「そんなことない。」

 そう言った鈴村さんの声は、熱量を持ってひずんでいた。

 いつもの優しくて理性的な彼女の声とはまるで違う。俺は驚いて彼女の顔を見たけれど、夕闇の中で表情は霞んで見えない。

 「上原くんはいつも、中村くんのことばっかり考えてるじゃない。」

 やはり、熱を持ってひずんだ物言い。俺は、彼女が泣いているんじゃないかと思った。理由は、分からないけれど。

 泣かないで、とは言えないまま、俺は一歩彼女に近づいた。

 彼女は、逃げずにその場にいてくれた。そのことは、確かに俺の勇気になった。俺は汚い自分勝手な人間だけど、鈴村さんは、それをよく知っているはずの鈴村さんは、俺から逃げずにいてくれると。

 一歩近づくと、やはり彼女は泣いていることが分かった。夕闇に染まる頬を、涙の雫が静かに伝っている。

 「……泣かないで。」

 それしか言えなかった。泣いてほしくなかった。俺なんかのことで。

 「泣いてなんかないよ。」

 手の甲でぐいっと涙を拭いながら、鈴村さんは喧嘩腰で言った。

 俺は、この優しい人を何度泣かせてきたのだろうか、と思った。

 「泣いてなんかない。私は泣かないって決めたんだもん。泣いたら上原くんを困らせちゃうだけだって、分かってるもん。」

 やっぱり喧嘩腰のまま、鈴村さんが吐き捨てた言葉は、それでも優しかった、俺もつられて泣きそうになるくらいには、優しかった。

 「……ありがとう。」

 出てきた言葉は、それだけだった。

 ありがとう、俺から逃げないでいてくれて。ありがとう、俺に優しくしてくれて。ありがとう、俺は汚くないと示そうとしてくれて。

 そんな言葉たちが胸の中に蹲っていたけれど、上手く口に出せなかった。鈴村さんを、万が一にでも傷付けてしまうのではないかと思うと、怖くて。

 「……好きだって、言ってくれればいいのに。嘘でも、言ってくれればいいのに。」

 鈴村さんが、しゃくり上げながら言った。

 俺はどうしていいのか分からないまま、その場に突っ立っていた。

 人気のない、熱帯夜だった。薄水色の夕闇の中に、鈴村さんと二人で閉じ込められてしまったみたいだと思った。

 「……嘘でも、言ってよ。」

 鈴村さんの細い腕が、俺の首に回った。

 俺は何も言えないまま、彼女の痩せた肩を抱いた。

 嘘になるから、言えない。あなたを傷つけてしまうから、言えない。

 彼女にそんなことを言えるはずはなかった。

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