ホテルの前に立ち尽くしているうちに、だんだん人通りが多くなっていった。俺はそれに気が付いてもそのままそこに立っていた。行くところがなくて。

 はじめて、章吾の気持ちが分かった気がした。俺の部屋に入り浸っていた章吾。章吾にも自分の家はある。でも、それでも、行くところがなかったのだろう。

 「……上原くん。」

 真正面から、声をかけられた。

 俯いて靴の先に落とした視線を上げないままでも、それが誰だかは分かった。

 眠れない夜を、たわいない電話でつないでくれたひと。二度も、こんな俺を好きだと言ってくれたひと。声は、覚えていた。とてもよく。

 日曜日の早朝、ファミレスにアルバイトに向かう彼女がここを通ることは、知っていた。知っていて、俺は馬鹿みたいにここに突っ立っていた。濡れたままの髪で、ボタンも掛け違えて。

 「……中村くん……じゃ、ないよね。」

 ぽつん、と、彼女が言った。俺は、どうしようもないほど愚かな俺は、ただ頷いた、馬鹿みたいに。

 「……どうしたの?」

 揺れる声は、それでも優しかった。そこに俺を責める色はなかった。

 「……なんで、優しいの。」

 自分の声が半分泣いていることに、うんざりした。それでも、自分でもうんざりするようなその女々しさを、鈴村さんは責めなかった。

 「こうなるの、分かってたもん。……分かってたの。だから、優しくないよ。私は、意地悪。」

 「分かってた?」

 「分かってたよ。」

 俺自身でさえ、今でもよく分かっていないようなことを、章吾以外の男に縋るように抱かれることを、この人は知っていたというのか。

 俺は驚いて、そこで初めて彼女の顔を見た。

 彼女は、泣いていた。

 大粒の涙を流し、それを手のひらでぐいぐいと拭っていた。

 「中村くんとはいつかこじれて、そうしたら、私のところに来てくれるか、全然知らない男の人のところに行くか、どっちかって、思ってた。……私の方に来てほしかったけど、それが無理なのも、分かってたよ。」

 分かってた、と、自分に言い聞かせるみたいに鈴村さんは繰り返した。

 俺は茫然とその場に突っ立っていた。いつか俺が見ず知らずの男に抱かれに行くと知っていて、それでもこの優しいひとは、俺を好きだと言ってくれたのか。

 ごめん。

 言葉はそれしか出なかった。

 いつかのように肩を抱かせてほしかったけれど、手を伸ばすことはできなかった。俺は、汚れすぎていて。

 「謝らないでよ。」

 ひくっと喉を鳴らしながら、鈴村さんは俺を火のような眼差しで見た。その目は、いつもの優しい鈴村さんの目とはかけ離れていて、俺は怯んで言葉をなくした。

 

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