明らかに対人関係の恐怖や不安を覚えている。そのため、今回のエッセイでは社交不安症と区別した用語として、私の状態を「対人恐怖」と表して記述したいと思う。


さて、臨床心理学を学んでいる者が対人恐怖に陥るとはこれはいかに。ただし、それは心理職に携わるにおいて良いことなのでもないかと思っている。対人恐怖に陥るということは、それほど繊細ということだ。心理職というのは繊細さを要する仕事だ。つまり、対人恐怖に陥りやすい人ほど心理職に向いているのではないだろうか?逆に言うと、対人恐怖から遠い人、つまり図太い人ほど心理職には向かないのではないだろうか?


これはあくまでエッセイなので答えは出さない。きっと、その通りだ! と賛同する人もいれば、心理職は大変な仕事なので、むしろ繊細な人は向かないと言う人もいるだろう。これは一長一短なのである。対人恐怖に陥るほどの繊細さはクライエントの気持ちに過不足なく寄り添うことができるかもしれない。一方で、繊細さはときに個人を圧倒し、感情疲労に陥らせるかもしれない。だから、繊細さをもつ人は図太さを身につけなければならないし、図太い人は繊細さをもたなければならない。


ところで、僕を対人恐怖に陥らせる社会が悪いとも思っている。それくらいのことでどぎまぎするようなやつは社会適性がないと言う人もいるかもしれない。ただし、個人の特性だけに帰属するのはどうなんだろうかと思う。いや、普通に人を怖がらせるようなことはしちゃダメだろう。クレームを言う者は怒りを感じているかもしれない。しかし、だからといって相手を萎縮させるようなことをしていいだろうか?これは断固としてダメだと考える。たとえ怒りを感じるようなことがあっても、無辜の人および故意のない人物に対して感情をぶつけるようなことは正当化されない。しかし、現実の社会はそれを許している。


「お客様は神様」とは、演歌歌手の三波春夫氏が観客に対して、そのような心構えで藝を披露しているという旨を語っただけであり、それは事実ではないというのは最近よく言われるようになってきたことである。そのようなフレーズは、あくまでサービス提供者が言葉にするものであり、その被提供者がどうこう言うものではないというのも最近言われるようになってきたことである。


過激なことを言うが、時は革命ではないかと思っている。「お客様は神様」という誤った認識を取り払い、当たり前の倫理観に沿った社会を作り出すのが今の時代なのではないかと思っている。それは、HSPの人が自分勝手なことを言い出すことを促進してしまうかもしれない。それでも、このような倫理的な時代を進めることは止めてはならないと思っている。


カントの定言命法について語ろう。定言命法とは、いかなる仮定や前提もなく(つまりは無条件に)「~せよ」という形式をとる命令である。一方、「もし~ならば、~せよ」という命令は仮言命法と呼ばれている。今、この定言命法が実践できる時代がやってきたのではないかと思っている。「もし怒りを感じるようなことがあれば、店員を𠮟りつけよ」という命令は取り払われるべきであり、「𠮟りつけよ」という命令が倫理的に正しいか考えるべきだ。明らかに、無条件に𠮟りつけることは倫理的ではない。だから、「優しくする」という定言命法を誰もが実践すべきである。


これはある種の詭弁かもしれない。実際の心理療法や心理支援では、仮言命法に基づく介入が必要かもしれない。まあ、カントの倫理学をすべてに当てはめることが正しいとは思っていない(となると定言命法の概念自体が破綻するのだが)。それでも、無辜の人を萎縮させる行動は糾弾されるべきだ。それだけは確実に言えると思う。


なんだかまとまりのないエッセイになってしまったが、別に何か伝えたいことがあるわけでもないのでご容赦お願いしたい。このエッセイはそんなものだ。適当なのである。特に締めの言葉とかもないのでここで終わる。


参考文献

朝倉 聡(2015).社交不安症の診断と評価 不安症研究, 7(1), 4-17.

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物書きで古本好きな心理学専攻の大学院生によるエッセイ 津島 結武 @doutoku0428

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