『今から、会おうか。』

  随分長い沈黙の後、くっきりと輪郭を持った声で鈴村さんが言った。

 「え?」

 と俺は、半ば反射で聞き返した。

 鈴村さんとは、これまで会おうと約束して会ったことがなかった。中学時代、廊下ですれ違ったときなんかに立ち話をしたりはしたけれど、それだけだ。だから俺は虚を突かれて、答えに詰まった。なんというか、鈴村さんは実際に存在して、会うことができる存在なのだと、思い出したような感じ。

 『うん。会おう。上原くん、汚くなんかないよ。でも、これって電話でいくら言っても仕方がないことみたいな気がする。だから、会おう。』

 鈴村さんの物言いははっきりしていて、俺はすぐさまその言葉に従いそうになった。それを抑え込んだのは、やっぱり、俺は汚いという意識だった。

 俺は、汚い。鈴村さんみたいな女の子と会っていいような存在じゃない。

 『今から中学の前に行くよ。だから、上原くんも来て。』

 行けない、と、俺は言った。自分がどんな声を出しているのかもわからないくらいだった、耳の奥に血の膜が張ったみたいにぼうっとして。

 『来て。』

 鈴村さんは、そう繰り返した。

 『正門の前で待ってるから。ずっと待ってる。だから、私が熱中症になっちゃう前に来て。』

 そして俺がなにも答えないうちに、通話は切れた。

 俺は、スマホを握った格好のまま、しばらく呆然としていた。

 ずっと待ってる、と言った鈴村さんの声は、本気だった。しっかりと強い意志に貫かれていた。だから、行かなくては。今日は暑いから、夕方になっても一向に気温が下がる意思を見せない熱帯夜だから、行かなくては。

 そう思うのに、身体が動かない。

 鈴村さんと会うのは、半年ぶりくらいだ。その間、俺は何度となく章吾に抱かれた。そしてその度に、どんどん汚い人間になっていった。今の俺は、鈴村さんから見たら、汚い化け物にしか見えないかもしれない。

 それでも、行かなくては。

 俺を好きだと言ってくれたときの、鈴村さんのまっすぐできれいな目を思い出す。

 あの目に映ってはいけないくらい汚い人間になってしまったのだとしても、行かなくては。鈴村さんは、待っていてくれるのだから。 

 俺はゆっくりと身体を起こし、ポケットに財布とスマホだけ突っ込んで部屋を出た。中学までは、歩いて10分くらいだ。

 到着するまでに気持ちが揺らぐのが怖くて、俺は走った。大体いつも章吾とだらだら歩いた通学路を、一人で走った。

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